おおよそ、この社会に生きていて、絶対の孤絶というものはありえないのだが、仮に無人島などに生き、ほかの人間に少しの意識も払わない状況があるとすれば、その状況では寂しさとか、わずらいなどがあまりないであろう。自分の部屋にこもって一日を過ごす延長だろう。
人の世に生き、なにかと協力せずには生きられない環境の場合、周囲の発する、そして自分の発する、伝染力はすさまじいものだと感じる。
自分が少々不機嫌であったりしたら、とたんに周囲はぼくを警戒する。機嫌取りをする人なんて底意があるか、同情してくれる人に限られる。不機嫌は伝染するものなので、周囲はそれを防御しなければならない。しかし防ぎきれず、無視することもできなくなったとき、不機嫌の菌はあっというまに周囲にひろがる。小集団のなかでそれがおこると致命的である。あとはその集団の中で、意地悪い食いちぎりあいが始まる。不機嫌は放置しておけば最悪にいきつく。
反対に、自分が幸せそうな顔をしていたら、周囲はぼくを温かく見守るか、好意的に接してくれる。不機嫌の場合と反対に、周囲も幸せそうな態度でもってこちらと接点を持ちたがる。それが機会となって周囲の雰囲気にも、そんな幸福を共有するかのような、親切で思いやりもあり、柔らかな温かい態度が蔓延する。幸福の菌は不機嫌の菌を包み込んでしまう。
「幸福は伝染するものだ。もし幸福になろうと思うなら、幸福な人々のなかで生きたまえ」 (スタンダール)
わたしたちは、自分が人にどんな印象を与え、それがどんなにその人の印象判断に重く影響を与えているかは無頓着だ。
恋をしていたり、大切な人や、重要な商談の前では、誰しもそんなに自分に無頓着にはなれまい。たえず相手の立場を気遣うものであろう。自分が与えるものに敏感に反省をめぐらせるのはそんなときかもしれない。
「人間の状態というものは、不屈の楽観主義を規則中の規則としてみずからにあたえるのでなければ、たちまちもっとも暗い悲観主義が真実なものとなる」 (アラン)
つねに幸福であろうと努めること。幸せを与えていることにだけ無頓着であること。微笑んで、こわばりを解きほぐすこと。
一週間前に、下りのエスカレーターを必死で上り続けようとしながら、なかなか進まないで格闘していた中年女性がいたが、あれこそ幸せを必死でつかもうとシジュフォスのような努力をしていた好例かもしれぬ。幸福は何もしないとおちるところまでおちる。そのためには歩き続けなければ!
人の世に生き、なにかと協力せずには生きられない環境の場合、周囲の発する、そして自分の発する、伝染力はすさまじいものだと感じる。
自分が少々不機嫌であったりしたら、とたんに周囲はぼくを警戒する。機嫌取りをする人なんて底意があるか、同情してくれる人に限られる。不機嫌は伝染するものなので、周囲はそれを防御しなければならない。しかし防ぎきれず、無視することもできなくなったとき、不機嫌の菌はあっというまに周囲にひろがる。小集団のなかでそれがおこると致命的である。あとはその集団の中で、意地悪い食いちぎりあいが始まる。不機嫌は放置しておけば最悪にいきつく。
反対に、自分が幸せそうな顔をしていたら、周囲はぼくを温かく見守るか、好意的に接してくれる。不機嫌の場合と反対に、周囲も幸せそうな態度でもってこちらと接点を持ちたがる。それが機会となって周囲の雰囲気にも、そんな幸福を共有するかのような、親切で思いやりもあり、柔らかな温かい態度が蔓延する。幸福の菌は不機嫌の菌を包み込んでしまう。
「幸福は伝染するものだ。もし幸福になろうと思うなら、幸福な人々のなかで生きたまえ」 (スタンダール)
わたしたちは、自分が人にどんな印象を与え、それがどんなにその人の印象判断に重く影響を与えているかは無頓着だ。
恋をしていたり、大切な人や、重要な商談の前では、誰しもそんなに自分に無頓着にはなれまい。たえず相手の立場を気遣うものであろう。自分が与えるものに敏感に反省をめぐらせるのはそんなときかもしれない。
「人間の状態というものは、不屈の楽観主義を規則中の規則としてみずからにあたえるのでなければ、たちまちもっとも暗い悲観主義が真実なものとなる」 (アラン)
つねに幸福であろうと努めること。幸せを与えていることにだけ無頓着であること。微笑んで、こわばりを解きほぐすこと。
一週間前に、下りのエスカレーターを必死で上り続けようとしながら、なかなか進まないで格闘していた中年女性がいたが、あれこそ幸せを必死でつかもうとシジュフォスのような努力をしていた好例かもしれぬ。幸福は何もしないとおちるところまでおちる。そのためには歩き続けなければ!
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