今日はワークショップをやった。 シアターゲームとエチュードを中心に。 有意義な一日だった。 ワークショップを開くとき、必ず気にかけるのは、集まった俳優はその場にうちとけられるかということ。というのは、ぼくはそういった場に溶け込むことが苦手だから。ほぐすために、シアターゲームを使っているのだが、一番うちとけていないのは、気負いすぎのぼくかもしれない。 そしていつも不安になるのは、俳優はぼくを信頼してくれているかということ。おどおどしているわけではないが、内心大きな不安をかかえてはいる。博打をうつような大胆さをもって進行しなければ俳優が不安になるので、そこは開き直ってなんの迷いもなく行動することにしている。 つねに、そんな不安と戦いながらやっているから、稽古のあとの食事や乾杯が楽しいのだろうか? 俳優としてやっていたときも、演技はこれでいいのかという大きな不安を抱えながら、やるしかないと踏み切ってしまえば、あとは開放感が待っていてくれる。 大雨の日のメッセンジャーの仕事も、終了後の安心と達成感と苦労とで、なにげに同僚たちの雰囲気は高揚している。 そうか!つねに大きく強いものと戦えばいいのか! 自分をネガティヴにさせるような蜘蛛の巣をふり払う努力をすればいいのか! 戦えば戦うだけ、その見返りは大きいのだろう。 逆にいえば、戦うものをなくしているときほど、惨めな状態はないのか? 「多くの演技者が感ずる気おくれやはにかみは、害があるどころか、かえって有益なものであり、必要でさえもあるくらいである。・・・こうした不安感を使いこなし、みずからを役の高さにまで高めなければならない。このような恐怖やはにかみを利用することができてこそはじめて真の職業俳優になれるのだ」 (L.ジュヴェ) その障害が自分の内心にあるのであれ、肉体にあるのであれ、外部にあるのであれ、乗り越えようと戦うことが大事だ。安易な結着をつけるのでなく、負けてもいいからぶつかっていく。ぶちあたって初めて相手を知ることができるのだ。相手を変えることができるのだ。 武満徹はどもりのマニフェストと称して、どもりを称揚している。 「どもりはあともどりではない。それは前進だ。どもりは、医学的には一種の機能障害に属そうが、ぼくの形而上学では、それは革命の歌だ。どもりは行動によって充