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情熱をもつ

別府史之さんという自転車選手が自戒をこめた語り口調でブログに書いていた。クールになりすぎた、情熱をもつことを日々の生活で忘れかけていたという趣旨だった。一生懸命がんばる毎日で、好奇心などを失っていたという。自分に欠けていたものは「情熱」だと。 折しもジロでディルーカが鬼のような執念を見せ、それに呼応してファンが熱狂的に沿道で応援する姿をかいまみて、何か美しいものに触れたような気がした。ジロの一陣の風が吹き去り、取り残されたこの日常にぽかんと大きな穴を感じた。それはこの日常が空虚だからではなく、熱いもの・情熱的なものが手元を離れたからだろう。 がむしゃらに突進し、毎日を精いっぱい生きることも重要だ。しかしそのような日々に慣れて、余暇を楽しむ感覚や感受性を働かせる機会を逃してしまうのはもったいない。美しい景色を前に無感動になっている自分に気づくほど腹立たしいことはない。 これからの毎日を初々しく生きてみようなどというのは無理なスローガンだが、風化していた生活の一断面を活性化させることはできそうだ。「事務的」におこなっていたことを「人間的」に直せないか。あいさつや歩き方から始まって、趣味や仕事にまで拡大できるのではないか。 「事務的」ということほど、それを受けたときにざらついた気になるものはない。当人は無意識に悪意もなくおこなっているぶん、余計むなしい。手紙でのやりとりや実際に対面しているときも表れる。顔見知りなのに知らないふりをされて戸惑ったこともあったっけ。 別府選手のブログをたまたま見つけ、情熱をもつことへの美しい自覚の瞬間を目の当たりにし、ディルーカの神がかった気迫を見るにつけ、今の生活のなかで、重要な部分を錆びつかせてはいけないなと痛切に思うようになった。偶然か、きょうみた夢で、兄がしおれた植物に水をやって必死に再生しようと試みていた。

うざいと言われても干渉を

寒さも本格的になった。この寂しさが好きでもあるな。 昨日は何かといらいらしていたと反省。土曜日の新宿は、人々みなゆったりモードで、そんな中にせかせかしたぼくが紛れ込むと、いらいらするだろうな。 そんな日は繁華街に行くのが間違いだな。行かざるを得なかったんだけど。 金曜日だったか、駅で二人の男性がもめていた。しかも無言で、暴力というより、一人がもう一人を押さえつけているようであった。だから、通り過ぎる人も二人はじゃれあっているようにしか見えなかったのだろう。 その二人のもめごとがエスカレートして、とうとう駅の売店のほうへもつれて行った。そして売店の簡易棚を倒して落してしまった。 買い物をしていたおじさんが、どすの効いた声で「こらあ」と言ったのには驚いた。そのおじさんも二人の成り行きは気になっていたようで、とうとう周囲に被害を与えたのを見かねて、注意したのだろう。 ええ、とかく世間は、見ていても見ぬふりというか、係り合いになるのを避けようとするが、そんななかで、こうした叱責というのは尊いものだ。 干渉すればいいというわけでもないが、相手の領域への入り込み方というのは難しいものだ。 先日、小さい自分の子供相手に、大人に対する喧嘩のように怒り・怒鳴りまくっている父親を見かけた。子供は泣きじゃくっていた。親の子供に対する接し方の一線を超えた、子どもと対等に喧嘩する態度だった。大人げないとは思いながらも、親を注意するわけにはいくまい。 駅のホームで喧嘩している高校生もいた。取っ組み合いになった途端に、周囲で見ていた50代の女性が「馬鹿者!やめなさい」と注意したのをきっかけとして、周囲の男性たちが仲裁に入ったこともあった。 周りに何らかの被害を与えない限り、人に干渉することは難しいのであろうか。 しかし、こんな例もある。 中国に行ったとき、二人の人が口論を始めた途端に、周囲の人が野次馬のように集まってきて、成り行きを見守るのである。これは、ほんとに野次馬なんだろうな。何が起こるんだというのを、間近で見たいという欲求。こうなると喧嘩の二人は暴力をできなくなる。したがって、二人は口論というかたちでエスカレートせざるを得ない。 なかなか理にかなった社会のシステムだと思う。 喧嘩の二人は、周囲から放っておかれることで、増長して手を出さざるをえな...

優しくなる

ここしばらくは風邪で寝込んでいたし、まだ咳きこんで回復していない状態だから、外出する時はなるべくおとなしくしている。 道路をふさいで話しこんでいるおばあさんたちの脇をそっと通り抜け、角から勢いよく飛びこんでくる自転車に乗ったにいさんも睨まず、駅をゆっくりゆっくり歩く人たちにもいらつかず。 優しくなってみたよ。 はは、優しいだってよ。 もともと冷たくはないけど、見込みのない人には優しくないぼくなんですよ。 性格が完全に曲がっている人、そしてそんな状態に陥っているのを気づかない人には。そんな性根の悪い人とは友達どころか、知り合いにもなりたくない。きっぱり拒絶する。 自分と親しい人は、そんなことないのだよね。 また、自分の友達は少し大目に見てしまうのが人間というものでしょう。 だから案外、そんな性根の悪い人たちを友達として接するようにすれば、優しくなれるのかも。 世の中には、いい人、気持ちのよい人、性格の良い人、気持ちよくさせる人、和ませてくれる人が、ぽつぽついるんですよね。しかも、どんな人でも友達がいるなら、みんな、そんな心地よい接し方をしているんでしょうね。 それが、公の場に出ると修羅場になるから恐いよ、人間って。 車の中では気持ちいい人でありながら、路地を猛スピードで駆け抜ける運転手だっている。 仲間うちでは、はきはきしていても、コンビニのレジ前に立つと尊大な客になる人もいる。 たばこ欲しいのに、ぼそぼそと銘柄を言って、聞こえないと怒る。 サークルのノリで駅前で円陣を組んで、反省会をする大学生。 すべての人に気持ちよく接することは無理だけど、友達以外にも、最低限接する人には、気持ち良い人間でありたいよね。嫌われることは嫌いだからね、誰でも。 きっと不可能な幻想なのかもしれない。でも、小集団ではよく起こることだし、中集団にだって起こりうる。 初めて行った地方の村で、朝通りすがりの小学生から「おはようございます」と声をかけられて、こちらもあいさつをかえす感動は忘れられない。 単に物の売り買いをしているときの、売り手と買い手の両者の「ありがとう」ほど、お互いの気持ちをよくするものはない。 今日は、風邪を利用して、優しくなる練習をしていたわけだな。 でも健康じゃないから、優しくなる体力がなくなったかも。 優しくなるに...

プロに敬服

いろいろな分野にプロフェッショナルがいて、そのプロがさまざまな形で仕事をしている。 人にはいろいろと個性があるので、話をしているとつまらない人や、おどおどしている人がいても、作業をさせるとぬかりのないものだ。 それはどの分野にもいえる。 コンピュータの処理に長けた人もいれば、販売に長けた人もいる。料理人はスムーズに仕事をするし、救急隊員の処置も適切だ。メッセンジャーやバイク便の道路での移動はすごいものがあるし、経理のプロもいる。映像業界の人の仕事もかなりマニアックだし、市場の競りをする人もすごい。魚屋のお兄さんなんて輝いて見える。 演劇の制作者もぬかりない。手を回すところへの気配りは常にしているし、チラシの折り込みだって速いし、きれいだ。舞台技術者の舞台への建設の仕方なんても、すべてが合理的で優れているように見える。 俳優だって、すぐに飲み込むことのできる人もいるし、何よりも演技をすることへの能動的な姿勢は素晴らしい。きっと、その能動的な姿勢が俳優の基本でもあるかのようだ。 誰に対しても、どんな仕事に対しても、ぼくは結構敬服してしまう。かといってもの怖じはしないけどね。すごいなあ、いいなあ、なんて思うから、いろいろな仕事をしてみたくなるのだね。うらやましがることにかけては、人一倍の人かもね。 さすがに今携わっている演劇の仕事にたいしては、厳しくなるけれども、敬服することはするものだ。しかも、プロの仕事を見せつけてくれる人には、何もほめないけど、結構尊敬していたりもする。 隠れたところにプロもいる。路上であいさつをかわす主婦は、コミュニケーションのプロではないかと思ってしまう。自分のことを同時に話ししていて、人の話を聞いていないかのようでいて、かなり聞いている。聖徳太子もこんな能力があったのだね。きっと、ぬかりのない奴だったのだろう。 いいなあ、と思うことがあっても、自分がまねするのには限度があるから、それを実行できるわけではない。 自分の分野のなかで、どうすればそれが職業としてのプロ主義を確立できるかを模索している。 そんな中で、やはり、さびついたものをスムーズに動かし、動かないものには動くようにし、いいものにはその軌道を確保してやりたい。 料理人が包丁をといだり、清掃するのと同じことでしょうな。

戦争と暴力

また夏が来た。 この時期になると、テレビでも新聞でも、また舞台でも、太平洋戦争をふりかえった特番をやる。これは、大事なことではあるね。報道はニュース性の強いものだけでなく、記憶を忘却から救いだす類いの記事が必要だからね。 人間忘れやすいから。 ぼくが前にいた劇団も、この時期に戦争の演劇をやる。 ぼくは、その作者と作品が嫌いだから、見るのを逃れることのほうが多い。それ以外の集団でも、この時期は、戦争を扱った作品が多いものだ。ま、正直、あまり変わり映えしない内容なのだけどね。演劇でも、社会の責任の一端を担っているので、いい試みではある。 今日、ふと思ったことがあって、それは「暴力」のこと。政治的な暴力でなくて、ちっぽけな個人がもつ「暴力」。肉体的な暴力に至らない意味での、微妙な「暴力」。 思えば、今は夏だからか、街で出会う人ひとりひとりが自分のことにしか意識がいっていないような気がする。 「すさんだ」という言葉遣いが適当であるかのような、人間の風化。 それは、女性も、こどもも、老人も含め、一様に乱暴な姿勢が目立つのだな。 また、今の世の中は「権利社会」でもあり、「モンスター」の出現も珍しくない社会でもある。 なんだか、胸を張りすぎている人が多いような気もする。少なくとも、5年前と比べても、人間の立つ角度が1%反り返り、顎が5度上がっているであろう。「お前、後ろに歩いた方が楽だろう!」と思えるようにのけぞった男性を見かけたことがある。 戦争が、人を人と思わず、戦略と全体主義に支配されるものだとするなら、そんなものに反抗するには、意識的な人間主義の立場にたつことが必要だろう。 しかし、そんな立場に立つ人間が「乱暴」な「すさんだ」人間であったりもする。 戦争に関するあれだけの教育や報道や演劇が、一概にセンチメンタルな視点を持つことも不思議である。 結果、涙を流せば成功のような錯覚に陥るもの。 現代の人間が、また戦争に突き進んでそれを「権利」だという言い張ることがあるかもしれない。また、扇動するほうも、されるほうも、無意識に共同することもあるだろう。知らぬ間に、偏見を植え付けられることもある。 戦争を題材にするのはいいのだけど、今現在のわたしたちの「暴力」や「全体主義」も同等に問題にしないと、片手落ちのように思える。 今進みつつある...

協力の美学

少しは暑さにも慣れてきた。 ツール・ド・フランスも終わってしまったな。これで夏が終わった感じになるのはどうしてだろうね? 自転車レースでテレビに映っている部分だけでも、さまざまな人間模様が見られて、とてもいいものだね。 人間て難しいよな。みなそれぞれプライドがあって、そんななかで協力したり反発したり。 サストレが総合優勝したけど、CSCチームの協力体制が素晴らしかったおかげだ。しかも個人個人が実力がありながら、あえてサポートに徹するというプロフェッショナルな仕事。 大きな目的に一丸になること。 実生活上、さまざまな人が目標に一丸になるということは少ない。演劇の公演の組ですら一丸になるのは滅多にない。 養成所の公演が案外おもしろいのは、そういった一丸となって協力するということが、幸福にも出来るからであろう。 たいていはみな利己的なところでとどまっている。 ひとりはみんなのために、じゃないけど、ひとりひとりが有機的に職務をまっとうしているときには、それぞれが相手のことを気遣いながら行動するものだ。相手に意識がいくことが、自意識から解放されるということだから。 演劇のバラシが、とても気持ちよく行われるのは、みな人を気遣えるいい状態になっているからだろうな。 自転車レースの、逃げのグループを追いかける集団も、意志が統一されていると驚くほど速い。 で、一丸になることというのは、案外、難しくないんじゃないかといいたいのだな。 ぼく自身をふりかえれば分かる。 意固地になって大切な目標を忘れることが何度あったことか。プライド高過ぎて頑なになってしまったことが何度あったか。 そんなときに柔らかな人の、柔らかな姿勢にどれほど救われたか、どれほど勉強になったか。 そんな人は、自分のちっぽけなプライドは全然気にもしない人だった。 大きな目的を共有することは難しくない。 呼吸を合わせて、一緒に持ち上げればいいのだから。 こちらが技術がなければ協力者がサポートし、逆に向こうに力がなければこちらが力を出すといった協力体制。 非常に利己的な人もいるけれど、常に利己的というわけでもない。意地悪になってしまうのかもな。 ぼく自身も含め、常にこれだけは言えると思う。 「協力して何事かをする人は美しい。利己的な人は醜い。」 そんな美しい光景は何度も...

体全体が顔

モンテーニュはこう言ったらしい。 「ある乞食が、冬のさなかにシャツ一枚しか身につけず、それでいて耳までテンの毛皮にくるまっている者と同じくらい溌剌としているので、どうやったらそんなふうに我慢できるのかと尋ねてみたところ、その乞食はこう答えた――「でもね、旦那だって顔は外にむき出しでしょう。俺は体全体が顔なのだ」(R・ブレッソン『シネマトグラフ』から) ブレッソンは、映画と演技についての考察のひとつでこれを引用した。 体全体が顔ね。そのとおりだね。 おそらく、ブレッソンの意図としては、観念だけや顔だけの演技は、それは人間でない、人間は顔に表情が表れるときに、体全体でその表情を作っているのだと言いたいのだと思う。 ぼくは、販売の仕事は、結構うつむいてやることが多く、それは今日みたいに忙しい日は、そうするのが一番効率がよい。うつむいていても、お客さんの体の動きを敏感に察知するから、お客さんが何をしたいのかは、たいていは分かる。 そんなふうに、体の動きを主に見て行くと、人間っておもしろいななんて思う。だからといって顔を見ても、顔の表情はそんなに豊かなものではない。体にあらわれるぶんだけ、顔の表情は結構無表情だったりする。 お客さんは、たいてい急いでいるのか、自分のお金を支払うと次の行動に移る。早くお釣りを出せと言わんばかりだ。もう一歩も二歩も進みかけている人が多い。体は半身になってお釣りだけをもらう。もしくは、買った新聞を、お釣りをもらう間に読み始める人もいる。 反対に、こちらがお釣りを払ったのだから、早く目の前から去ってほしいのに、なぜかとてもゆったりしている人がいる。その人は、とてもテンポが遅いし、体はまだ売り場の方に未練があるのが見てとれる。 お金を払うのに、財布のなかから取り出すのに手間取って、次に並んでいる人を気に掛ける人もいる。そういう人は意識が後方に行っていて、体の表情は目が後ろにあるかのようだ。 電車に乗っていても、自転車で車の動きを見ていてもそれが分かる。車の場合は、車自体が顔なのだ。車が表情を持っている。 俳優の演技をいくつか見ていて良く分かるのは、演技し始めの俳優やタレントや芸人ほど顔の表情を作ることに熱心になるのだ。 かえってベテランの俳優さんほど無表情であることが多い。勘で分かるのかもな。 顔の表情すべてが悪い...

と・も・だ・ち

一日一日が過ぎて行く。当然のことだが。 風邪をひいてから完全には回復していなくて、万全というわけではない。 身の回りのことも、劇的ではないが、微妙に変化してきている。いい兆候かもしれない。 忙しい日々も徐々にやってきて、その忙しさが快感なのかもしれない。 意識もいろいろなところに拡散していて、その慌ただしさが良かったりする。 睡眠時間も徐々に規則的になってきている。 なんだろうな。 ひとりの人間が分からなくなるときがある。普段から会っている人もそうだし、一年に一度しか会わない人もそうだし。その人と自分がどんな関係なのかななんて考えたりする。 三年に一度しか会わなくても、気持ちよく会える人もいる。毎日顔を合わせていても、微妙な距離感を保って接する人もいる。深く話し合えばそれが解消するかというとそうでもない。かえって、何だこの感覚は!と思うほど、すんなり打ち解けられる人もいる。 人を分かろうとする努力をどこまですればいいのか、なんても考える。結構ぼくなんかは、分かろうとしないように見えるらしいし、実際、付き合いがうんざりするときもある。話し合えば分かるというのでもない。話の表面に出てくる浅薄な言動なんていくら交わしても深く知ることにはならない。 あえ距離を取りながら、深くその人を尊敬するということもある。距離が近くなって、おもしろくないところを見たくはないのだ。 友達っておもしろいね。 あと2年も過ぎれば、今の混沌も整理されて、人を少しは深く知ることができる。そのかわり、また新たな混沌がやって来るのだろうが。 玄朴と長英。ふたりは、実際は取り立てて仲の良い人ではなかったらしい。その接点も見出しにくいのかもしれない。 しかし、いざ二人を同じ土俵に乗せてみると、おもしろい対比とともに、共通するものが見いだせる。人生への確固たる指標だ。 玄朴と長英の稽古も続けながらいろいろ考えた。それは俳優をやっていたときからそうだった。自分が今取り組んでいる戯曲の主要なテーマや出来事が、自分の人生を考えるいい契機になっているなと。つまり、自分が取り組んでいる戯曲に、少しではあるかもしれないけど、影響されているのだなと。 そんな影響というものがなければつまらないよな。同じように、お客さんも、観に来た演劇にそれを求めているのかもしれないと思うと、うか...

クレーム

バイト先で、接客クレームの件で上司からお咎めを受けた。先週のお客さんがお客さま相談室に問い合わせしたのでしょう。はっきりと覚えているので、謝ったけどね。謝るのは下手ではない。しかも気持ちよく謝るのをモットーとしているところがあって、爽やかに、高原にそよ風が吹くように謝るのが好きだ。 だから、あんまり怒られはしないのだよ。時間的にも短く、事の重大性も軽くする。お咎めを受ける側が深刻になると、お咎めする側もきつく叱らなければいけない。受ける側が軽く爽やかにすると、叱る側も気が軽くなるものだ。お互いにとって良いことだ。 ときには「反省していない」などと、かえってきつく叱る人もいるが、反省はしているんだ。反省を重くすることが嫌いなだけだ。 何度かこんなことしている。するたびに反省はするけど、現場ではつい我慢できないのだな。 はっきりと覚えている。商品を袋に入れず、レシートを渡さなかった罪だ。たいていのお客さんが、どちらも要求しないし、品物的に袋に入れる必要のないものと判断した。勝手に判断するなというのは会社的な立場だろう。それも分かる。でもレジ袋の濫用もよくない。たいていのお客さんはきちんとそれを理解している。誰もが理解するのじゃないものなのだな。 袋が欲しければ「袋に入れて」と頼めば済むもの。それで気持ちよくやりとりできるのだが、この「袋に入れて」という言葉をかけないで、袋に入れてもらうまでずっと待っているお客さんがいる。こちらも何かを察して袋を用意するのだが、忙しくほかのお客さんに意識が行っているときは言われるまで放っておく。するとお客さんも黙っている。それが我慢ならないのだな。何か無性に腹立つ。「何で袋に入れないの」などと高飛車な態度に出られるとカチンとくる。 どうして「袋に入れて」とひとこと言えないの? というか、言葉のやりとりで人に物を頼むというのが、結構、現代の人間に共通して弱くなっている気がする。「早くしろよ」とせかされるのも腹立つが、そういった竹を割ったような性格は分かりやすい。 しかし、相手が何を考えているかが分からないときほど、不気味なものはないだろう。「キレやすい」などといった問題も、そういったコミュニケーション不全が原因でもある。 物を頼むということは、お願いすることで人を動かすものなので、それなりのコミュニケーションとな...

ナイーブな安楽椅子

何も刺激のない生活というものは、味気ないものだ。生活というその言葉は、外界から多くの刺激を受けるということを指すのだろうか。それはどんな刺激でもいい、近所の人とのあいさつでも、会社の同僚でも、もしくは人でなくてもいいかもしれない。ペットと1日をともにしたり。または、刺激は書物などでもいいかもしれない、テレビでもいいかも、とにかく自分とはまったく別の要素からの刺激。 刺激の少ない生活ほど印象にも残らないものだ。多すぎても残らないが…。 しかし、自分の体調の機嫌を取りながら、そればかりを気に掛ける、昨日・今日の風邪をひいた生活はつまらないものだ。生きた人間とのやりとりも、ほんの少しだけだし、何よりも、体調を保つことだけに気を集中しなければいけないのがつらい。こんな日は、自分が何をして過ごしたのかさえ確かなものではない。 非常にナイーブなことを考えるのもこんな日の特徴で、自分のしていること、しようとしていること、自分の存在に不安をおぼえてしまう。あんなことして、何の意味があるのだろうなんて。 こんな状態にとどまっていないようにしなければ。案外楽な発想方法なんだと思う、自分を責めるのって。そんな考えで悲観的になっていれば、世の中のことを全部説明がつけるような錯覚を起こす。何ひとつ現実のことと接触していないにもかかわらず、形而上的に整理整頓できると勘違いしてしまうのは、人間だれしも起こることだ。思い切って行動したことが、そんな形而上的な迷いごとを振り切ってくれるはずだ。 人間関係も希薄になった今日この頃、という表現をみかけるが、確かにその要素はあるだろう。以前のような、べったりの付き合いを逃れたり、煩わしいことを軽くすましてしまう傾向は確かに世の中にある。おそらく、自己を保全しているのだろうが、そのぶん外界からの刺激も遮断される。ヘッドホンの中だけで過ごす人に加え、最近では携帯画面との間でしかコミュニケーションしていない人が多くなってきている。駅を歩いていても、携帯の画面にしか注意を払えない人。 コミュニケーションの方法が変わってきているなかで、どうしても局所的に、専門的にしか接触できないとすると、やはり、先に言った「ナイーブな考え」というものが頭をもたげてくるのだとは思う。テレビとしか接触しない人、携帯としか接触しない人、ペットとしか接触しない人が、そ...

まとまりのない話

今日は何だか、とても気分がよかったのだか、自分から人に話しかけた。ま、普段から人に話しかけないわけではないが、嫌な人と一緒だと自分の世界に入ってしまうので。競輪新聞が入って来るのを待っているお客さんと、世間話みたいなこともしてしまった。自分に気負いがないからだろうか、お客さん相手なのにタメ口でばんばん話してしまうし、それを自然にしてしまうし。なんだか、今日は、口と言葉の周りにオイルを塗っているかのようだった。 電車の中では、台本に赤線を入れる作業に没頭してしまい、これもまた滑らかになんの障害もなく済んだ。 電車の中や駅の構内で、意識や視線を遠くへ向けると、こんなふうに小さなデコボコが気にならず、悠長に物事を見られる。隣でわさわさ動いている人も、混んだ電車の中でしきりに頭を揺らす人も、傘を振り回しながら歩く非常識な人も、みんな気にならなくなる。意識が小さいところ、近いところに無いからだと思う。 いわば科学者のような目でもって物事を見渡せるようになると、気分的にも楽になる。日常のささいな、煩わしいことを無視できるから。 こんな日が明日も来るかどうかは分からない。しかし、来ればいいなと思う。しかし、気温が暑すぎたり、寒すぎたりで、すぐに自分一人に意識がいってしまうのがぼくの悪い点だ。こんな日が続くかどうか。 ま、ここ最近は、自分から動かなければ成立しない生活になってきているから、落ち着いて行動できているのだと思う。誰かが何かをやってくれていたときは、ただただ動かされるままだったのだが、自分から動くには自分がしっかりしていないとダメだから、当然なんだけどね。順応というやつかな。適応かな。 よりいっそう、生活するための方法を見つけ出さなければならないし、生き方を学んでいかなければならない。 でも、話の脈絡はないけど、どうしてぼくの場合、本能的に、今僕が従事している世界や集団や業界を嫌っているのだろうか?嫌いというより距離を取りたがる。 フランスにいたとき、何か月もフランスが大嫌いだった。 演劇の業界人って、実はあんまり好きじゃないのかもとも思っている。 バイト先や会社の文句をいうのはお手のものだし。 混乱を恐れているのかもしれない。惑わさないでくれ、近寄らないでくれ。そういえばこの前のワークショップで、キャリアのある俳優さんが言っていたな。「...

世界の開化

15年ぶりになるだろうか、夏目漱石の「私の個人主義」を再読してみた。一読して思ったのは、内容が講演のためでもあろうが、非常に論理的で分かりやすい文章だということ。話に淀みもないし、比喩の対象も効果も明晰だし、何より簡潔な言葉を使って学生に話しかけている。そして話者である漱石の一番伝えたいことが明確で、漱石の精神・思想がうかがえるような内容になっている。ここまで論旨が明快な文章というのはなかなか見かけるものではない。 講演は聴衆が理解して初めて意味をもつ。漱石の好きな落語もそうだ。演劇も例外ではない。これらに共通するのは、その場にいる聴衆・お客さんに分かってもらうことが第一の基本にあることであろうか。後世に誰かが理解してくれようといった悠長な考えではいけないこと。 分かってもらうこと、こちらの考え・計画を理解してもらうことは、とても難しい。だいたいにして、自分がほかの人のことばの意味を受け取り、理解しているとは、必ずしもいえないのだから。聞き流すことのほうが多いだろうか。好意を持っている人のことばは、過剰に聞き入れようとしてかえって本意を理解しているとはいえない。家族などの身近な人のことばなんて、半分以上は聞き流しても想像がつく。 漱石のこの本を再読した後の感想は、何だか目の前の世界が開けたような気がしたのだが、人の言うこと・考え・意志をはっきりと理解できたときは、いつもこんな感想を持つな。つまり、明快に理解するということは、世界を開くことなのだろうか。逆な立場で言うと、世界を開かせるために、ことばを使い分かってもらおうとする。講演の講師も、落語家も、芸能の実演者も。 小難しい数式を解いたときもそんな「開化」を感じた。今まで苦闘していた俳優がいきなり変身し「開化」することが稽古の過程ではよくある。賞味1時間の漱石の講演で、自分の人生の一歩を踏み出した人間がいるであろう。そういった講演とは種類は違うが、演劇の公演だってひとりの人生を「開化」させるのに事足りないことなんてない。 願わくば多くの人を「開化」させたいと思い、練りに練り、簡潔であること、明快であること、率直なものであること、親しみやすいものにすることを心掛ける演劇も悪くはあるまい。単に娯楽でなく、もっと社会性を帯びたものが、もともとの演劇に必要とされていたものであるから。

とりとめもなく、まとめもなく・・・

金曜日の夜の電車は混んでいていやだ。また、酒に酔ッた人が大きい態度をしているので、とても殺伐とした光景になる。自分も酔っていれば、そんなの気にならないのだろうが、こちらは早く静かに帰りたいものだから嫌になる。まあ、酔った人はそれほど意地悪ではないから、扱い方・接し方次第で、どうにかなるんだけどね。 今日のお昼に自宅に珍しくそよ風が入ってきて、それがとても心地よく、なんだかノスタルジーを感じてしまい、東京を離れて高原にでも行きたいななんて、考えてしまった。考えるだけで実行には移せないのだけどね。 別に人間が嫌なわけじゃないけど、この時期、どうしてかいい人間だけとしか付き合いたくない気分なんだな。だから、大多数の得体の知れない通行人なんて無視してしまう。酔っぱらいなんて存在も消したいくらいだ。いろいろな人がいるなかで、あえて人の嫌な面を見たくないというのが実情か。良い面だけしか見たくない。だからだろうかね、高原に行きたいなんて、ふと思いついたのも。 そりゃ、人間いいとこばかりでなく、悪いところのほうが表面にあらわれやすく、指摘しやすい。あえて、その悪い面、平凡な面を見ないで、いいところを見ようと試みるのは間違ってはいないだろうか?というよりも、いい面しかみることができない状態に近いな。悪いところは完全無視。無意識に無視。 自分をふりかえると、ぼくは良いとこなんてあるのだろうかね?人に嫌われているんじゃないか?初対面でぼくが与える印象というものは、他人に聞くとまた別の答えが返ってくると思うが、ぼくのなかでは悪印象か無印象なんじゃないかと常に思う。自分でもいいと思わないんだよね。 というわけで、自分のことには疑心暗鬼になりながらも、世の中のいいものを吸収しようとなっている状態。いつまで続くだろうか。明日には終わっていたりしてな。それもまたおもしろいことだ。

教えを請う人

「いまどきの若い者は…」ということばはよく聞かれる言葉だが、年長者がそう思う気持も分かるし、かといってそれを肯定するわけにもいかない。 シーボルトと鳴滝塾の伝記を読んでいるが、シーボルト自身若いなかで、もっと若い人がシーボルトを師と慕って集まり勉強する姿に、とても美しいものを感じるのだ。 スタニフラフスキーも、後年は若い俳優と仕事をするのを好んだ。 ソクラテスも町の若い者をつかまえて、議論を吹きかけたものだ。 昨日の演劇の講座で、終了後、講師のもとに質問に行っていた女性3人がいたのだが、ちらちら聞こえてくるところによると、大学生で、今後の自分の進む道を模索しているようで、そういった趣旨でとても熱心に、また、尊敬のまなざしで講師に質問していた。 こんな光景を見るのはうれしいことだな。美しい。こういった熱心さを見受けられる世代といえば、ぼくの経験では、圧倒的に若い世代なのだ。しかも、10代後半から20代前半。もちろん70近くの方でもこんな方はいるが、圧倒的に多いのは「近頃の若い者」なのだ。 こういう光景、滅多に見られないとは言わないけど、それほど多く見られるわけでもないだろう。 こういう探究心と迷った心が素直に表れている人も一部分、とても奇抜な格好で人の気を引く人も一部分、悪い犯罪をする人も一部分であるなら、いちがいに、ひとくくりに、「若い者」ということばで定義・断定することにためらいを感じる。 少なくとも、熱心な、素直な姿で、大人と子どもの間をうろうろしながら生き方を探している「若い人」を見ると、この世代にしかない美しさ、特権のように思えてくる。 案外こんなとこにしか、停滞を打ち破るような革新的な萌芽というのはないのかもしれない。そこまで極端でなくとも、行き詰ったら、自分たちだけでなく、年長者にも若い人にも教えを請うのがいいのかもしれないな。 ある程度の経験を積んだ人にとって、威張ること、自足すること、正当化することは、自分の首を少ずつ絞めるもののように、ぼくには思える。 「教えを請う人」になり続けるのも悪くはないんじゃないか?

褒めること

今も開催されているんだっけ?ルノワール×ルノワール。まあ、それはどうでもいい。ジャンのほうのルノワールのインタビュー記事を読んだ。かなり長い分量だったが、気がついたことがある。 ジャン公は、人をよくほめあげる。映画の撮影で知り合った、スタッフであったり、俳優であったりを、とにかく褒める。後で落とすために褒めるのじゃなく、その人たちに尊敬と親近感を感じ、才能を称えているのだ。そんなことしか言っていないような気がする。 とにかく、機械的で大がかりなスケジュールや撮影を嫌ったジャンは、人間と接することでその人を好きになり、その人の長所とジャンの長所で、同盟を作っているかようだ。心地よい人間関係。 我々は、特定の役職や立場に就いていない限り、日常生活であまり似たような立場の人をほめることをしない。人を称える言葉というのも使用をためらわれるほどだ。改まって手紙に書いてみたり、別れのときになってはじめて口にしたり。 ほめることを必要とされないからだろうが、ほめられて嫌な思いになる人は少ないので、もっと褒める機会を増やせたら、その人にとっても、ほめる自分にとっても心地よいものになるだろう。 口では言わないが、ぼくも、多くの友達のなかの尊敬すべき長所や才能を称えたいでいる。口ベタだし、面と向かうと恥ずかしくなってしまうので、割引いて言ってしまう。ほんとはもっと声高に素晴らしいよといいたいのだが。ルノワールのように人を称えるのにも経験や技術がいるのかもしれないな。 けなすこともしつつ、褒めることもしようかな。

2つの刺激

今日は世田谷パブリックシアターのプロデューサーについてのセミナーに行ってきた。演出とはいえ、実際、プロデューサーの仕事もしているわけだから、知らぬ・興味ないじゃすまされず、勉強にいってきた。ぼくも考えていて、また、ある参加者もらしていたが、5,6人ぐらいしか集まらないのじゃないかと思っていたが、40人以上も集まって大盛況だった。 大学生の年代の若い人が多かったのが特徴で、みんな熱心に聞いていて、感心した。こういう情熱が大切だね。 まあ、話自体はちとまとまりがなかったのだけど、5回の講義なので、今後に期待。 ワークショップを企画しました。グルッポ・テアトロのホームページを見て参加してくださいね。 グルッポテアトロ〜橋ものがたり〜ワークショップvol.1 また、今日、かつての知り合いから絶縁状みたいなのがきた。むこうはかなりぼくを嫌悪しているようで、いろいろと恨み節を書いてきたが、ぼくのほうは何とも思ってなくて、自覚もないのだけど、前々からふたりの間には嫌な空気は漂っていたので、明らかになったことで、すっきりしている。 嫌われたり、陰口をたたかれたりは結構あったりするが、自分も同じことをしたりもするので、文句は言えまい。 ただし、こんな負の感情を持ち続けるのはいやなので、ぼくは本能的にすっかり忘れるものらしい。あっけらかんとしているのはそのためで、敵が何で怒っているのか分からないことが多々ある。明日には忘れるかな。 それにしても難しいのは人間関係だね。どうも、いろいろなことが習慣的になると、停滞してきて、陰口や嫌味や派閥ができてくる。集団に属しても、知らず知らずのうちに、小さいことで人を嫌ってしまったりもした。集団を抜けてから初めて、小さいことでくよくよしていたことが分かったことが何度あったか。 反対に、新しい刺激や精神に触れるというのは素晴らしいことだ。今日の制作セミナーなんて、どきどきするような新しい体験だった。年配の人も何人か来ていて、その挑戦と活力には尊敬さえする。こういった新たな挑戦をし続けることが、ぼくには必要なのかもな。 昔なら、今日の絶縁状がきたことで、精神的に参ってしまっただろうが、今は、そんなことはゴミ箱に捨てる勢いだ。でも、相手の言い分にも道理はあるわけで、不快感を与えたことは事実として認識しておかないと、ざらついた人...

技術とプロと

今日は床屋に行ってきたのだけど、いつもの親爺さんの愛想の好さがなく、どうもぎこちない様子だった。しかも、櫛を3,4度も落としたりして、いつもとは違うように思えた。彼の中に何があったのかは分からないが、おそらく精神的に何か負担になるようなことを抱えていたには違いない。 そんな様子ではあったが、ハサミさばきの技術はしっかりしたもので、そこに対しては不安を覚えることはなかった。身につけた技術の質は、そんなに簡単に落とせるものではない。 自転車に乗る技術、都心でうまく走る技術というものもあるので、どんなに気分がすぐれなくて流しながら都心を走っていても、一定の時間以上にかかることはない。これも随分と乗りなれた経験からだろう。 チベット問題の聖火リレーの妨害も問題となったが、マスメディアに映るぐらいの行動に出る人は、やはりそれなりの技術があるのだということも推測がつく。熱い思いで国を憂う人が映し出される場合と、妨害の先頭に立つ人の場合では、まったく別なことをしているようにしか思えない。市民運動の盛んな英仏の市民のデモと、そこで繰り返される一部の策略・行動は別種のものだ。どう見ても、火を盗もうとした人は、プロとは言わないまでも、ある一定の技術は持っている。 日本の調査捕鯨船の妨害と、この聖火リレーの妨害は同種のものであると思うのだが、どうであろうか?一方は、海賊船に乗り自らを名乗り出ていて、一方は市民に紛れている。どちらも、ある過激派の行動と言える。 オーストラリアの市民に捕鯨への批判が多いにしても、彼等は調査船を妨害することまではしないのだ。 豪では日本政府に対する風当たりも強いことは、中国政府にたいする世界の風当たりと同じ。 聖火リレーを妨害する側も、それを防ごうとする「青シャツ」も、チベット問題を拡大化しようとする諜報組織も、問題をなかったことにする中国政府も、すべて専門家による一種の諜略と捉えるのなら、ある意味で、民衆はいいように利用され、置き去りにされているように見えなくもない。聖火ランナーの一様に困惑した顔がとても印象的だ。 話はかわって、テレビで活躍するタレントにすら技術があり、たとえ海外でどれだけのエンターティナーであったとしても、日本のテレビに引っ張り出されると、ある一種の違和感を感じるものである。テレビ慣れしたスポーツ選手や弁護士など...

変わりゆく世界

今、中国のチベット問題が話題になっているが、少数民族の自立・独立は潜在的な問題なので、何かの拍子にふと湧き出て、沸騰する事態になることは、容易に想像できる。 欧米でのリレー妨害は、突端の過激な妨害をしたのは過激な活動家で、いわば、その道のプロであり、穏健な民衆とは種類が違う。 思えば、世界中でこういった問題を抱えていない場所はなく、日本でさえも、映画「靖国」をめぐる混乱においては、腫れものにふたをするような歴史が浮き彫りになった。 ときおりテレビで流されるどうでもいい映像、天皇一家のこと、なんて、非常に気持ち悪い統制のように思えて仕方がない。 冷戦後、世界の盟主的な立場になり、過激な国・組織を「懲罰」してきた、アメリカ合衆国でさえも、懐疑的、というより反省的な姿勢になっている。 少し前の枠組みや思考方法さえも、変転していくもので、思えばここ10年に限っても、普段よく見る外国人の態度などに変化が見られる。 さまざまな問題をかかえ、変化していく世界。その変化を敏感に感じ取ること。 真山青果の『玄朴と長英』は江戸後期の、そういった世界の中で格闘した人間の物語に思える。突如この作品に触れたのには訳があるが、今は言わない。 変動する世界で人間どう生きていくか、これは昔も今も変わらない。 そういった視点で、物語を読むという方法もある。 変わっていく世界と向き合う現代的なもの、それを追及したい。

事物の眼差し

映画監督の吉田喜重は小津安二郎の『東京物語』のあるエピソードをとらえて、「空気枕の眼差し」と評している。老夫婦が、空気枕がそこにありながら探したように、人間がうっかり見落とすものがあり、空気枕は事物としての眼差しを老夫婦に注いでいたと。それは、大いなる物語・体系・人間の考えからこぼれ落ちるものであり、そんな事物の眼差しを小津は示していたと。 また、ブレヒトは異化という概念を使い、物語の筋道だった流れから予想される演技を拒み、観客が疑いをはさみうる余地を残そうと努めた。 モンテーニュは「わたしは何を知っているか」として、疑うことから始めた。 人間は信じやすく、また、大いなる物語や体系や組織のなかにいることに安心する。迷信や偏見や常識を身につけてしまうと、そこから脱却するのも努力を要する。ときには偶然に目を開かせられることもあれば、かたくなに目を開くことを拒み続けることもある。 ギョーザ事件なんかは、メディアの大海に乗ってしまうと、憶測が偏見を生み、過激な差別を生んでしまった。疑うこと、立ち止まること、事物の眼差しで事件全体を見られるようになるまでは時間がかかった。 メディアは、意図的ではないが、扇動することとなった。記者の興奮がメディアの興奮となって、視聴者・読者の興奮となった。 対イラクの件で、アメリカ人の冷静な意見が聞こえてくるには、もっと時間が費やされたことは記憶に新しい。 未だに戦争を美化する風潮は全世界にある。 核抑止論なんていうのも、恐怖と妄想が経済的利益と結びついているだけで、単なる論理でしかないことになぜ気がつかないものなのだろう?大いなる体系が偉大なる物語をシナリオ化している。それは作りもの。暗い夜道で誰かに引っ張られた気がして馬鹿力でふりほどくと、実は木の枝にひっかかっただけだったなんてことも。 よく舗装されたいい道路だけが道でなく、漫画じゃないけど、隣の家の中を通るものが道であることもある。マニュアル通りに接客していたら、かえって不快感を与えることもある。 一度、信じやすい自分を疑ってみることがいいのではないかしら?人間の思い込みのほかに、事物の眼差しというものもあるということに、思いを馳せてみたらいいのではないかしら?立ち止まって考える時間を確保したらいいのじゃないかしら? そんなふうに思っている日曜日でした。...

日曜日の思想

以前もこのブログに同じことを書いたが、また思うのは、日曜は静かだということ。その静けさが心のすき間に沁み入るようで、どことなくひりひりする。感傷的になるのはこんな晩だ。 思えば幾晩こんな時間を過ごしたことだろうか? そして、次の日には無くなるにせよ、どれだけの夢を描いたことだろうか? 人恋しくなるのもこんな夜で、だからこそここに書き綴っているのであろうか。 古いアルバムを見返したくなる時があるように、古い記憶のカケラが、こんなときふと顕れ出てくる。昔の友達。昔の建物。昔の感情。 一日前は聞き流していた音楽も、こんな日は心を揺り動かす。 テレビで見た老夫婦の慎ましい姿にじんとくる。 こういったものを、潜在的なものが現われ出てくると捉えるのなら、日常の生活は嘘やまやかしに塗りたくられているものなのだろうか?忙しさにかまけて、生きることに一生懸命で、武装しているものなのだろうか? 反対に、何も飾る必要がなく、誰からもせっつかれないこんな日曜日のほうが異常なものなのだろうか? そう、たしかに記憶の中からでてきたものは、およそ動きのない写真のようなものであり、ある感情も恋慕も美化された嘘っぱちのものとも言えないこともない。死でさえも、こんな日は醜くない。 たとえば、ドラマというものが劇的な事件の連なりのように思えるのが、日常的な考えというならば、今夜のような考えを「日曜日の思想」とでもいおうか。その思想は、ドラマというものは、非劇的な、事物や記憶・意識の集成でもありうることを教えてくれる。 一見、月並な卒業式・送別会であったとしても、内部には激しいドラマが渦巻くこともあるし、激情すら抑制された微妙な意識というものもある。 そして、この曜日が教えてくれることは、わんわん泣きわめく別離というものよりも、感情が抑えられた中に出てくる小さな「おかしな行動」に彩られた別離のほうが、よりドラマと呼ぶにふさわしいものと思えることだ。激しい格闘よりも、家庭内の微妙な意識のズレなどのほうが、よりエキサイティングなものに思えることだ。 最初に、すき間という言葉を使ったが、大ざっぱな平日の手からこぼれ落ちるものが、心に受動的な空白ができる日曜日に滴り落ち、そこにもドラマが隠されていることが分かってきた。 きっと平日は動きすぎて・忙しすぎて・うるさすぎて、気づく...