また夏が来た。
この時期になると、テレビでも新聞でも、また舞台でも、太平洋戦争をふりかえった特番をやる。これは、大事なことではあるね。報道はニュース性の強いものだけでなく、記憶を忘却から救いだす類いの記事が必要だからね。
人間忘れやすいから。
ぼくが前にいた劇団も、この時期に戦争の演劇をやる。
ぼくは、その作者と作品が嫌いだから、見るのを逃れることのほうが多い。それ以外の集団でも、この時期は、戦争を扱った作品が多いものだ。ま、正直、あまり変わり映えしない内容なのだけどね。演劇でも、社会の責任の一端を担っているので、いい試みではある。
今日、ふと思ったことがあって、それは「暴力」のこと。政治的な暴力でなくて、ちっぽけな個人がもつ「暴力」。肉体的な暴力に至らない意味での、微妙な「暴力」。
思えば、今は夏だからか、街で出会う人ひとりひとりが自分のことにしか意識がいっていないような気がする。
「すさんだ」という言葉遣いが適当であるかのような、人間の風化。
それは、女性も、こどもも、老人も含め、一様に乱暴な姿勢が目立つのだな。
また、今の世の中は「権利社会」でもあり、「モンスター」の出現も珍しくない社会でもある。
なんだか、胸を張りすぎている人が多いような気もする。少なくとも、5年前と比べても、人間の立つ角度が1%反り返り、顎が5度上がっているであろう。「お前、後ろに歩いた方が楽だろう!」と思えるようにのけぞった男性を見かけたことがある。
戦争が、人を人と思わず、戦略と全体主義に支配されるものだとするなら、そんなものに反抗するには、意識的な人間主義の立場にたつことが必要だろう。
しかし、そんな立場に立つ人間が「乱暴」な「すさんだ」人間であったりもする。
戦争に関するあれだけの教育や報道や演劇が、一概にセンチメンタルな視点を持つことも不思議である。
結果、涙を流せば成功のような錯覚に陥るもの。
現代の人間が、また戦争に突き進んでそれを「権利」だという言い張ることがあるかもしれない。また、扇動するほうも、されるほうも、無意識に共同することもあるだろう。知らぬ間に、偏見を植え付けられることもある。
戦争を題材にするのはいいのだけど、今現在のわたしたちの「暴力」や「全体主義」も同等に問題にしないと、片手落ちのように思える。
今進みつつある「ファッショ」や「風化」のほうが、正直、過去の戦争の涙より重要だと思う。過去の戦争のメカニズムを解剖すれば、現在も同じようなものを見出すに違いない。
報道や芸術は、それをこそ問題にしなければならない。
社会の動きというより、わたし自身、隣のあなたの動きが問題だといえる。
ブレヒトの作品やモリエールの「タルチュフ」なんて、そんな意味で、とても現代的なテーマを持っている。
戦争の回顧よりも、今起こりつつある戦争を問題にしなければ、と思っている。
でも、絶望的に、ぼく自身も「すさんで」「風化」しているのも感じる。
なんとかしなければと思いながらも、あまりいい人間ではないのだよ、ぼくは。
一番のファシストはぼくじゃないかなんて思ったりすることもある。しかもそれを矯正できないでいる。
ふふ、笑うしかないんじゃないか…ふふ
この時期になると、テレビでも新聞でも、また舞台でも、太平洋戦争をふりかえった特番をやる。これは、大事なことではあるね。報道はニュース性の強いものだけでなく、記憶を忘却から救いだす類いの記事が必要だからね。
人間忘れやすいから。
ぼくが前にいた劇団も、この時期に戦争の演劇をやる。
ぼくは、その作者と作品が嫌いだから、見るのを逃れることのほうが多い。それ以外の集団でも、この時期は、戦争を扱った作品が多いものだ。ま、正直、あまり変わり映えしない内容なのだけどね。演劇でも、社会の責任の一端を担っているので、いい試みではある。
今日、ふと思ったことがあって、それは「暴力」のこと。政治的な暴力でなくて、ちっぽけな個人がもつ「暴力」。肉体的な暴力に至らない意味での、微妙な「暴力」。
思えば、今は夏だからか、街で出会う人ひとりひとりが自分のことにしか意識がいっていないような気がする。
「すさんだ」という言葉遣いが適当であるかのような、人間の風化。
それは、女性も、こどもも、老人も含め、一様に乱暴な姿勢が目立つのだな。
また、今の世の中は「権利社会」でもあり、「モンスター」の出現も珍しくない社会でもある。
なんだか、胸を張りすぎている人が多いような気もする。少なくとも、5年前と比べても、人間の立つ角度が1%反り返り、顎が5度上がっているであろう。「お前、後ろに歩いた方が楽だろう!」と思えるようにのけぞった男性を見かけたことがある。
戦争が、人を人と思わず、戦略と全体主義に支配されるものだとするなら、そんなものに反抗するには、意識的な人間主義の立場にたつことが必要だろう。
しかし、そんな立場に立つ人間が「乱暴」な「すさんだ」人間であったりもする。
戦争に関するあれだけの教育や報道や演劇が、一概にセンチメンタルな視点を持つことも不思議である。
結果、涙を流せば成功のような錯覚に陥るもの。
現代の人間が、また戦争に突き進んでそれを「権利」だという言い張ることがあるかもしれない。また、扇動するほうも、されるほうも、無意識に共同することもあるだろう。知らぬ間に、偏見を植え付けられることもある。
戦争を題材にするのはいいのだけど、今現在のわたしたちの「暴力」や「全体主義」も同等に問題にしないと、片手落ちのように思える。
今進みつつある「ファッショ」や「風化」のほうが、正直、過去の戦争の涙より重要だと思う。過去の戦争のメカニズムを解剖すれば、現在も同じようなものを見出すに違いない。
報道や芸術は、それをこそ問題にしなければならない。
社会の動きというより、わたし自身、隣のあなたの動きが問題だといえる。
ブレヒトの作品やモリエールの「タルチュフ」なんて、そんな意味で、とても現代的なテーマを持っている。
戦争の回顧よりも、今起こりつつある戦争を問題にしなければ、と思っている。
でも、絶望的に、ぼく自身も「すさんで」「風化」しているのも感じる。
なんとかしなければと思いながらも、あまりいい人間ではないのだよ、ぼくは。
一番のファシストはぼくじゃないかなんて思ったりすることもある。しかもそれを矯正できないでいる。
ふふ、笑うしかないんじゃないか…ふふ
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