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ブログ移行しました

ブログ「ささやきは遠音となって」、goo から blogger に記事そのまま引き連れて引っ越ししてきました。 こんどからはこちらから更新していきます!(。・ω・)ノ゙ コンチャ 以下はgooでのお別れの記事 ↓ 長く続けてきましたブログですが、 プロバイダを  goo から blogger に移行します 。 ブログタイトルは同じで、すべての記事も移植し終わりました。 引き続きお読みいただければありがたいです。 新ブログはこちら(blogger版) →  ささやきは遠音となって 新たにブックマークおよびRSSの変更お願いいたします。 bloggerに移行した理由は、 1、TwitterやFacebook、Google+などのソーシャルメディアとの連携がしやすいから (bloggerはグーグルのブログサービスです) 2、ページのカスタマイズがしやすいから こんなとこでしょうか。 たまに引っ越ししたくなるものですよねヽ(●´∀`●) こちらのgooブログはこのままにしておきます。 心機一転、週2ぐらいのペースで更新したいと思います/(^0^)\<フッジサーン

エミリー・ディキンソンの詩

あけましておめでとうございます。 不定期でいつ更新されるかわからないブログではありますが、ちょっとずつ更新しようかななんて思っています。 演劇の公演も終わり、また瞑想・迷走・(名僧?)の時期がやってきました。この冬を乗り切るには、いろんな薪をたくわえておかなければなりませんね。勉強あるのみ。知らないこと・初めて見ることなどに新鮮な気持ちで向き合いたいものです。 というわけで、またいろんな本を読んでみようと企んでおります。 いくつか気になる作家の作品を読もうと思って、まず急にひらめいたのが詩を読むこと。大学生のときは詩ばかり読んでいたような気もします。自分で詩も書いて、出版して印刷し、近い人10人くらいに配布した恥ずかしい思い出もあります。なんであんなことしたんだろ? 前々から好きな短詩というジャンル ♪ ♪ ♪ もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら 私の生きるのは無駄でない もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ 一人の苦痛をさますことができるなら 気を失った駒鳥を 巣にもどすことができるなら 私の生きるのは無駄ではない ♪ ♪ ♪ エミリー・デキィンソン(中島完/訳) こちらの本から抜粋「 自然と愛と孤独と エミリー・デキィンソン詩集 」国文社 エミリー・デキィンソンは19世紀のアメリカの女流詩人です。すてきな詩を残しています。 参考に ウィキペディア 紹介したブログもあります。 いやしの本棚 。 しばらくディキンソンに取り組んでいこうかなと思っております( ˘ ?˘)? で、おそらく同時並行してプラトンあたり… 吸収吸収、勉強勉強。 がががががあ・・・

葛尾村に墓参り

きょうは祖母の墓参りに行ってきました。原発から25キロ離れた、計画的避難区域の村のひとつ葛尾村。山間部にある村です。地震のために多くの墓が倒れて、その後新しく作った墓にみんなで花をやりに。前にも数十回ここは訪れたことがあります。 全村民いないのですが出入りしている人はちらほら。パトロールしている村民や警察の車とすれ違うことのほうが多いくらい。 途中ネコと出会いました。餌やりに来ているボランティアや村民の話は情報に入ってきています。 葛尾村は20キロ圏内の部分も含み、またちょうど風の通り道だったのか、一部の地区は異常に線量が高いのです。 サーベイメーター持っていきました。 お墓の近く仲ノ内地区は0.5〜0.69µSv/h。 村役場のある落合地区は0.5〜0.7µSv/h。 ちなみに12月28日の線量(11時〜12時)単位はµSv/h 東京都(新宿区)0.05 水戸市 0.07 福島市 0.91 環境放射能水準調査結果(都道府県別)(平成23年12月28日(水曜日)14時00分版) モニタリングポストでは12月28日の線量(11時〜12時)単位はµSv/h 福島市・佐原 0.32 いわき市・大久 0.27 飯館村・村役場 1.86 葛尾村・柏原 6.33 双葉町・石熊 13.77 ( 可搬型モニタリングポストによる福島県における空間線量率(1m高さ) )PFDファイル とりあえず道路が封鎖されて入れないところまで行くことにしました。 柏原地区といって、そこは原発から23キロ地点。 浪江町へ抜ける道路。県内に設置されているモニタリングポストでは常に2番目に高い数値です。役場からは2〜3キロしか離れていません。 福島県出身の駅伝・柏原選手が走っているちょうど同じ時間に、たまたま柏原地区へ行ったことになりますね。 そこへ視察に行く途中の山道を車で走っているときから、線量計はどんどん上昇。 役場近くの外で0.5〜0.7 µSv/h。 車内で数分間走っただけで、1.2→2.0→最終的には3.0 µSv/hまで上昇。バージョンアップじゃないんだから… 柏原地区の道路が封鎖されている分岐点で撮影。外に3〜4分ほどいましたが、値は5.5〜7.0 µSv/h。結構高い数値のようですね。 車内でまた測ると、...

お〜い、生きていたかぁ〜

おっと…久しぶりの投稿ですね。 これだけ間を空かすとなるとねえ。どうですかねえ。 今はグルッポ・テアトロでチェーホフ作「三人姉妹」に取り組んでいます。読んでいるぶんには面白い作品なのですが、いざ上演するとなると、しかもこの現代の問題意識に照らしあわせて上演するとなると、いろいろやらなければいけないことが多いんですよね。 でも、役者と協力してうまく進んでいます。老若男女、強力なメンバーです。 三人姉妹ブログのほうも開設しています。 グルッポ・テアトロ「三人姉妹」 ぼくも書いていますし、役者さんも書いてくれますね。ぼくが書くとどうしても堅苦しくて…困ったもんです。 このブログも復活しましょうね、はい。 また、堅苦しいこと書きましょう!ヾ(゚д゚;)スマソ

ことばは教えてくれない

サンクトペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場「小犬を連れた奥さん」を見てきた。芝居の質というか余裕というか、丁寧に作り上げられている芝居は、見ている人の想像を動かしてくれる。生活の真実がまさしく体現されていた。 特に質が高かったのは出会いの場面。非言語的なやりとりが舞台上で丹念に行なわれていて、視線や体の向き、人間同士の距離、ときおりもれるため息やつぶやきを推し量ることで、見知らぬ人の出会いに共感を覚えることができた。ロシア語の芝居だったが、言葉を分からなくても理解できるのは貴重な体験だ。 普段わたしたちは言葉で語ることよりも言葉を使わないやりとりでお互いを理解しているという。非言語コミュニケーション。電車のなかでお互いに距離をとって座席にかけるのもそれだし、路地でお隣さんが上を見上げていたら同じように上を見上げるだろう。 出会いの場において、実生活では非常に念入りに探りを入れている。それが5秒だとしても、たくさんのことをその間に行なっている。目を向けたりそらしたり、防御の姿勢をとったり友好のしるしを表したり、ぼさぼさの髪やよれよれのシャツをチェックしてみたり、指にはめられている指輪を確かめたり。 わたしたち演劇を作る人が追求すべきなのは、ことばをどのような言い回しでいうかとか、どんな感情でいるかということではない。まったく違う。ことばを発する間にしていること、行間の部分を埋めることなのだ。誇張が必要なのであれば、感情表現でなく、ことばを発していないときにしている「人間の行動」を細かく拾いあげ、丹念に、明確に表現すればいい。 「ことば」を人間の顔だとすると、からだで行なう「人間の行動」が根底になければならない。顔だけの人間がからだを回復する試み、これが演劇を作る人につきつけられた課題だと思う。セリフだけでない緻密さが望まれている。

想像力が眠りにつくとき

世田谷パブリックシアターでカステルッチ演出「神曲−煉獄篇」を見てきた。1週間前に、同じ演出家の同系列の作品「神曲−地獄篇」も鑑賞していた。「地獄」のほうにも不満はあったが、「煉獄」のほうは見ていられなくて途中で劇場から去ってしまった。途中退出する芝居に未練は残る。しかし、1時間見て退屈したものが、残り30分でスリリングになるとは考えられない。 「煉獄」とは地獄と天国の間のこと。死者の魂が清められる場。カステルッチはそれをブルジョア家庭の日常の場ととらえ直したらしい。退席する前まで見たブルジョア家庭は、人工的なものだった。人間がまるで人形のように覇気もなく動き、言葉を発するので、マネキン人形で演じられたエセ芝居のように感じられた。 ダンテの「神曲」を読んだときには、迫力や生々しいものを感じたものだが、奇才カステルッチの演劇「神曲」を見ると、小手先の観念や奇想だけしか感じられないのは、ぼくひとりの誤った見方だろうか。 この作品の宣伝や推薦文には「想像力を刺激する」といったたぐいのことが書かれているが、ぼくが感じたことは別。この劇を見ている時間に「想像力が枯渇する」もしくは「想像力が眠らされる」ように思えた。作品に対してのいらだちは無いのだが、舞台を見ることで生まれてくるものがなにもない。「あ〜、なんかやってるよ」といった冷めた見方。期待していただけに、敬遠の球を空振りしているようだ。 友人の芝居に対してはこんな毒を吐きたくないのだが、著名な演出家の作品で「奇才」とまであがめられている人の作品に対しては遠慮無く言わせてもらえるのはありがたい。いろんな芝居を上演したり、海外から呼ぶのは結構だ。しかし、評価もそれだけ厳しくしなければいけないだろう。 眠くないのに想像力は眠らされる。脳みそが腐ったような芝居をありがたがることはしたくない。

変化するもの

「保養」ということばがある。仕事や勤務から離れて心身の回復をはかることらしい。美しいものに接して、俗事を忘れうっとりするという意味もあるようだ。 ブログの更新が滞ったときのいつもの言い訳は「サボった」という言い方だが、これほど長期の休暇をとったわけだからそんないいぐさは通用しない。ただ、強制的に更新しなければいけないわけでもないし、こころに決めて書き続けようという意志があるわけでもないので、じっくり休んで静養するのも悪くはない。休養していたといって温泉地で疲れをいやしていたわけでもない。 短い過去をふりかえっただけでも、生活の一部は思いもよらない変化をしているものだ。何も変わらずにのんびりと過ごしている一面もある。全体としては何も変わっていないのが常だ…残念ながら。 エスプレッソマシーンを購入したので、インスタントからエスプレッソに劇的に変化したことは、自分のなかでは重大な出来事になる。手間はかかるが気分転換にもなる。粉も買わなくてはいけない。毎週コーヒー屋で豆をひいてもらうのが習慣になった。 いろいろなことのスリム化も大きな変化だと思っている。財布からでるお金を減らそうとしたわけではないが、無駄な買い物を控えるようになった。飲料や食料をついつい買ってしまう癖もなくなった。なによりも自分のからだのムダを省く習慣ができたことは収穫だった。夏から取り組んできたスリム化が効を奏しかなりの減量に成功した。リバウンドもないことだし、継続していこうと思っている。 対外活動という面では何も変化がない。はたから見ると何も変わっていない、かえって性悪になっているんじゃないかと思えるようだ。外面や行動がなにひとつ変化していないのは、そのひとが停滞しているように見えておかしくない。というわけで今は停滞期、かっこよく言えば潜伏期。格好よくないかもしれないが…

空からオタマジャクシ

自分の人生をふりかえると、誰にでも懐かしい音楽があるはずだ。CDの棚をのぞいていたら、大学時代に聞いたヴァン・モリソンのCDがあったので、さっきからくりかえし流している。当時の心象や風景が脳を刺激している。あのときあんな思いでこの曲を聴いていたな。 ヴァン・モリソンの「ASTRAL WEEKS」はいいアルバムだよ。心の奥を揺さぶるような歌もさることながら、伴奏するアコースティック楽器が低くうねりながらジャズの雰囲気をかもし出す。大学時代はこのCDを宝物のようにしていたっけ。何度も何度もくりかえし聴いていた、眠るときの子守歌にもした。 失恋のときは決まってテーマソングを選び慰めてもらっていた。いくつもの失恋ソングがあることやら。思いおこせばこっけいな習慣だったかもしれない。しみじみとするためにわざわざ電源をつけて、CDをセットして、再生して・リピートして。そんな状態だからこそ音楽のひとつひとつの音や歌に震えるほど感動したものだ。 体が動いていれば水を欲するように、音楽をほしくなるときもあるものだ。日曜の夜はとりわけ音楽が心にしみる。周囲の静けさがそうさせるのだろうか。古い友人に会ったかのように、懐かしい曲を聴いている。あいかわらず、みずみずしい姿で旧友は心を洗い流してくれる。 音楽の趣味がぴったりあう人はいない。しかし、人が自分の好きな音楽を楽しそうに語ることほど、こちらを幸福にさせることはない。ことばが音楽のように響いてくるから不思議なものだ。音楽をめぐる単語の多くにはイメージが息づいていると思う。音符のオタマジャクシ♪でさえも生きているかのようだ。 今夜は幸せだったかもしれない。旧友が変わらぬ歌声をきかせてくれたし、懐かしい心象が遠い過去から訪れてくれたので。怪奇現象にはしたくないが、今夜は空からオタマジャクシが降ってきてくれた。

ささやかな誓い

宮城野の稽古が大詰めをむかえている。謎解きのように登場人物の行動をほぐしてきたが、すべてが明らかになっているわけではない。同じように、実生活においても身近に接している人への理解すら十分とはいえない。心を通わせることも難しい。 見知らぬ人と接する機会に、お互いが感じよくなれることもあれば、敵意むき出しのこともある。あかの他人を装おうとして距離をおく場合が一番多いかもしれない。こちらが好意的に接しても無反応な場合ほど悲しいものはない。すれ違いを重ねるうちに、自分もすれっからしになるものだから悪循環である。 いつも感じの良い反応をしてくれる人がいるが、そんな人には全面の尊敬をささげたい。人間的なふくよかさ・豊かさが、心を慰め温かい気持ちにさせる。自分をかえりみるとよく分かる。どれほど環境や気分に左右されていることか。恥ずかしいくらいだ。 フランス語の「sympathique(サンパティック)」ということばに初めて接したときは衝撃だった。人間の柔和な態度をほめることばとして使われていた。「感じのよい」「心地よい」といった意味だ。人の魅力をうまく言い表していると感心した。 しかめっつらや無関心、かしこまった態度や横柄な態度は簡単にできる。しかし感じの良い態度はやろうとしてできるものでもない。妙になれなれしい態度や心のこもってない笑顔は、かえって警戒を与えてしまう。 感じよく接することが難しいなら、感じよく接してきてくれる人に素直に従えばよいのでは。“sympathique”には「共感しあう」という意味もある。柔らかさを与えてくれる人に接するときはこちらも柔らかくならなければならないというわけだ。赤ちゃん相手に力むほど惨めなことはない。自分のなかで力が入る部分、きっとエゴイズムの部分なのだろうが、そういうところを武装解除しようと緩やかな誓いをたてている。

情熱をもつ

別府史之さんという自転車選手が自戒をこめた語り口調でブログに書いていた。クールになりすぎた、情熱をもつことを日々の生活で忘れかけていたという趣旨だった。一生懸命がんばる毎日で、好奇心などを失っていたという。自分に欠けていたものは「情熱」だと。 折しもジロでディルーカが鬼のような執念を見せ、それに呼応してファンが熱狂的に沿道で応援する姿をかいまみて、何か美しいものに触れたような気がした。ジロの一陣の風が吹き去り、取り残されたこの日常にぽかんと大きな穴を感じた。それはこの日常が空虚だからではなく、熱いもの・情熱的なものが手元を離れたからだろう。 がむしゃらに突進し、毎日を精いっぱい生きることも重要だ。しかしそのような日々に慣れて、余暇を楽しむ感覚や感受性を働かせる機会を逃してしまうのはもったいない。美しい景色を前に無感動になっている自分に気づくほど腹立たしいことはない。 これからの毎日を初々しく生きてみようなどというのは無理なスローガンだが、風化していた生活の一断面を活性化させることはできそうだ。「事務的」におこなっていたことを「人間的」に直せないか。あいさつや歩き方から始まって、趣味や仕事にまで拡大できるのではないか。 「事務的」ということほど、それを受けたときにざらついた気になるものはない。当人は無意識に悪意もなくおこなっているぶん、余計むなしい。手紙でのやりとりや実際に対面しているときも表れる。顔見知りなのに知らないふりをされて戸惑ったこともあったっけ。 別府選手のブログをたまたま見つけ、情熱をもつことへの美しい自覚の瞬間を目の当たりにし、ディルーカの神がかった気迫を見るにつけ、今の生活のなかで、重要な部分を錆びつかせてはいけないなと痛切に思うようになった。偶然か、きょうみた夢で、兄がしおれた植物に水をやって必死に再生しようと試みていた。