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ことばは教えてくれない

サンクトペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場「小犬を連れた奥さん」を見てきた。芝居の質というか余裕というか、丁寧に作り上げられている芝居は、見ている人の想像を動かしてくれる。生活の真実がまさしく体現されていた。 特に質が高かったのは出会いの場面。非言語的なやりとりが舞台上で丹念に行なわれていて、視線や体の向き、人間同士の距離、ときおりもれるため息やつぶやきを推し量ることで、見知らぬ人の出会いに共感を覚えることができた。ロシア語の芝居だったが、言葉を分からなくても理解できるのは貴重な体験だ。 普段わたしたちは言葉で語ることよりも言葉を使わないやりとりでお互いを理解しているという。非言語コミュニケーション。電車のなかでお互いに距離をとって座席にかけるのもそれだし、路地でお隣さんが上を見上げていたら同じように上を見上げるだろう。 出会いの場において、実生活では非常に念入りに探りを入れている。それが5秒だとしても、たくさんのことをその間に行なっている。目を向けたりそらしたり、防御の姿勢をとったり友好のしるしを表したり、ぼさぼさの髪やよれよれのシャツをチェックしてみたり、指にはめられている指輪を確かめたり。 わたしたち演劇を作る人が追求すべきなのは、ことばをどのような言い回しでいうかとか、どんな感情でいるかということではない。まったく違う。ことばを発する間にしていること、行間の部分を埋めることなのだ。誇張が必要なのであれば、感情表現でなく、ことばを発していないときにしている「人間の行動」を細かく拾いあげ、丹念に、明確に表現すればいい。 「ことば」を人間の顔だとすると、からだで行なう「人間の行動」が根底になければならない。顔だけの人間がからだを回復する試み、これが演劇を作る人につきつけられた課題だと思う。セリフだけでない緻密さが望まれている。

想像力が眠りにつくとき

世田谷パブリックシアターでカステルッチ演出「神曲−煉獄篇」を見てきた。1週間前に、同じ演出家の同系列の作品「神曲−地獄篇」も鑑賞していた。「地獄」のほうにも不満はあったが、「煉獄」のほうは見ていられなくて途中で劇場から去ってしまった。途中退出する芝居に未練は残る。しかし、1時間見て退屈したものが、残り30分でスリリングになるとは考えられない。 「煉獄」とは地獄と天国の間のこと。死者の魂が清められる場。カステルッチはそれをブルジョア家庭の日常の場ととらえ直したらしい。退席する前まで見たブルジョア家庭は、人工的なものだった。人間がまるで人形のように覇気もなく動き、言葉を発するので、マネキン人形で演じられたエセ芝居のように感じられた。 ダンテの「神曲」を読んだときには、迫力や生々しいものを感じたものだが、奇才カステルッチの演劇「神曲」を見ると、小手先の観念や奇想だけしか感じられないのは、ぼくひとりの誤った見方だろうか。 この作品の宣伝や推薦文には「想像力を刺激する」といったたぐいのことが書かれているが、ぼくが感じたことは別。この劇を見ている時間に「想像力が枯渇する」もしくは「想像力が眠らされる」ように思えた。作品に対してのいらだちは無いのだが、舞台を見ることで生まれてくるものがなにもない。「あ〜、なんかやってるよ」といった冷めた見方。期待していただけに、敬遠の球を空振りしているようだ。 友人の芝居に対してはこんな毒を吐きたくないのだが、著名な演出家の作品で「奇才」とまであがめられている人の作品に対しては遠慮無く言わせてもらえるのはありがたい。いろんな芝居を上演したり、海外から呼ぶのは結構だ。しかし、評価もそれだけ厳しくしなければいけないだろう。 眠くないのに想像力は眠らされる。脳みそが腐ったような芝居をありがたがることはしたくない。

数字で書かれた物語

二日連続で文学座のアトリエを訪れたことになる。昨日は作家の隣の席で、今日は最前列という、どうも劇に集中せざるをえない環境におかれて、そうなればなったで満足だな。 うん、楽しかった、今日のほうは。人数も同じくらいの登場の密な舞台なのだが、今日の場合はまず、登場人物がみな仲間だという設定が、人間関係の濃密な歴史の過程を途中から始められるという利点があったように思う。それを観客は推理できるしね。 重苦しい話ではないことは知っていたが、昨日の作品と同じように死、しかも自殺の話ではある。この二作品をとりあげる鍵となるテーマは死、自殺のように思えた。ただし、両作品をみればわかるが、『数字』のほうは自殺はナレーション上だけで、『犬』のほうは舞台上か、舞台袖で人が死ぬ。前者は自決する意志を感じさせることは舞台の上ではなにひとつなく、ある意味、死を軽蔑するかのように脇道を歩き、おそろしく遠回りをしてばかりいる。後者は、直線的ではないが、向かう場所を知って、あきらかにそこに向かっている。 『数字』の話だけをすると、新興宗教のカルト教徒と思わせる人間でなく、死期を意識している人間でもなく、なぜかつまらない世俗の些事にこだわって生活している人間が逆説的に、とてつもない行動を起こしていることがおもしろい。会話はすべて理屈や、揚げ足とりや、ちっぽけな小言に執着したりと、教団の思想的な話などなにひとつしない。それでいながら、ナレーションで伝えられるのは、餓死殉教や、切腹や、服毒などの過激なことばかり。舞台上では議論ばかりして、風船遊びのただひとつの行動さえおこすのに時間がかかるのに、伝えられるのは思いつめた行動の結果だ。切腹の未遂の傷も、傷の生活上の興味にだけ絞られて、かえっておもしろがっている。 ここに、巧妙な身のかわし方を見る。過激な行動、死への行進、思いつめた思想をアイロニカルに否定し、おそろしい回り道、日常のこまごまとした面倒なこと、ゆったりとした足取りに光をあてる。その世俗的なことに、排除の構造があったり、自己保身があったりはするが、死の行進と比べるとそれはかえって生を豊かにしているかのようにも思える。この、死を傍らに置き、そこへ向かう人間に、生の豊かさがみられることは貴重なことだといわねばならない。そこにこそ人生の一面をはっきりと見られると思う。それが、『犬』には無かっ...

犬が西むきゃ尾は東

観てきました。明日は同じ文学座の同じ別役作品。 そういえば、先週の土曜日は昼夜と同じ作品を観て来たな。同じ清水邦夫の『楽屋』を、同じ日に、同じ阿佐ヶ谷で、ふたつの公演とも友人が出演していると、偶然が重なって、結局戯曲にたいする理解が深まったのと、二公演の比較を楽しめて、興味深い一日だった。それもそのうち書こうっと・・・ で、文学座の別役作品。偶然、隣の席が別役氏で、その隣が演出の藤原氏という、緊張を強いられるポジションに立たされた(座らされた?)わけで、純粋に楽しもうとする以外の演技も入った観劇だった。というのは、へたに中途半端に笑うのはいけないと思ったわけで(カラカラ笑えるものでもなかったが)、またへたに居眠りこくのは失礼だし(あいにく今日は眠くならなかった)、要するに、隣の別役オヤジに、ぼくが本当におもしろいなら笑うが中途半端なら一切笑わんぞという意思表示をしていたわけで、観劇中に何をしているんだというこったな。 つまり、心は軽やかに待機しながら、厳しい目で観ていたわけだ。これじゃ観劇じゃなくて、稽古場だなと思ってしまった。 だからというわけではないが、緊張感を保てたために、戯曲の意味や本質に深く思いをめぐらし、登場人物のあれこれの行動やことばを考えることができた。が、結論はでなかった。それでいいのかもしれないが、テーマ論的にみると、いくつかのテーマがあげられる。記憶、人生、死、集合離散。作品の前半は花のない花見という集まりだったのが、作品の後半になるにつれ、死のテーマが重くのしかかってくるのは人生の縮図であると解釈できるし、幕と幕をつなぐ間の記憶が問題になってくるのもわれわれ人間の不確かさなのかもしれない。 つねに西に向かうのは西方浄土だと戯曲中にあるし、そこへの歩き方はつねに「だるまさんがころんだ」のようにリズムを伴っている。それを口ずさまずには歩けないわれわれ身寄りのない人間たち。 幕の構成も四季の設定にのせて、人生の春から、冬の死まで、人生とともに歩む。 しかし、なぜほとんどの登場人物が自らの命を絶つのだろうか?それ以上の解決方法はないのかというのが、おおいなる疑問である。それが70歳になった別役氏の見た世界で、ぼくのようなその半分にも満たない人間には分からない人生の生き様なのかもしれない。なんの老化もしていない演技をしながらも、体の...

ファルスタッフ

その瞬間、舞台と観客席は一体となって、ファルスタッフを河の中に落とした。まさしく共犯的な笑いを浮かべて、喜んで拍手喝采した。今夜の新国立劇場でのオペラ公演『ファルスタッフ』での出来事だ。 舞台の観劇が多くても、こういった瞬間は必ずしも多くないもので、だからこそ、今夜それと出会えたのが嬉しかった。 J.ミラーも、この作品を4度演出しているようで、作品を手馴れた扱いをしていたと思う。余裕をもって演出しているようで、その余裕がファルスタッフの体をきつい衣装に包まなかった。遊びがいたるところに散りばめられ、その小細工を思い出すだけでも楽しい気持ちになる。舞台が細部の楽しげな印象とともに記憶に残るのは、演劇の幸福な体験だ。感覚的に目に残像として残るだけでなく、語ってみたい気持ちになるほどのかわいさをもった舞台のきれはし。 それが見事にはまったのが、冒頭にあげたファルスタッフを河に投げ込む場面だ。 舞台美術もからくりのようでおもしろかった。ただし、最終幕の森の中の美術はおおざっぱすぎて機能を果たしていない気がするが。 特に、二幕のフォード邸の装置は、いろいろな仕掛けや場面が集約されていて空間がすんなりと意識に入ってくるほど秀逸だったと思う。 一幕の二場のアリーチェとナンネッタの二重唱はとても美しかった。ナンネッタ役中村恵理のソプラノはまるでハーモニーのように透き通って聞こえたから不思議だ。普通、ソプラノがキンキン高い音で耳障りにも自己主張する印象がぼくのなかにはあって、あまりソプラノを好きでないのだが、ここでの中村の歌は心の琴線を確かにとらえた。カーテンコールでもひときわ拍手が大きかったのが彼女だった。納得のいく話である。 ほんと良いものを見せてもらったという感じだ。ミラーの演出はくっきりと輪郭があって、豊富な発見の機会を提供してくれたし、オーケストラ・指揮も音楽で演出をしっかりしていたと思う。演技と音楽が表裏一体のように結びついていたのが驚きだった。ヴェルディのスコアやボイドの台本のできばえもあるのだろうが、ひとつひとつの行動に音楽が寄り添う印象があり、だからこそ、場面に輪郭がはっきり浮き出ていたのだろう。この公演は成功だと思う。 といって、不明瞭なところ、これはどうかと思ったところを書かないと、賛辞だけになってしまうので、言っておく。3幕のラスト、...

ばらの騎士

昨日の話だが、新国立劇場でオペラ『ばらの騎士』を観た。仕事帰りだったせいか、三幕中一幕目は眠ってしまった。オーケストラをバックに居眠りできるのは贅沢というものだ。しかも演出はジョナサン・ミラーだというのに。 というわけですべて観たと胸をはっては言えないのだが、なかなかおもしろい公演だったと思う。三幕の人物たちの仕掛けは見事に有機的だったし、廊下の見える舞台装置は部屋の中外での連続性と差異、ドアの存在が鍵となってスリルをもたらすものだった。 ミラーも演出ノートに書いてある通り、オペラの因習的なジェスチャー大会はこの公演では目立たなかった。陳腐な慣習を排除するという点において鋭角だった分、歌手が棒立ち、もしくは椅子に座って顔だけ客席に向けるといった単調さに陥ってしまったのではないだろうか?場面の葛藤や事件が明確に分かるときと、単調に歌・会話をしているときとはっきりと分かれてしまい、後者は退屈だった。 主だった登場人物が単独で部屋に入ってくるときの目的性や存在感はしっかり出ていて、歌うために入ってくるような陳腐さは感じられなかったのは見事。群集の動きもひとりひとりに目が行き届いていて、廊下で起こっていることの現実性がきちんと出ていた。ひとりひとりをないがしろにしない演出だなと思った。 三幕の喜劇的な場面も、そのせいか、しっかり場面が作られていた。ひとりひとりが躍動していた。手を抜かないで注意を持続すれば、有機的に豊かな場面が作れるいい見本だ。 ツィトコワという歌手は素晴らしかった。歌はまあ並かなという印象を受けたが、演技と立ち姿は役をしっかり体現していたと思う。ふと思ったのだが、この人こそアヌイの『ひばり』にふさわしいのじゃないか?松たかこでなく。 ただし、台本上しかたがないのだろうが、キスシーンは現実は女性歌手の女同士だという先入観を拭い去るような高まりはなく、気持ち悪いとういうより、居心地が悪いものになってしまった。 時代の置き換え、時代の波の押し寄せといった演出意図は感じ取れなかった。きちんとした時代考証を経ての決断だろうが、観るこちら側に何の予備知識もなく、その違いが黒白はっきりするものでなかった性質上、この演出はぼくにはディレッタンティズムのように思えてしかたがないのだが、いかがなものか?実験性は買うが、微妙な差異を感じ取れないのは、ぼく...

恋でいっぱい(?)の森

土曜日に、以前ぼくが在籍していた劇団の公演を観てきた。原初的ミュージカルというキャッチフレーズだったが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』『空騒ぎ』『お気に召すまま』の三作品をかいつまんでひとつにまとめた『恋でいっぱいの森』という作品だ。 詳しくいうと、劇団東演の公演で、演出は福田善之、福原圭一。初演は恥ずかしながらぼくも出演していた。声をはっていえないのだが、ぼくはこの初演の落ちこぼれで、無様な演技をしたから、今回の元同僚たちのことを厳しくいえた身でないのだが、無責任にいうと、つまらない公演だった。 要素はいくつかある。まず演出、四方八方に手を出しすぎて何をやりたいのかがわからない。アイデアがあるのはいいのだが、思いつきの領域から進んでいない。これはぼくの意見。たいていの人は演出のバリエーションに驚くだろうと予想するが、ぼくはそこが落とし穴だと思っている。肝心なものが欠けている。和服と洋服のアンバランスも意図が分からないし、コスプレを楽しんでいるとしか思えない。最終の森の銃撃も唐突すぎるし、文脈のない飾りにすぎない。福田氏は作家ではあるが、ここではシェイクスピアを料理している。その料理の器用さが味を薄めている。そして自分の技術と野望だけで素材を理解していないような気がする。シェイクスピアにしても、俳優との共同作業についても。 根本的に間違いなのは、三作品とも外見と中身の乖離が問題なのに、外見ばかり作り出すことに精一杯で、中身の本質的な人間的な性質の追及はなされていない。役者まかせというのか?だいいち念入りなテキスト分析が全員に共有されていたのか?演出家自分ひとりが分かっていても仕方が無い。絵空事で踊り・歌われても伝わってくるものは何もない。 いったい何を問題として、この公演をしたのか? 今、ぼくは、書いていてかなり抑制している。大きな声では言えないのだが、言わずにはいられないから書いている。御大にたてつくのかといわれそうだが、つまらないものはつまらない。小手先の技術以上のものが見られないのだから。 今日はこれでやめておく。眠くなった。びくびくしながら書いているにしてはいい度胸だ。また思いついたら書く。福田氏のためにも、自分のためにも。

内閣総辞職

怒りをこめてふり返れ! 大上段に構えてみたが、政治の話ではない。いや、ある意味政治かな? 新国立劇場の演劇研修所の公演を見てきた。国立の演劇学校だし、批判にさらされることは義務でもあるので、友達の公演のときは言いたくても黙っていることを、今回はおおっぴらに公言したい気分になっている。 それほどひどい芝居だったのである。ブレヒトの『三文オペラ』 判官びいきなので、金のない中で工夫して質素な舞台になる集団の公演は大目にみるのだが、今公演のように新国立の小劇場でやれるという恵まれた環境のもと、衣装も小道具も豊富で生演奏もついているとなると、どうしてもちくちく棘をさしたくなるものだが、それ以上の毒針でもって攻撃するのが妥当ではないか?なんて思えるほどの「すごい」舞台だった。 とはいっても、判官びいきの癖はぬけきれない。この大失敗の責任はスタッフにあると断言する。こんなふうに育てた親が悪いのだ。戯曲選び、演技方法、公演への取り組み方。国立の劇場だから、公の行政や司法に用いる権利を行使できるのであろうか?できるなら、さっそく、内閣にあたる所長、委員などの罷免を求める。ずらりと並んだ講師の名前は虚しく飾られている。今日観客として観に来ていた講師はどう見ていたのだろうか? 選挙で選んだわけではないが、リコール、過激になって退陣要求だ! 二年間なにしていたの?何を教えていたのか?やってはいけないことばかりやっているじゃないか、こどもたちは。癖ばかり露呈するか、芸と呼ばれる演技の化粧ばかり。感受性が問題なのに、そういった演技をするのが罪であるかのように、みんな芝居臭い。人間がいない、みんな芝居の嘘ばかり。演劇は芝居の真実を目指すのであって、芝居の嘘じゃない。舞台の上で役を生きることを目指している役者がいなかったんだな。みんなまったく別次元のところから、あらぬ方向へ向けて演技している。いや、演技というまい。 こんなことは、ある定まった環境や方向性があれば最初からクリアーした地点から出発できるのだ。つまり、この研究所には定まった方向性や、最低限の演技の質の統一見解がなかったことになる。こんな指導者たちに国立の養成所を任せてもいいのだろうか? 今公演に携わったスタッフの名前は豪華だし、出てきた小道具・衣装も立派だし、生演奏もついているから余計に頭くるのかな?一緒に...

移民の歌

ここ数日、悲しい、重大なニュースが日本・世界をめぐっている。 今日は、アメリカで起こった、韓国人留学生の引き起こした射殺事件から思ったことを語りたい。 ここ最近、ぼくはアメリカづいている。というのも、舞台を観たという観点なんだけどね。リンカーンに関してと、今日観て来たプッチーニの『西部の娘』のふたつ。 いうまでもなくリンカーンは射殺された。また、リンカーンは新しい土地をめざして移動したい誘惑はかなりあったらしい。それをおさえて政治家になったようだ。 『西部の娘』の舞台の演出家の見出したテーマは移住者の心の悲しみ。移民の国としてのアメリカ。このオペラのなかでも、保安官が銃で恋敵を撃つか撃たないかということが劇的なクライマックスとなっている。で、結局は撃たなかった。 銃で撃つこと、撃たないことを隔てる壁はなんなのであろうか?そしてまた、移民の国アメリカにつきまとう銃のイメージはなんなのであろうか? 今回の韓国人留学生の事件は、国籍を問題とすることは意味がない。個人の人間に問題点があるのは当然だが、アメリカで起こった事件、しかも移住者の起こした事件という観点が、ぼくにはひっかかるところがある。まあ、いまさら何々系移民だから、どこからきたからといって、それを問題視するのも古くさいだろうし、移民という市民権は当然得ている。 アメリカのように資本主義と民主主義が高度に発達している国で、武器による威嚇・権力が当然視されている矛盾は、どのように説明できるのであろうか?市民レベルに銃口が見え隠れし、国家レベルではあからさまに銃で威嚇することは、アメリカという国家の成り立ちと関係しているのではないか?そして、移民という概念が重要になっているのではないか? 単なるこじつけか、偶然なのかわからないが、移民、銃というふたつのキーワードがアメリカという国を考えるときに、表層に浮かび上がってくる今日この頃である。

西部の娘

新国立オペラのプッチーニの作品。 オペラのことを語るには、年季が足りないが、見たまま、聴いたまま、感じたままを綴る。 オペラを観ていつも感じるのは、自分が客席にいて、音楽の豊穣な波に飲み込まれて、さまざまなことを想像していることだ。それは、そのオペラの内容にかかわることでなくてもいっこう構わない。内容から連想されること、見えて聞こえることから導き出されること。想像力が翼を生やし、音に包み込まれて、夢を見ている、という言い方は陳腐なものか?しかし、そういう表現があてはまるような状態にあることは確かだ。 現代演劇を観劇するときに迷惑する、周囲の騒々しさも、音に飲み込まれる。 まあ、オペラについて語る必要はあるまい。この上演について思ったことをひとつふたつ。 まず、演出家のホモキが持ち出したテーマ、移住者の心、祖国を失った者のテーマは、パンフレットを読むまでもなく、理解でき、また常にそこを底辺とした物語になっていて、しかも明確に描き出されていた点は感心する。終始一貫、根無し草的な人間が、ある仕事、ある事情で集うこと。移住の国。放浪が大いに許容される国。終幕に合唱で「もうあのふたりは戻って来ない」というところでは、テーマの対するひとつの回答が提出されていた。 この、テーマに基づき、その文法で物語を語るという、演出家の手法は、常套であり、また正統でもあるのだが、この上演のように、単純明快に提出されている事例に出会うことは、あまり多いとはいえない。今回の上演がまるで底の浅いものと勘違いしてしまうくらいだ。 ただし、ダンボールの舞台装置、なにが詰まっているのか最後まで分からなかったカートの荷物、多国籍を説明しすぎて無国籍になった衣装は、まったくの失敗だとぼくは思う。 物語の主題を抽出するときのホモキは、明快で思い切っているのだが、それを視覚で語るときの手法は説明過多であり、本質の抽出は見当たらなかった。舞台装置、小道具、衣装のなにかひとつのものが、移民の悲しみを語るものとして特権化してはじめて、舞台上に存在できるものなのに・・・字幕によって、ああ、あの場面は酒場だったのね、ああ、原本ではドアがあったのねとわかるようでは、興ざめしてしまう。 オペラの独壇場なのが、音楽の言語でドラマを語ること。これを見たいがために、ここに感激したいがために、オペラがあるの...

イリノイのリンカン

この朗読劇はリンカンの生涯を綴ったもので、ぼくの大学時代の恩師、荒井良雄先生がR.E.シャーウッドの劇を再構成し、翻訳した郡読劇である。登場人物を絞り込み、リンカンが大統領に就任するまでの苦闘を描いている。焦点は、リンカンが愛し、また愛された、恋人や協力者との葛藤や、自分や協力者の問題と政治的な使命感の間の揺れ動きにある。 ぼくは朗読劇に懐疑的ではあるのだが、そのことは置いておくにしても、テキストとにらめっこしながら朗誦する俳優の姿をみるにつけ、もっと違った上演方法はないのか、どうしてそこで急に声をはりあげるのか、中途半端に顔をしかめるのはなんなのか、といった細かくはあるが、重大な疑問を抱え込んでしまった。 台本を媒介にして、朗読を聞かせる劇とはいえ、そこには作家の言いたい真実や詩があるはず。そこにどっかり腰をすえて、その詩から出発し、俳優を仲立ちにし、観客はその詩に到達する。 俳優が詩人の仕事を邪魔だてし、そこに技術的な抑揚や、よそもののような安易な感情や、陳腐な芝居ごとを持ち込んだりしたら、印象に残るものは、俳優の技芸だけでではないか? それならいっそ、棒読みでも、椅子に座ったままでも、作品の世界を単純に読み上げるほうが、伝わるものが多いのではないか? 中途半端が一番いけない。 舞台として、登場人物が立って向かい合うからには、その役同士になにかしらの交流・火花があるものを期待する。現実ではどんな些細な状況でもそれがある。 しかしこの上演は、同じ空間で向かい合いながらも、俳優が個人個人の技量の範囲内で読み上げていた気がする。 隣にいてもひとり。 構成・翻訳がわが恩師であり、出演者に友人もいたのだが、こんなにネガティヴな発言をしてしまう。 ただただ、良い劇をみたい。 良い劇をつくりたい。 原作:R.E.シャーウッド 翻訳・朗読台本:荒井良雄 演出:吉岩正晴

別れの唄

2007年4月7日(土) 『別れの唄』 今日、シアタートラムで日仏合同公演をみてきた。平田オリザが4年かけて作り上げたプロジェクトだとかいう。戯曲にも、演出にも、舞台装置にもその形跡が残されていた。 中心になるテーマは異文化のズレ。この枠からはみ出ることなく、物語としては広がりが欠けるのだが、主題となる様々な点、すなわち、葬式をめぐる国籍間の差異、そこに浮き出る誤解、ゆくゆくは理解にいたる過程、普遍的な人間性などが展開されていくことで、物語的な狭さは、かえってその狭さゆえに、主題的な幅の広さに道を譲り、豊富な切り口で、このお通夜前の夕方の集約された時間を意義深い、色彩の濃いものにしている。 観劇しながら、小津安二郎の映画を何度も思い起こしたのは、偶然ではない。作者にも、演出家にも、この映画監督の存在は、つねに片隅にあったであろう。普遍的な人間性、家族、そしてフランスという国。 抒情的なものが極端に省かれ、つねに差異を見つめるまなざしにあったことで、この世界がどんなものであるのかを楽しみながら学ぶことができた。 作者が日本人であること、公演の場所が日本であることから、この上演は日本人の立場から見た差異となったのだろう。たとえば、この公演がフランスで行われているときに、フランスのお客さんはどういう視点を、この上演に確保できるのか?それを想像するのはなかなか難しい。葬式の段取りひとつ、ほぼ知識もなにもない観客に飛び込んでくるものは、日本の文化的風土に育った人間には笑いとなるようなものであっても、まったくの異物にしか思えないのではないか?それとも、フランス人夫婦のような、驚きながらも、理解する態度をとるのだろうか? さて、わたしたちは、ここからどこへ行こうとするのか?この点がはっきりと打ち出されていたことが、カリカチュアに終わった葬儀屋の存在も、風俗の説明的な会話も、にわかにフランス人とは(もしくは人間とは)信じられないようなおとなしさも乗り越えて、意義のある成功した舞台につながったのではないだろうか? おもしろかった。観劇でこういった知性に訴えかけるものに出会ったのは、久しぶりだ。 作:平田オリザ 翻訳:ユタカ・マキノ 演出・美術:ロラン・グットマン