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想像力が眠りにつくとき

世田谷パブリックシアターでカステルッチ演出「神曲−煉獄篇」を見てきた。1週間前に、同じ演出家の同系列の作品「神曲−地獄篇」も鑑賞していた。「地獄」のほうにも不満はあったが、「煉獄」のほうは見ていられなくて途中で劇場から去ってしまった。途中退出する芝居に未練は残る。しかし、1時間見て退屈したものが、残り30分でスリリングになるとは考えられない。 「煉獄」とは地獄と天国の間のこと。死者の魂が清められる場。カステルッチはそれをブルジョア家庭の日常の場ととらえ直したらしい。退席する前まで見たブルジョア家庭は、人工的なものだった。人間がまるで人形のように覇気もなく動き、言葉を発するので、マネキン人形で演じられたエセ芝居のように感じられた。 ダンテの「神曲」を読んだときには、迫力や生々しいものを感じたものだが、奇才カステルッチの演劇「神曲」を見ると、小手先の観念や奇想だけしか感じられないのは、ぼくひとりの誤った見方だろうか。 この作品の宣伝や推薦文には「想像力を刺激する」といったたぐいのことが書かれているが、ぼくが感じたことは別。この劇を見ている時間に「想像力が枯渇する」もしくは「想像力が眠らされる」ように思えた。作品に対してのいらだちは無いのだが、舞台を見ることで生まれてくるものがなにもない。「あ〜、なんかやってるよ」といった冷めた見方。期待していただけに、敬遠の球を空振りしているようだ。 友人の芝居に対してはこんな毒を吐きたくないのだが、著名な演出家の作品で「奇才」とまであがめられている人の作品に対しては遠慮無く言わせてもらえるのはありがたい。いろんな芝居を上演したり、海外から呼ぶのは結構だ。しかし、評価もそれだけ厳しくしなければいけないだろう。 眠くないのに想像力は眠らされる。脳みそが腐ったような芝居をありがたがることはしたくない。