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走りはじめました

タイトルそのままの通り、走り始めました。 どこを? ー そう、家の近所の公園です。 いつ? ー 夜。 なぜ走り始めたかというと、 近ごろ運動不足で息切れがしてとか… ダイエットのためとか… 東京マラソンをめざしてとか… 全然そんなのではなくて、ただスマートフォンAndroidの健康アプリケーションを試してみたくなったからなのです。 いくつかあったのですが、評判がよかったのと直感でこれにしました。 RunKeeper https://market.android.com/details?id=com.fitnesskeeper.runkeeper.pro 初日 2012年1月30日(月) 距離5.34km 35分43秒 平均8.98km/h これが2日目、3日目、4日目とつづき 今夜5日目 距離8.55km 47分36秒 平均10.78km/h 記録は こちら なんだかどんどん速くなってきている… 本格的になってしまう。 きっかけはアプリを試すことであったけど、目標はどこに据えよう?と考えました。 さて、きのうこんな記事がでましたね。 米フェイスブック「5つの経営理念」、ザッカーバーグ氏が発表 2012年02月02日 14:06 発信地:ワシントンD.C./米国 AFP 5つの理念は ・影響力が重要(FOCUS ON IMPACT) ・素早く動く(MOVE FAST) ・大胆であれ(BE BOLD) ・オープンであれ(BE OPEN) ・社会的価値を築く(BUILD SOCIAL VALUE) これにならって わたしの「5つのランニング理念」 作りました、はい。どうでもいいことなんですがね。 ①無理しない 雨が降ったら休みます。観劇の用事があったら無理して走りません。 ②飲んだら走らない 当然ですね。お酒を飲み交わす機会も蹴ったりしない。 ③アスリートと競わない 速く走る人いるんですわ。つい負けん気を出してしまいがちなので抑えます。 ④速く走ろうとしない タイムがどんどん良くなっているんだけど、それに一喜一憂しない。速く走るのが目的でないし。 ⑤目標はマラソンじゃない これ重要...

変化するもの

「保養」ということばがある。仕事や勤務から離れて心身の回復をはかることらしい。美しいものに接して、俗事を忘れうっとりするという意味もあるようだ。 ブログの更新が滞ったときのいつもの言い訳は「サボった」という言い方だが、これほど長期の休暇をとったわけだからそんないいぐさは通用しない。ただ、強制的に更新しなければいけないわけでもないし、こころに決めて書き続けようという意志があるわけでもないので、じっくり休んで静養するのも悪くはない。休養していたといって温泉地で疲れをいやしていたわけでもない。 短い過去をふりかえっただけでも、生活の一部は思いもよらない変化をしているものだ。何も変わらずにのんびりと過ごしている一面もある。全体としては何も変わっていないのが常だ…残念ながら。 エスプレッソマシーンを購入したので、インスタントからエスプレッソに劇的に変化したことは、自分のなかでは重大な出来事になる。手間はかかるが気分転換にもなる。粉も買わなくてはいけない。毎週コーヒー屋で豆をひいてもらうのが習慣になった。 いろいろなことのスリム化も大きな変化だと思っている。財布からでるお金を減らそうとしたわけではないが、無駄な買い物を控えるようになった。飲料や食料をついつい買ってしまう癖もなくなった。なによりも自分のからだのムダを省く習慣ができたことは収穫だった。夏から取り組んできたスリム化が効を奏しかなりの減量に成功した。リバウンドもないことだし、継続していこうと思っている。 対外活動という面では何も変化がない。はたから見ると何も変わっていない、かえって性悪になっているんじゃないかと思えるようだ。外面や行動がなにひとつ変化していないのは、そのひとが停滞しているように見えておかしくない。というわけで今は停滞期、かっこよく言えば潜伏期。格好よくないかもしれないが…

優しくなる

ここしばらくは風邪で寝込んでいたし、まだ咳きこんで回復していない状態だから、外出する時はなるべくおとなしくしている。 道路をふさいで話しこんでいるおばあさんたちの脇をそっと通り抜け、角から勢いよく飛びこんでくる自転車に乗ったにいさんも睨まず、駅をゆっくりゆっくり歩く人たちにもいらつかず。 優しくなってみたよ。 はは、優しいだってよ。 もともと冷たくはないけど、見込みのない人には優しくないぼくなんですよ。 性格が完全に曲がっている人、そしてそんな状態に陥っているのを気づかない人には。そんな性根の悪い人とは友達どころか、知り合いにもなりたくない。きっぱり拒絶する。 自分と親しい人は、そんなことないのだよね。 また、自分の友達は少し大目に見てしまうのが人間というものでしょう。 だから案外、そんな性根の悪い人たちを友達として接するようにすれば、優しくなれるのかも。 世の中には、いい人、気持ちのよい人、性格の良い人、気持ちよくさせる人、和ませてくれる人が、ぽつぽついるんですよね。しかも、どんな人でも友達がいるなら、みんな、そんな心地よい接し方をしているんでしょうね。 それが、公の場に出ると修羅場になるから恐いよ、人間って。 車の中では気持ちいい人でありながら、路地を猛スピードで駆け抜ける運転手だっている。 仲間うちでは、はきはきしていても、コンビニのレジ前に立つと尊大な客になる人もいる。 たばこ欲しいのに、ぼそぼそと銘柄を言って、聞こえないと怒る。 サークルのノリで駅前で円陣を組んで、反省会をする大学生。 すべての人に気持ちよく接することは無理だけど、友達以外にも、最低限接する人には、気持ち良い人間でありたいよね。嫌われることは嫌いだからね、誰でも。 きっと不可能な幻想なのかもしれない。でも、小集団ではよく起こることだし、中集団にだって起こりうる。 初めて行った地方の村で、朝通りすがりの小学生から「おはようございます」と声をかけられて、こちらもあいさつをかえす感動は忘れられない。 単に物の売り買いをしているときの、売り手と買い手の両者の「ありがとう」ほど、お互いの気持ちをよくするものはない。 今日は、風邪を利用して、優しくなる練習をしていたわけだな。 でも健康じゃないから、優しくなる体力がなくなったかも。 優しくなるに...

健康

またまた熱を出した。またまたとは言っても、8か月ぶりか。 金曜の夜から怪しかったけど、土曜日から今日日曜日の夕方まで、かなりひどかったな。 温かくして眠るとひどく汗をかいて、そのたびにお風呂に入って汗を流した。 こんなときでも発見はあるもので、体脂肪計付きの体重計で逐一体重を計ってみたら、風邪の引き始めの頃から、体重は1〜2キロ下降したけど、体脂肪はどんどん上昇したのだ。普段から比べると、7〜8%も上がった。これはなぜでしょうかね。今はその気でないので調べることはよすけれど、体重が2キロも減って、体脂肪が7%も上がるというのは、人間の体として変調がある証拠なんだろうね。風邪をひいて熱が上がるというのは、こんな数値にもあらわれるのかもね。 そう。風邪を引いていたからか、土曜日からは朦朧としていて、それでも知り合いの演劇を観に新宿までは行く事はできた。しかも自転車で。 観た芝居もおもしろい試みではあったけど、風邪ひきのぼくには魅力的に思えず。 その帰りに食べた麻婆豆腐もあまりおいしくなかったな。 今日食べたハムカツもコロッケもおいしくなかった。 きっと風邪をひくと、賞味する感覚も失われるのだな。 唯一おいしいと思えるのが、烏龍茶だからな。 寝てばかりはいられないと、少しだるいが、夜からは起き上がって活動している。このほうが風邪の治りが早いんじゃないか。リハビリよ、リハビリ。 健康ね。健康。これが減少すると、何もできないね。 明日からは治ると確信してはいるが、まだ少しだるいなあ。

日なたぼっこの季節

虫の音が毎晩響いてきて、ああ秋なんだなァと思うこの頃。 公演のあとは自転車旅行と目論んでいたが、涼しすぎるのと雨の予報と、ワークショップの予定とで、計画がつぶれてしまった。というか、諦めた。 そのかわり、今日、多摩川のサイクリングロードを疾走してきた。川沿いの土手でたたずんでいる人やバーベキューをしている人が多かった。 世界選、バッランすごかったねえ。 相変わらずの脈絡のない話の進め方です。 部屋の片づけも済んだし、やらなければいけないことはもうほとんど済んだ。だから、短いバカンスと目論んでいたわけです、さっきの話に戻るけど。 休みっていいね、バカンスっていいね。 気持にゆとりができる。 今日は長電話をしてしまった。人の話を聞くということは、おもしろいね。老若を問わず、男女を問わず、自分のことをいろいろと話したがるものだ。それを聞くこと、喜んで聞くこと。もちろん自分も何か自分のことを話すのだがね。 今後も何人かと会って、お話しをする機会をもとうとも思う。 やはり、自分一人じゃ煮詰まるものだし、自分の知らない世界のほうがより興味深いものだし。 じっくりと話し合えるって、素敵なことだな。 お互い境遇が違っても、仕事が違っても、共通するものっていっぱいあるから。 あ、それと、人から教えてもらった映画をレンタルで4本見ました。 岩井俊二監督の「花とアリス」「リリィ・シュシュ」「雪の王様」「ルナティック・ラヴ」。おもしろかったです。 何よりも人から教えてもらったというのが、一番のおもしろさかもしれない。その人がどれほどその映画が好きなのかも分かるし。 ええ、結構頑固な人ですが、こうして柔軟に人の影響を受けようとする時期もあるんですわ。 ひと仕事終わって、また外の世界を浴びて栄養をとりたいのかもしれない。 ある意味、軽薄なほど、ふわふわ浮き上がっている時期も必要なんじゃないか。顔がほてるほど、外の空気にさらされたい。 日なたぼっこの季節なんです、きっと。

顔見世

まったくもって野ざらし状態ですな。 生きています。 いろいろと、ブログなり、事務作業なり、稽古なりで、こちらに手が回らない。いろいろと思うこと、考えること、憤ることあるけどなあ。 さっと登場して、すぐ帰るのもなんだから、ひと演説ぶちまけますか、なんて。 今日は、小田急線の人身事故で足止めをくらい、新宿から京王線を使って帰りました。はい、それだけ。 うむ。 こんな調子で書いていると、真面目に書けないな。 だから今日は顔見世ということで勘弁してください。

天気の話

雷がひどかった。 大粒の雨が降って、稲妻が走っていた。 そんな中、自転車でサイクリング、でもパンク。また家に帰って、パンク直して雨の中出発。サイクリングロードは雷にやられそう。恐る恐る走ったようなものだった。 大雨で雨漏りして一時閉店になった店もあるようだ。 天気といえば、天気の話というものは話の糸口になる。自分でもつい、「暑いですね」とか「ひどい雷だったですね」とか話してしまう。 客観的に聞くと、話の種がないから天気の話をしているようだが、きっとそれは違う。いわば序文として、話の序ノ口として、差し障りのないところから始めるのだろう。それがないと、円滑なやりとりができない。 いきなり本論に入る商談というものはないだろう。いきなり告白するデートも興ざめだ。 天気の話がいい潤滑油になるのだ。 その話にこだわりすぎるのも考えものだが、天気の話をしておいて、聞く側も言う側も準備が整えられるのがうれしい。 前座のようなものだな。 今日はちと友達と話しこんでしまった。 話の始め・きっかけは、そういえば天気の話だったなと思った。 別に話の種がないわけではないけど、あえて遠回りして天気の話から入るのは、案外いいことなのかもしれない。 しかも、見ず知らずの人の場合でも共有できるのが天気の話だから便利である。 明日は晴れるかな? そんな話からどれだけ人間の会話が盛り上がることであろう。 おもしろいと同時に不思議でもある。

エネルギー

だいぶ暑さに慣れてきたところがあって、それは力をセーブすることなんだけどね。余計な所で力を入れない、怒らない。最短のコースをとる。 みんながみんな、最短のコースをとると、交通は混乱だけど、そこはうまく処理する。一歩早く行くか、一歩待つ。でも波長の合わない人もいて、ぶつかる。そしていらつく。熱くなる。これだと、エネルギーの節約にならない。 節約というと、電力や食費などの節約のことを思い浮かべる。石油の値段も上がって物価も上がり、危機的な状況だという視点で世界を見ると、いろいろな無駄や、もったいなさが目につく。いいことなのかもな。 他の人たちもそんな様子が見てとれる。過剰なサービスや無駄遣いに敏感になっている。良い傾向なんじゃないの。 サイクルロードレースのツール・ド・フランスが佳境を迎えている。スポーツなんて過剰なエネルギーの消費なんだけど、自転車のレースなんてその最たるものだな。一人で先頭を走って逃げるというのも、大いなる無駄なのかもしれない。 でも、ピレネーでのディグレゴリオの逃げは感動的だったし、いちかばちかに賭けなければならない。そのための支出はもったいないという観念はない。 エコだといって、人間の活動を制限するのは問題だという人もいる。最低限排出するものだってあるのだし。 暑い夏。いろいろなところで節約と制限はしなければいけないが、活動は活発にしなければな。 強引に、演劇の稽古の話に引っ張っていきそうだ。 公演を成功させるため、いいエネルギ−だけを使いたい。夏バテしないためにもな。 玄朴と長英ブログ グルッポ・テアトロ

玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜

「いつのまにこんなになっていたか…」 ふと、こんな思いになるときがある。 おそらく、誕生日や自分の歳を振り返るときが一番こんな思いになるであろう。 自分の部屋にたまった塵や本やCDなどもそうであろうか。 自分の履歴書を書く時の経歴の多さもそれであろう。 今回、ぼくがこんな気持になったのは、このブログを含めて、5年前には触ることさえためらわれたパソコンを使っての用事が多くなったことである。 知っている人にとっては自明だが、ぼくは精密機械を操るような柄ではなかったのだ。しかも、意地を張って、触ろうともしなかったし。 携帯も前は持たなくても不便でなかったため、持っていなかった。 それが今では… 携帯は、なくてもそれほど不便を感じないが、パソコンは自分が運営するHPやらブログやらで、なければ話にならないほどになってきた。 これは、必要から迫られたことが、必要不可欠にまでなったことの、ひとつの過程でもある。 グルッポ・テアトロのためがほとんどではあるが、今では、PCで仕事もするようになったのだから。 で、振り返ってみたわけである。 このブログだろ。 グルッポ・テアトロのホームページだろ。 『お夏清十郎』のブログだろ。 mixiだろ。 それと、陰でこそこそ書いて、今は放置状態の、誰にも知らせていない、シナリオのブログだろ。 作成途中で、性質上完成しなければ告知しない、グルッポ・テアトロの携帯ホームページだろ。 演劇のサイトに登録して、記事を投稿したこともあったっけな。 で、今度追加されたのが、『玄朴と長英』の公演ブログ。 それの紹介をしますわ。 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜  (公演のブログです。) ふう。挙げてみるときりがない。 いつから、こんな子になったの…? いいんです。 どんなに悪に(?)手を染めても、染まりきらないから。 このネットでのいろいろな手法なども徐々におぼえてきているし。 でも、もともとが細密なネット構造に疎い人間だから、自分流の使いかたをしているにすぎないけどな。 あ、それと、 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜 は、玄朴と長英の公演の稽古などについて書いていきます。 この、「ささやきは遠音となって」はまったく私的なささやきというスタンスを貫き(?)、稽古場での愚痴でも書いてや...

うなされる夢

風邪を引いてしまった。久しぶりの感覚だ。 腰などの関節が痛くなるし、頭がぼうっとしてくるし、すぐ眠くなるし、喉が痛いし。何度か小分けにして眠ったら、徐々に回復してきて、そんな感覚も久しぶりで、なんだか新鮮な気持ちになった。 風邪をひいたときに見る夢で覚えているのは、得体の知れないものが次々と大きくなって迫ってくる夢で、熱が高ければ高いほどそんな夢を見たっけな。 今回見た夢は、はっきり覚えてはいないが、非常に細かい規則を守らなければいけないとかいうもので、強迫観念になっていた。 風邪をひいて熱を出したときはうなされるものだが、うなされるというのは、このような形で、迫ってくるものと格闘していることなのだろう。 舞台の公演中の夢というのも、そういった強迫観念で、ぼくの場合、舞台の上というよりも、裏のほうをどうするかということに迫られていた気がする。ここで舞台に出なくてはとか、ここで装置を転換しなければといったこと。舞台裏の処理の方が演技よりも、重圧になっていたのだろう。 一時期夢など見ないか、覚えていないかの時期があったが、そんなときは重圧がなかったのだろうか。そんな人生というのも味気ないな。いくら自分がうなされる夢でも、夢を見るということに快感というものはある。朝起きて、見た夢を反芻するなんて時間がとても貴重に思えてくる。 まだ風邪は治りきってはいないが、だいぶ良くなった。今日これから眠るのだが、昨日みたいにうなされるのかが楽しみではある。 そんなものを楽しみにするより、早く風邪を直しなさい。

耳を傾けて

調べものをして文章を書く日が続いている。自分の知らないことばかりなのに、なぜかよく知っているかのように書くので、ときどきこそばゆいこともある。 それにしても、調べものをするというのは楽しいことだね。自分がまだまだ知らないことがあり、それに謙虚に取り組めるから。 外壁のことやら、巫女のことやら、塾のことやら… そういえば、ふと思いだしたのだけど、大学を卒業するときに恩師から、「君は大学院に入って研究するべきだ」と言われたな。研究の地道な努力と、積み重ねの大切さを教わった。卒業後の身の処し方が決まっていたので先生の助言には従えなかったけど。でも、今にして思うと、調べるというのも案外楽しいものだな。 今日は4回目の制作セミナーに行ってきた。ビデオを見たり、裏話を聞きながら、なんとかぼくも大きな公演を成し遂げたいと思ったな。やはり楽しんで仕事なり作業なりに取り組めるというのは素晴らしいことなのだな。 素晴らしいといえば、その制作セミナーの開催元である世田谷パブリックシアターもそうだな。正直、最近の演目は芸術監督の色と折り合いがつかなくて、ぼくは好きじゃないのだが、さまざまな取り組みには感心することが多い。 公共劇場ということもあるだろう。情報開示と積極的な社会活動は学ぶべきことが多い。その先頭を走っている劇場のひとつで応援していきたいし、ぼくもこれから何かをしたい。 今日は、講師の話に耳を傾け、家では調べものをして未知の知識に耳を傾ける。なかなか刺激的な生活ではある。車の騒音のなかで過ごしていたひと昔前とはまったく違った環境で、それなりに適応しているということか。 やるべき課題を大方済ませ、気分的にも楽なので、希望に満ち溢れた気分の夜でした。終わり。

フィットネス

今日なんてとても涼しくて気持ちいいから、過ごしやすいなあ。あまり暑すぎるのも、逆に寒すぎるのもダメで、そんなこと考えると気持ちよく過ごせる日なんて、1年に10日あるかないかくらいだろうか?別にお肌がわがままなわけじゃない。周りの空気に体が心地よくフィットするといった感じだろうか?1日でも、気温の上下、湿度の上下、太陽の当たる当たらないで、そんな心地よさなんて変わってくるのだから難しい。 フィットするといえば、自分の体の具合というのも、どこかしら不具合があったり、気分が悪かったりで年中通して同じことなんてない。痩せ具合・太り具合にも波があって、自分が気持ちよく動けるという体の締まり具合は、なかなか見つけ出せるものじゃない。むかしから、体が軽く痩せていたほうが気分も体も軽やかになり心地よいのだが、食べるという誘惑はそんなときに悪魔のように襲って来て、だからこそ食もおいしくいただけて、ついでに量もとってしまい、体の重量バランスを崩してしまう。 土曜日から、自転車レースのジロ・デ・イタリアが始めるけど、急きょ1週間前に大会に参加を許されたアスタナチームの選手なんて、コンディションを整えるのが難しいだろうな。ビッグな大会だから、それを優先させるけど、体は別なペースで調整しようとしていたのだから。これが、一般の人なら徹夜で企画書、早出・残業で準備を整えるといったことが可能だが、スポーツ選手のしかも過酷なステージレースだから、眠らないでなんてことはできないし、調整の目標を変えなければいけない。言ってみれば、急きょパリコレに出ることになったから、ダイエットしてというものだろうな。 演劇のスタニフラフスキー。俳優の身支度ということばを使って、舞台に出るまでの、もしくは日常からの訓練として、いくつかの訓練をあげている。架空対象行動もそれで、たとえばコップが実際はないのに、あるかのようにコップをつかんで飲んだりする訓練。人に見せるわけでなく、自分の感覚・注意を確かめる意味で。いわばフィットネスの訓練。今日は調子がいいだろうかなどと確かめれるかもしれない。 朝、夢を見たのだが、夢のなかの自分はいつも重くて嫌だ。なぜかマラソンレースをしていて、ぼくとチームメイトのひとりが後ろをかなり引き離した。チームメイトは人間なのに体を地面に平行にして低空飛行していた!その後ろについて空気...

マスメディアを論ずるはずだった・・・

うわあ。またgooにやられた。長々と良い気になってマスメディアのことを書いていたら、投稿するのにエラーが生じた。きちんと手続きを踏んだのに…1500字くらい書いたのに…時間と文字数でギャラを請求しようかな。 同じことを書くのは馬鹿らしいし。 とりあえず、今日受けたプロデューサーの仕事の講座が勉強になったことと、テレビスターが舞台にまで侵入していることを書いたのだな。壮大に書いたので、書けば書くほどその努力が報われず、徒労に終わってしまうのが皮肉でいいな。壮大に書いたのに、何一つ残らない。マスメディアを論ず!、何もなし。ざまあみろだ。 ふー。 ま、書いているうちに自分のなかでいろいろな考えをまとめられたので、自分のなかではよい体験だったとして慰めよう。

技術とプロと

今日は床屋に行ってきたのだけど、いつもの親爺さんの愛想の好さがなく、どうもぎこちない様子だった。しかも、櫛を3,4度も落としたりして、いつもとは違うように思えた。彼の中に何があったのかは分からないが、おそらく精神的に何か負担になるようなことを抱えていたには違いない。 そんな様子ではあったが、ハサミさばきの技術はしっかりしたもので、そこに対しては不安を覚えることはなかった。身につけた技術の質は、そんなに簡単に落とせるものではない。 自転車に乗る技術、都心でうまく走る技術というものもあるので、どんなに気分がすぐれなくて流しながら都心を走っていても、一定の時間以上にかかることはない。これも随分と乗りなれた経験からだろう。 チベット問題の聖火リレーの妨害も問題となったが、マスメディアに映るぐらいの行動に出る人は、やはりそれなりの技術があるのだということも推測がつく。熱い思いで国を憂う人が映し出される場合と、妨害の先頭に立つ人の場合では、まったく別なことをしているようにしか思えない。市民運動の盛んな英仏の市民のデモと、そこで繰り返される一部の策略・行動は別種のものだ。どう見ても、火を盗もうとした人は、プロとは言わないまでも、ある一定の技術は持っている。 日本の調査捕鯨船の妨害と、この聖火リレーの妨害は同種のものであると思うのだが、どうであろうか?一方は、海賊船に乗り自らを名乗り出ていて、一方は市民に紛れている。どちらも、ある過激派の行動と言える。 オーストラリアの市民に捕鯨への批判が多いにしても、彼等は調査船を妨害することまではしないのだ。 豪では日本政府に対する風当たりも強いことは、中国政府にたいする世界の風当たりと同じ。 聖火リレーを妨害する側も、それを防ごうとする「青シャツ」も、チベット問題を拡大化しようとする諜報組織も、問題をなかったことにする中国政府も、すべて専門家による一種の諜略と捉えるのなら、ある意味で、民衆はいいように利用され、置き去りにされているように見えなくもない。聖火ランナーの一様に困惑した顔がとても印象的だ。 話はかわって、テレビで活躍するタレントにすら技術があり、たとえ海外でどれだけのエンターティナーであったとしても、日本のテレビに引っ張り出されると、ある一種の違和感を感じるものである。テレビ慣れしたスポーツ選手や弁護士など...

勉強

ほんといろいろ勉強させてもらっています。いろいろ。 世の中というものはおもしろいものですね。 同じことをやっても、同じ作業をやっても、今と昔ではまったく違ったものになる。少なくとも今のほうが滑らかに為せる。 角もとれて丸くなる。丸くなるのは年輪を増やして贅肉がつくわけでない。贅肉をそぎ落としたために丸くなるということもある。 昔はカっとしていたことも、今はそれを抑える術を身につけた。同じ客、同じような人間、同じような事象があっても、昔と同じように怒っていても進歩がない。 お金を投げるお客も、急に方向を変えるタクシーも、幅よせしてくる車も、なかなか来ないエレベータも、無愛想な店員も、みんなみんな…怒りを和らげ、肩の震えがなくなったときに、いったい何が残るか? 処世術とでもいうのか?確かに、いつまでも怒りまくっている人生もおもしろくないものだ。かといって、何にも怒らない無気力の状態にはなりたくない。そのために、あえて怒りを爆発させることを課題にしてきた今までとは違って、要所要所で怒るという人生を選択する。 何を言いたいのか意味不明…ははは… 結局、今生きている自分と、その周囲、大きく視野を広げて世界のすみずみ、それを生きやすくするために、自分も世界も変革しなければいけない。 自分と世界が何を問題としているのか、少なくとも身近な人が何に困ってどうしたいと思っているのか。 それを探る、探る、探る。 やはり、世の中を勉強しなきゃね。 わけわからない文章、失礼ござんした。今日は酔いどれの文章になってしまいました…ははは…

おーい,goo!

せっかく書いて、きちんと手続きして投稿した文章が消えてしまったよ。 きちんとボタンを押したのにこれじゃな。 不愉快だぞ! 何度こんな目に会ったか… 耐えるしかないのか?運命か? な、あほな! やる気なくすね、こういうの。

いつまでもどこまでも

今日は、銀座のギャラリーで催された友達の主催の展覧会に行ってきた。その後、バイトもあったのだけど、展覧会からの流れのまま気持ちよく仕事ができた。まあ、土曜日で・寒くて・人が少ない・販売の仕事だったから、暇だったこともある。 バイトの前の展覧会で、そこに作品を出品している作家さんとお話しをした。いいね、ほんと。物を作る人の魂を感じた。こつこつと作り続けること。趣味であろうが、仕事であろうが、楽しみをもって作り続けること。勉強になった。出品していた作品もセンスがあったので、結果にも表れているし。感じのいい人でもあった。 その展覧会では、『お夏清十郎』公演の作曲家である、若柳吉三郎さんのギターデュオも聞けた。素晴らしかったです。 いいね、ほんと。人と接して、いい技術と、いい結果にめぐりあう。 その後の小売りのバイトも、落ち着いて、ひとりひとりのお客さんに接することができた。 もう終わったけど、主催者はこんな店も開いております。紹介しておくね。 ボックスショップ&ギャラリー cocokara そこで知り合った作家さん。(デザインの作家です) Boskyさんのホームページ 普段は無愛想に「大関とバタピー」を買っていくおじさん。今日はにこにこしていた。 リンクなし。(知りたければ上野に来いってか…?) 今日読んだ本。 「日本語の作文技術」(本多勝一) 世田谷は思ったよりも積雪があった。 おやすみ。

母子の絆

音楽は記述することが可能か?の結論を書こうとしたのだけど、それよりももっと新鮮な題材があらわれたので、今日はそちらを書く。 お昼の仕事はメッセンジャーなので、街をと走っていると、いろいろな場面にでくわす。今日は、ちとドラマティックなひとコマに遭遇できた。 とはいっても、人の生死にかかわる一大事だったわけで、できるなら遭遇したくはない出来事でもある。ことの顛末はこういうことだ。 夕方近くなって、ぼくもさすがに疲れてきて、それでなくても坂道の多い東京の都心部。大通りの横断歩道を渡り、その大通りを走ろうとして、交差点で目の前の信号が替わのるを待っていた。道路向かいの信号待ちのひとが数人ちらほらといたような気がする。 すると、ある女性が、とてもあわてた様子で道路向かいに声をかけていた。「ストップ!ストップ!動かないで!」。まずはそこにぼくの目がいった。ちょっと小走りしていたところを見ると、信号のそばには、はじめからはいなくて、声を張り上げながらやってきとことがわかる。 そこで、声をかけた方角を見ると、4〜5歳くらいぐらいの男の子が、大通りに交差する道に少しはみ出したところにいた。ぼくが大通りを横断できたということは、この交差する道は車の信号は青だということになる。少し前には、この男の子は見えなかったのだが、信号待ちをしている7〜8人の大人の間をすり抜けてきたのだろうか、しかも、車道に1mはみだしている。 誰もがあぶないと思ったのは、母親のさきほどの叫び声のためだった。道路向かいで、男の子から1m後ろで信号待ちしていた男性が、男の子を抱きかかえようと車道に出た瞬間、男の子が母親めがけて歩行者赤信号を渡りだした。小走りで母親めがけていく。男性は立ち止った。 車道は信号が青なので、車はスピードをだすし、そこは下りの坂道でスピードも出やすい。ちょうどそのときは、運悪く、ダンプカーが走ってきた。誰もが最悪の事態を想像した。 キキー!!! 男の子はそのまま小走りを続けて、道路向かいの母親のもとにたどり着けた。 幸運だったのは、ダンプの前に直前に飛び出さなかったこと。車高の高い運転席から小さい男の子がはっきり見えるくらいの距離があったこと。運転手がきちんと見ていたこと。 男の子は母親の胸で泣き出し、母親はきつく男の子を抱き締めていた。 ほっとしたのは、...

思い切って

捨てるもの、また使うもの、保留しておくもの、その判断の引き延ばしがこれまで積もりに積もっていた。物を惜しんでとっておく。物はたまる一方で、部屋にあふれていた。相変わらずの掃除ネタです。作業が遅いもんで… 整理をしながらも、まだ未練が残るものがあって、後々のために保留しておこうとする誘惑との戦い。使わないからといって捨てるに惜しいものもある。1%の未練があると、作業は保留・分別・保留・分別の繰り返しになる。整理作業でも、思い切ることは難しい。人生で、どれほどの思い切ったことをしたものだろうか? いきなり思い切って旅に出ようと決心したことが何度もある。決心した次の日に旅立ったこともある。何がそこまでぼくを奮い立たせたかといえば、それはきっと、その当時の煮詰まった状況がそうさせたのだと思う。部屋が散らかっていたこともあろう。恋愛に敗れたこともあろう。新しい仕事をしようと思ったのかもしれないし、新たな興味にひかれて行ったのかもしれない。とにかく外に出よう。今の現状をぶち破ろう。 中の居心地がよければ外に出ていかなかったとも限らない。その居心地の良さが物足りなさをを呼び起こすものなのか?暖かい部屋にしばらくいると、外の大雪も楽しく思えるほどの気持ちのゆとりが生まれる。そうして人は外に出る、旅に出る。その思いきりがゆとりから生まれるものだってあるのだ。 人が居場所を替えるとき、そのとき今までいた小さな世界はちっぽけなものに見えるであろうし、また、いとおしく思えるものかもしれない。 賽は投げられた。捨てるもの、また使うもの、保留しておくもの、またまた判断をしていかなければならないのだな。こればかりは一生つきまとうものだと覚悟した。

血のめぐり

この月は部屋の片づけ月間と決めているので、毎日こつこつと部屋の整理・整頓をしている。油汚れやほこりの汚い所は清掃もして、かなり整ってきている。でもそう一足とびに作業を進められないのが、整理の難しいところなのだ。 そんなことをしながら気づくことがあって、それは、いわば血のめぐりみたいなことなのだが、はい、わからないね、きちんと説明します。 部屋が片付いていないときは、言って見れば、血が行き届いていないようなもので、その空間やその箱の中に何があるのかわからない。分かってはいても、乱雑としていて開けたくないということもある。 部屋を片付けたあとは、その空間にどういうかたちで、何を置いて、どうすれば便利になるかを考えて配置・整頓するので、すみずみにまでぼくの意識がめぐりわたっている。 そう、まるで冷凍していたのを解凍したかのようなものなんだね。そういった意識を張り巡らせることができるのが、整理・整頓のよいところだ。 思い起こせば、触れたくないことや面倒くさいから放置しておく物や事象というものがある。そこにメスをいれることが必要だとはわかっていても、怠惰からか、そのうちにやるよといって後回しになる。 人との交流もそのようなもので、今年は会おうと年賀状に何回書いたことか… 自分の家は自分の手に負えないほど巨大化して、乱雑になってしまう。というより、自分の手に負えない・目に見えない・意識にのぼらないように、日常生活の悪習がそうさせてしまうのだ。 指の先の一本一本にまで意識を働かせ、血のめぐりをよくして動きやすくし、快適さが全身にくるようにすること、それが必要なことが最近の再発見なのかな? パソコンの用語には的確なものがある。最適化。それ。それをしている最中というわけ。それをしたらから軽くなるんだ。軽くなるというのは気持ちがいいもんだ。快適なんだ。なにも新しいものを購入するわけでない。快適な暮らし、そんな単純なところに辿りついたというわけ。ようやく気付いたのか?