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7月, 2008の投稿を表示しています

文章について

今さらながらに思うのは、正確に物を伝えるというのは難しいということだ。 正確であろうとすれば冗長であったり、手短に述べると情報が漏れていたり。 図を使って説明していたとしても、その図が曖昧であったり。 一枚の書類を渡された。それは、ある注意事項だったのだが、分かりにくい文章だった。口頭で伝えられて覚えてきたことを、改めて書面で伝えられると、さて、どちらが正しいのかな、なんて思うことになる。 注意書きが実際の現物と正確に一致していない。例えば、その券には○○が書いてあるとただし書きしてあるのに、実物にはその○○という文字は印字されていないといったように。 また、この場合はこうしてくださいというマニュアルが曖昧で、じゃあどうすればいいの?なんて思ってしまうような書き方。たとえば、この券をもらったら、本当はダメだけど「受け入れてください」といった書き方だな。「受け入れる」というのが、どういう行動をすれば正しいのかの基準にならない。 句読点や、かぎカッコひとつでも、分かりにくくなるものだ。 また、自分たちの文脈が、他人の文脈に通じるかという問題もある。業界用語なんて、その最たるものだな。 あえて含みを持たせて考えさせる場合を除いて、伝えたいのに伝わらないのはもどかしい。しかも、文章の場合、一度それを書いて公表すれば、あとで付け足すという機会がそうそうあるわけではない。 文章の書き方の本をいくつか読み、今日から、丸谷才一の「文章読本」を読み始めている。そんなときにもらった文章。理解できないところを理解したつもりにせず、また、類推もせず、分かりにくい文章を分からないと宣言するのも楽しいものだ。分かるようにするためには、どう書けばいいのかも考える。 それにしても、ものを伝えるのは難しい。ぼくなんか、誤解されるような言い回しも多用して、誤解されるがままにしておくのを楽しむほうだから、案外ぼくが真剣に説明したことも伝わっていないのかもな。そう考えると、何一つ伝わっていないのに、すべてを伝えたつもりでいる自分というものは、おかしなものだ。 また、冗談の話が本気で受け取られるのもおかしな話だな。 実直なコミュニケーションなんて絶望的に不可能なのかもな。

協力の美学

少しは暑さにも慣れてきた。 ツール・ド・フランスも終わってしまったな。これで夏が終わった感じになるのはどうしてだろうね? 自転車レースでテレビに映っている部分だけでも、さまざまな人間模様が見られて、とてもいいものだね。 人間て難しいよな。みなそれぞれプライドがあって、そんななかで協力したり反発したり。 サストレが総合優勝したけど、CSCチームの協力体制が素晴らしかったおかげだ。しかも個人個人が実力がありながら、あえてサポートに徹するというプロフェッショナルな仕事。 大きな目的に一丸になること。 実生活上、さまざまな人が目標に一丸になるということは少ない。演劇の公演の組ですら一丸になるのは滅多にない。 養成所の公演が案外おもしろいのは、そういった一丸となって協力するということが、幸福にも出来るからであろう。 たいていはみな利己的なところでとどまっている。 ひとりはみんなのために、じゃないけど、ひとりひとりが有機的に職務をまっとうしているときには、それぞれが相手のことを気遣いながら行動するものだ。相手に意識がいくことが、自意識から解放されるということだから。 演劇のバラシが、とても気持ちよく行われるのは、みな人を気遣えるいい状態になっているからだろうな。 自転車レースの、逃げのグループを追いかける集団も、意志が統一されていると驚くほど速い。 で、一丸になることというのは、案外、難しくないんじゃないかといいたいのだな。 ぼく自身をふりかえれば分かる。 意固地になって大切な目標を忘れることが何度あったことか。プライド高過ぎて頑なになってしまったことが何度あったか。 そんなときに柔らかな人の、柔らかな姿勢にどれほど救われたか、どれほど勉強になったか。 そんな人は、自分のちっぽけなプライドは全然気にもしない人だった。 大きな目的を共有することは難しくない。 呼吸を合わせて、一緒に持ち上げればいいのだから。 こちらが技術がなければ協力者がサポートし、逆に向こうに力がなければこちらが力を出すといった協力体制。 非常に利己的な人もいるけれど、常に利己的というわけでもない。意地悪になってしまうのかもな。 ぼく自身も含め、常にこれだけは言えると思う。 「協力して何事かをする人は美しい。利己的な人は醜い。」 そんな美しい光景は何度も

サイクリング

2日ぐらい前に、久しぶりに多摩川のサイクリングロードを自転車で流してきた。暑い日だったけど、気分は爽快だったな。目の前に開ける明るい景色が、とてもくっきりしていて、世界が開けるような感じがした。 今年は、例年にないくらい色白生活なので、毛穴もバアーと開いたような感覚だった。 今年は風邪もひいて、視界が近いところにしかなかったが、外の明るい世界を余裕を持って眺めると気持ちが落ち着くな。 どうやら今年の夏は時間はほとんどないけど、その合間をぬって、サイクリングに行く日が月に4、5回ありそうな予感がする。 一日空いていれば江ノ島までいけるのだけどな。 多摩川の川中に段差があって、その小さな滝のところで、高校生らしき部活動が行われていた。滝にパンチを繰り返しながら、「エイ」「オー」などと叫んでいた。精神的な訓練が今でも行われているんだね。 調布を過ぎて、多摩川の上流に向かうと、風光明媚な川の浸食風景も見られる。その地層だけ岩で、川幅も狭いためか、下流で見る多摩川とも様子が違う。 サイクリングロードの終点、きっと「あきる野」につくと、川遊びをしている人も多くなる。 今現在の暮らしがせせこましいわけではないけど、20分も出かければ視界の広がる風景が見られると思うと、とても小さい暮らししかしていないな、なんて思う。 こんなことを思う年に限って、長旅に出かけたけど、今年も行くのだろうか。そういえば長旅は、ここ3,4年行ってない。 なぜか、旅のロマンを感じて、うだるような暑さに耐えているのでした。

グルッポ・モバイル(携帯グルッポ)

久々の更新ですな。どちらへ行かれていたのかな? まず、グルッポ・テアトロのことを書いておこう。 携帯電話用のホームページを作りました 名称:グルッポ・テアトロ モバイル 愛称:グルッポ・モバイル もしくは携帯グルッポ 左記のQRコードで、バーコードを読み取ってください。 URLを手動で入力される方は http://www.gruppoteatro.net/を入力してください。ちなみに 携帯ページ もパソコンで見られますが、見づらいです。 玄朴と長英のブログ にもその情報を掲載しました。そちらのほうが詳しいな。 ホームページ にはもちろん掲載しましたよ。 携帯用のHPの売りは、ニュース配信。 ニュースなんてあるのかと、出演者に言われましたが、ニュースは作るもの。結構、ネタがあるんだな、注目してみると。 はい。今日はここまで。 しかし、ブログやって1年3か月くらいで、初めての画像の出現ですね。 絵文字も極力使わずに、文章だけの堅苦しいブログ。しかもはじめての画像が機械的なQRコードというのも、馬鹿にしてるのかと怒られそうだけど。 とりあえず、初画像!!

エネルギー

だいぶ暑さに慣れてきたところがあって、それは力をセーブすることなんだけどね。余計な所で力を入れない、怒らない。最短のコースをとる。 みんながみんな、最短のコースをとると、交通は混乱だけど、そこはうまく処理する。一歩早く行くか、一歩待つ。でも波長の合わない人もいて、ぶつかる。そしていらつく。熱くなる。これだと、エネルギーの節約にならない。 節約というと、電力や食費などの節約のことを思い浮かべる。石油の値段も上がって物価も上がり、危機的な状況だという視点で世界を見ると、いろいろな無駄や、もったいなさが目につく。いいことなのかもな。 他の人たちもそんな様子が見てとれる。過剰なサービスや無駄遣いに敏感になっている。良い傾向なんじゃないの。 サイクルロードレースのツール・ド・フランスが佳境を迎えている。スポーツなんて過剰なエネルギーの消費なんだけど、自転車のレースなんてその最たるものだな。一人で先頭を走って逃げるというのも、大いなる無駄なのかもしれない。 でも、ピレネーでのディグレゴリオの逃げは感動的だったし、いちかばちかに賭けなければならない。そのための支出はもったいないという観念はない。 エコだといって、人間の活動を制限するのは問題だという人もいる。最低限排出するものだってあるのだし。 暑い夏。いろいろなところで節約と制限はしなければいけないが、活動は活発にしなければな。 強引に、演劇の稽古の話に引っ張っていきそうだ。 公演を成功させるため、いいエネルギ−だけを使いたい。夏バテしないためにもな。 玄朴と長英ブログ グルッポ・テアトロ

ルノワール

ジャン・ルノワールの本を読んでいる。斜め読みに近いのだけど、相変わらずというか、当然というか、よいこと言ってますね、彼は。 ジャン・ルノワールの言葉や思想というのは、少しも過激でなく、どちらかというと通俗に近いものがある。人への優しさや信頼などが、確信をもって書かれているのだ。 「私は、完成した作品のことよりも一緒にそれを作った友人たちのことを思い出すのだ。いちばん鮮やかな思い出とは、スタッフやキャストの思い出である。」 「フランス人の商人と一緒にいるよりも、ヒンズー教徒の大道具係やキャメラマンと一緒にいるほうがくつろげる。同業者以外の人達と一緒にいると、死ぬほど退屈してしまう。」(ともに『ジャン・ルノワール エッセイ集』(野崎歓 訳) 多くの人が感じていても、それを口に出して、しかも宣言までするのをためらうような言葉。私は人間が好きなんだ、友達が好きなんだ、という、ごく単純な言葉。こんな言葉は簡単には出ないだろうし、ルノワールほど鮮やかにあっけらかんとそれを語るのは並大抵じゃない。通俗が通俗に聞こえない。 ひどく単純な思想にはとても複雑な変遷の過程があるという。誰にでも分かりやすいマニュアルや説明書は、作るのがとても難しいともいう。 単純に思えることばも、それを明快・簡潔に語るのは難しい。 ジャン・ルノワールの文章を読んでいると、ところどころにそんな宝石が見つかる。とても素敵な体験だ。 分かりやすいこと、簡潔で明快なこと、単純に思える思想は、目指してはいるが難しいことなのだ。

体全体が顔

モンテーニュはこう言ったらしい。 「ある乞食が、冬のさなかにシャツ一枚しか身につけず、それでいて耳までテンの毛皮にくるまっている者と同じくらい溌剌としているので、どうやったらそんなふうに我慢できるのかと尋ねてみたところ、その乞食はこう答えた――「でもね、旦那だって顔は外にむき出しでしょう。俺は体全体が顔なのだ」(R・ブレッソン『シネマトグラフ』から) ブレッソンは、映画と演技についての考察のひとつでこれを引用した。 体全体が顔ね。そのとおりだね。 おそらく、ブレッソンの意図としては、観念だけや顔だけの演技は、それは人間でない、人間は顔に表情が表れるときに、体全体でその表情を作っているのだと言いたいのだと思う。 ぼくは、販売の仕事は、結構うつむいてやることが多く、それは今日みたいに忙しい日は、そうするのが一番効率がよい。うつむいていても、お客さんの体の動きを敏感に察知するから、お客さんが何をしたいのかは、たいていは分かる。 そんなふうに、体の動きを主に見て行くと、人間っておもしろいななんて思う。だからといって顔を見ても、顔の表情はそんなに豊かなものではない。体にあらわれるぶんだけ、顔の表情は結構無表情だったりする。 お客さんは、たいてい急いでいるのか、自分のお金を支払うと次の行動に移る。早くお釣りを出せと言わんばかりだ。もう一歩も二歩も進みかけている人が多い。体は半身になってお釣りだけをもらう。もしくは、買った新聞を、お釣りをもらう間に読み始める人もいる。 反対に、こちらがお釣りを払ったのだから、早く目の前から去ってほしいのに、なぜかとてもゆったりしている人がいる。その人は、とてもテンポが遅いし、体はまだ売り場の方に未練があるのが見てとれる。 お金を払うのに、財布のなかから取り出すのに手間取って、次に並んでいる人を気に掛ける人もいる。そういう人は意識が後方に行っていて、体の表情は目が後ろにあるかのようだ。 電車に乗っていても、自転車で車の動きを見ていてもそれが分かる。車の場合は、車自体が顔なのだ。車が表情を持っている。 俳優の演技をいくつか見ていて良く分かるのは、演技し始めの俳優やタレントや芸人ほど顔の表情を作ることに熱心になるのだ。 かえってベテランの俳優さんほど無表情であることが多い。勘で分かるのかもな。 顔の表情すべてが悪い

と・も・だ・ち

一日一日が過ぎて行く。当然のことだが。 風邪をひいてから完全には回復していなくて、万全というわけではない。 身の回りのことも、劇的ではないが、微妙に変化してきている。いい兆候かもしれない。 忙しい日々も徐々にやってきて、その忙しさが快感なのかもしれない。 意識もいろいろなところに拡散していて、その慌ただしさが良かったりする。 睡眠時間も徐々に規則的になってきている。 なんだろうな。 ひとりの人間が分からなくなるときがある。普段から会っている人もそうだし、一年に一度しか会わない人もそうだし。その人と自分がどんな関係なのかななんて考えたりする。 三年に一度しか会わなくても、気持ちよく会える人もいる。毎日顔を合わせていても、微妙な距離感を保って接する人もいる。深く話し合えばそれが解消するかというとそうでもない。かえって、何だこの感覚は!と思うほど、すんなり打ち解けられる人もいる。 人を分かろうとする努力をどこまですればいいのか、なんても考える。結構ぼくなんかは、分かろうとしないように見えるらしいし、実際、付き合いがうんざりするときもある。話し合えば分かるというのでもない。話の表面に出てくる浅薄な言動なんていくら交わしても深く知ることにはならない。 あえ距離を取りながら、深くその人を尊敬するということもある。距離が近くなって、おもしろくないところを見たくはないのだ。 友達っておもしろいね。 あと2年も過ぎれば、今の混沌も整理されて、人を少しは深く知ることができる。そのかわり、また新たな混沌がやって来るのだろうが。 玄朴と長英。ふたりは、実際は取り立てて仲の良い人ではなかったらしい。その接点も見出しにくいのかもしれない。 しかし、いざ二人を同じ土俵に乗せてみると、おもしろい対比とともに、共通するものが見いだせる。人生への確固たる指標だ。 玄朴と長英の稽古も続けながらいろいろ考えた。それは俳優をやっていたときからそうだった。自分が今取り組んでいる戯曲の主要なテーマや出来事が、自分の人生を考えるいい契機になっているなと。つまり、自分が取り組んでいる戯曲に、少しではあるかもしれないけど、影響されているのだなと。 そんな影響というものがなければつまらないよな。同じように、お客さんも、観に来た演劇にそれを求めているのかもしれないと思うと、うか

クレーム

バイト先で、接客クレームの件で上司からお咎めを受けた。先週のお客さんがお客さま相談室に問い合わせしたのでしょう。はっきりと覚えているので、謝ったけどね。謝るのは下手ではない。しかも気持ちよく謝るのをモットーとしているところがあって、爽やかに、高原にそよ風が吹くように謝るのが好きだ。 だから、あんまり怒られはしないのだよ。時間的にも短く、事の重大性も軽くする。お咎めを受ける側が深刻になると、お咎めする側もきつく叱らなければいけない。受ける側が軽く爽やかにすると、叱る側も気が軽くなるものだ。お互いにとって良いことだ。 ときには「反省していない」などと、かえってきつく叱る人もいるが、反省はしているんだ。反省を重くすることが嫌いなだけだ。 何度かこんなことしている。するたびに反省はするけど、現場ではつい我慢できないのだな。 はっきりと覚えている。商品を袋に入れず、レシートを渡さなかった罪だ。たいていのお客さんが、どちらも要求しないし、品物的に袋に入れる必要のないものと判断した。勝手に判断するなというのは会社的な立場だろう。それも分かる。でもレジ袋の濫用もよくない。たいていのお客さんはきちんとそれを理解している。誰もが理解するのじゃないものなのだな。 袋が欲しければ「袋に入れて」と頼めば済むもの。それで気持ちよくやりとりできるのだが、この「袋に入れて」という言葉をかけないで、袋に入れてもらうまでずっと待っているお客さんがいる。こちらも何かを察して袋を用意するのだが、忙しくほかのお客さんに意識が行っているときは言われるまで放っておく。するとお客さんも黙っている。それが我慢ならないのだな。何か無性に腹立つ。「何で袋に入れないの」などと高飛車な態度に出られるとカチンとくる。 どうして「袋に入れて」とひとこと言えないの? というか、言葉のやりとりで人に物を頼むというのが、結構、現代の人間に共通して弱くなっている気がする。「早くしろよ」とせかされるのも腹立つが、そういった竹を割ったような性格は分かりやすい。 しかし、相手が何を考えているかが分からないときほど、不気味なものはないだろう。「キレやすい」などといった問題も、そういったコミュニケーション不全が原因でもある。 物を頼むということは、お願いすることで人を動かすものなので、それなりのコミュニケーションとな

歴史探訪

暑い… ふう… そんななか、グルッポ・テアトロの「玄朴と長英ツアー」として、東京都心を練り歩いた。宮川知久さんと栗栖正二さんと三人で。 前の「お夏清十郎」のときも姫路に旅行したが、今回は舞台が江戸ということで、東京に見るべきところがあるので東京都心を見て回った。この暑さから、姫路に行った時を思い出した。あれは8月10日くらいだったかな。暑い中歩くことが必要らしいな。 詳しくは 公演ブログ に書いておきました。ご覧ください。 前に、あるプロデューサーに研究旅行の話をしたら、「じゃあ、竹取物語をやるときは、月まで行くの?」なんて嫌味を言われたが、きっと暑い中、月まで行くんだろうな、わたしたちは。行ってやる。というか、まったくの創作芝居でない限り、実地調査はするべきだろうな。芝居をつくるのに、即席で作っているわけじゃないのだから、取材は必要なわけだ。取材しない記者なんて聞いたことないだろ。 真山青果が綿密に史実を調べ上げ書いた戯曲「玄朴と長英」を、芝居の範囲だけで処理するのは作家に失礼。最善を尽くすのにさまざまな方法を使うのは、戯曲を上演させてもらう人の良心でしょ。どんな忙しくても取材をする、作家や演出者や俳優などを、ぼくは尊敬する。作品にそれが表れるから不思議だ。 それにしても暑かった。秋葉原や表参道など、人通りの多いところも汗だくになりながら練り歩いた。疲れました。でも楽しかったな。 いくつかのいいヒントも発見したし。よしよし。

アタック

今日は蒸し暑いなか稽古に出かけた。 あっ、そういえば、稽古もう始まった。 玄朴と長英 (ホームページ) 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜 (ブログ) 稽古のやり方も、毎回趣向を変えてやっているのだけど、おもしろいね。いろいろなことが分かってくる。 出演者のひとりと、稽古方法のことですれ違いがあって、議論になった。 前回の「お夏清十郎」も、こんな感じで反発を受けた。理解してもらえていると思っていた人からも反発を受けたし。それは仕方ないことだ。いろいろなところで演技をしている人がいて、いろいろな方法論があるのだから。 しかし、確信犯だから、方法を変えはしない。そこらへんが頑固。でも、一番必要なのは、お客さんが見て、納得できるような人間らしい演技なわけで、役者の機嫌をとることではない。強引過ぎるとは思わないのだが、摩擦を生じさせることにかけては、ぼくは達者なようだ。 でも、結構、こちらもへこむもんなのだな。無傷で平気なわけではない。 方法が変わりすぎているわけでもないのにな… 説明が下手なのだろうか。人望がないのだろうか。 嫌われることも多いから、そうに違いない! サッカーの欧州選手権も見て思ったが、スペインの優勝だけでなく、戦術面つまりは訓練の仕方というのが、少し前とだいぶ変わったな。ああ、こうして進歩していくのだな。日本のサッカーも進歩している。 自転車のサイクルロードレース。これも、本質は変わりないにせよ、戦術やチームの国籍編成がだいぶ様変わりした。多国籍になり、多様な価値観の共存が求められる。 世界の演劇シーンも変わっている。テーマの扱い方がより先鋭的になってきた。50年前のシュイクスピア上演と、今のとでは、今の方が切り口は鋭い。おもしろいかどうかは、さまざまだが。 ぼくもできる限りの進歩はしたいと願っている。現代性をつかみたいから。そのために少し強引でも、最良と思える方法で進行してもいいんじゃないか。まだまだ未熟なのは知っているけど、安全な位置を取って、守りの演劇はしたくない。スペインのサッカーも、自転車ロードレースのセッラも、世界の演劇も、攻撃を仕掛けているのだから。 自滅する時は自滅する。それは能力に乏しいか、努力が足りないんだろう。攻撃しなければ勝てない、だから飛びだす。 こんなことを言って、自分を慰めているの