「こんどいつきてくれんさるの?」
「おまい次第じゃ」
「しばらく会えんかもしれないね」
こういうやりとりの後、竹造は美津江のそばを離れていきます。
井上ひさし『父と暮せば』の最後の場面です。
美津江の中では、幸せになってはいけないと思う自分と、幸せになりたい自分が戦っています。戦火から生き永らえたため、原爆で亡くなった人に後ろめたいと思う気持ちが邪魔をして、自分が恋をしているのを必死に否定しています。
そんなとき、原爆で亡くなったはず美津江の父親が出現してきて、この物語が進行していきます。
甘酸っぱい恋をするときに、人はよくこころの支えになるような何かが必要になります、あるひとつの曲であったり、匂いであったり。そして音楽や匂いが必要になり、十分な役割を果たした後に、それらはさも何ごともなかったように記憶から消え去っていきます。
あの大震災のときに、誰からともなく支援と行動が湧きだしてきて、何かしらの役に立った後に、人はまたそれぞれの日常生活に戻っていったように。
竹造は自分で言うように、そんな「応援団長」です。そばにいて励まして背中を押しながら、叱咤激励をしてくれます。それが父親であろうと、恋人であろうと、友人であろうと構わないもので、またこの作品のように、生きている人でなくてもいいのかもしれません。葛藤が解消し、用が済めば、父親は去っていくしかありません。
美津江が重大な葛藤を抱えながら恋をしている局面で、死んだはずの父が出現し、娘を救い去っていく。こういった英雄譚のようなメタファーは、考えてみたら、時代劇とかドラマとかで頻繁に見られるような王道パターンでもあります。
その時代の人たちがいろいろな葛藤や迷いや悩みを持って格闘しているときに、物語やメッセージやメロディがそばに近づいてきて励ましてくれる、そして時代が過ぎると、過去の思い出になってしまい、記憶の片隅に残るだけになります。
背中を押して助言を与えてくれたり、そばにいて道を指し示してくれるような演劇や音楽・本などにまた巡り会うような予感がしないでもない、きょうこの頃。危機なんでしょうかね。笑。
小津安二郎「父ありき」 |
なんとなく竹造は笠智衆っぽい顔をしているんじゃないかと思っただけという。
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