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11月, 2008の投稿を表示しています

一服させて

裁判に関してのいくつかの事例を見聞きし、警察の捜査を巡ってのひと悶着があり、明日ドキュメンタリー番組で放送される冤罪事件を頭の隅に置きながら、モンテーニュの懐疑を考えてみた。

モンテーニュは16世紀のフランスの哲学者で、『エセー』という書物を残した。エセーつまり「エッセイ」のことで、フランス語では「試すこと」「試し」というような意味の名詞である。言ってみれば「自分振り返り」の日記のような書物。今風に言えば公開の随筆ということから“ブログ”なんでしょうな。モンテーニュのブログか。

そのモンテーニュの『エセー』の鍵となる言葉が“Que Sais Je ?”(ク・セジュ)である。「いったい私は何を知っているのだろうか」という意味で、モンテーニュが自分に課した「問い」だった。懐疑のための判断停止。永久にそこで判断をやめるという消極的な姿勢でなく、おかしいなと思うところで立ち止まり、突っ走りがちな思考の習慣を断ち切り、本当にそれでよいのかという疑念をはさみ、判断を留保するという、積極的な待ちの姿勢である。

モンテーニュは、古代ローマの逸話を引用・書き写して、悠長に臼をひくかのようにまったりと解釈している。。しかし、いったんその引用の詩句が胸ぐらをつかむと、活発になり、宝のような思想が生まれてくる。急にポーンととび上がるのである。インスピレーションの瞬間を待っていたかのようだ。

ひるがえって現代。警察や官庁による発表や広報、またはメディアによる報道があふれるなか、どれだけ私たちは判断を慎重にくだすことができるだろうか。どれだけ寛容な態度でいられるか。第一報や速報はスクープではなく材料にすぎない。そんなのは時間が埋め合わせをしてくれる。大事なのは、性急な判断をくだす前に立ち止まって、ちょっと待てよと考える余裕。

「一服させて」。何気に好きな言葉である。

怪物たち

強い人の論理というものがある。立場的に強い人が論理をふりかざす。その土壌では、弱い立場の人間の論理が通用しない。強い立場の者に、弱者と同じ権利を与えてしまうと、両方の論理が相殺されて、両成敗ということになってしまう。

都会の幹線道路を見れば分かることだが、片側3車線もの道路がありながら、歩行者は肩をぶつかりながら歩道の上を歩かなければならない。自転車は、車道に出れば自動車に脅かされ、歩道に入れば歩行者を脅かす。自動車にはクラクションがついて、気軽に邪魔者を排除する。歩いている者が遠慮する商店街ってのは何なのだ?

アメリカの3大自動車会社の会長が、米議会の公聴会に呼ばれて詰問されたニュースが話題になった。従業員のリストラは千人規模で行いながら、自分たちはジェット機で議会にかけつけ公的資金を要求するとは、冗談のつもりか。会社を守るために人を切るというのは、論理として成立はすれども、それを認めるのがはたして正しいことなのか。「おれも苦しいんだよ。分かってくれ」といった経営者の心情的な論理を理解してあげる必要がどこにあるのか。

ロシアの原潜事故で乗組員が起訴された。あれは原潜のシステムに問題があるというロシアメディアの疑念があがっている。乗組員はその不備を隠すための身代わりとして捕まったと。

母が2児を殺害した事件の裁判があった、広島高裁で、1審判決の懲役刑を破棄し執行猶予にしたそうである。裁判長は「経緯に同情を禁じ得ず、1審判決は重すぎる」と述べたそうだ。裁判ですら杓子定規の論理で裁定されることが多く、このような判決は珍しい。

「モンスター」な人たちは、自分が弱者のつもりでいても、権利をふりかざすことで怪物化してしまうことに気がつかないのだろうか。まだ市民のモンスターなら許せる。国家や組織の怪物が強権をふりかざすのは、どう対処すればいいのか。

猫、恐るべし

猫カフェが大ブームだそうである。猫と一緒に遊ぶのでなく、猫を見ながらゆったりと時間を過ごすという。猫がお店のスタッフとして寝そべる。その姿を眺めた人間が癒されるという。行きたいわけではない。

路地を歩いていると呼び止める声がある。どこから聞こえてくるのか分からないが、間違いなく猫の声だ。いったい何のために。何かを訴えかけているぞと、あえて誤解して近寄って行くのもいいが、時間に追われて歩いている身だ、猫の声に癒されながら歩き去る。路地裏版猫カフェである。

毎日のように、ご近所さんが訪ねてきた。何するわけでもない、ぼくの帰宅の後を追って階段を上がってくる。頭をガツンガツンぶつけてくる。人の股の間をくぐろうとする。10分もそれを続けるので、よしこれは長期戦になるぞとこちらも腰を下ろすと、しばらくしないうちに、飽きが来たのか猫は帰ってしまう。ご近所さん経営?の猫カフェである。

マキノノゾミの劇作品「フユヒコ」では、フユヒコこと寺田寅彦は、我慢しなければいけないことがあると、招き猫を撫でてじっと耐え忍んでいる。かの有名な夏目漱石の作品は、猫が考え猫が見た作品だ。以前は暴走族の服を着てツッパリだった猫たちも、今では2,3の駅の駅長にまで昇格した。この出世は何なのだ?猫に関する猫グッズを何でも売り出す店もある。雑貨やビスケットやTシャツまでも。さすがに「猫よけ」の商品まで扱ったらひんしゅくものだな。人食い猫が人間の足を食いちぎったというというデマも生まれるし、猫がしゃべったという逸話も生まれるし、なんでもアリというわけだ。

身近なところにいながら顔を合わせるでなく、寂しそうにしていながらも近寄ると警戒するし、かと思うとすり寄ってきたり。

ひとの夢に2匹も出てきて、かわいがっていたのに、いきなり右手を噛む。そのために夢占いまでしてしまった。猫、恐るべし。

歩き方の表情

歩き方は身体の表情である(バルザック)

フランスの文豪バルザックが『歩き方の理論』という奇書を書き残している。理論とは言え、小説家、しかもかなり回りくどい書き方をする趣味人のバルザックである。理論に入るまでの前置きが長い。理詰めで論理を展開するというよりも、フランス流の「箴言」という、短い格言・警句をさらりと言ってのけたあと、その箴言を裏付ける逸話を持ち出してくる。題材も奇抜ながら、話ぶりも悠長で趣味的な、まことに変わった書物なのである。

歩くことに特別な苦労をするのは俳優だ。年齢の違う人を演じるという極端な場合は除いても、どんなテンポで、どういった調子で歩くのか、速さは、足取りは、どんな姿勢で、などと追及していけばキリがない。歩き方ひとつで人物の持っている世界を表現するのだから、たいしたものだ。

優雅で無駄のない歩き方は美しいのだが、後々まで印象に残る歩き方というのは、どこかしらぎこちないものを含んでいる。大河内伝次郎の歩き方なんて、作り上げた歩き方にせよ、名刺がわりになるほど魅力的である。“ミスタービーン”も「歩く」という単純な場面が多かったように記憶している。

履物や道の状態、男性か女性か、その日の体調によって歩き方はさまざまだ。日本での歩き方というものもある。観光客として日本に滞在する海外の人と、日本在住の外国人の歩き方は、微妙だが違いがある。日本に長く滞在していると、歩き方も順応するものらしい。

フランスで、若い人の歩き方に衝撃を受けたことがある。男性は大またでカツカツ歩く。障害物のよけ方もスムーズだ。女性もかなり早く歩き、そのため身体の表情が溌剌としている印象を受ける。フランスの若い人たちの歩行は直線的だ。目的地が遠くにあるようなしっかりとした行動線。バルザックはそんな狩猟民族の末裔を見て、きりっとした表情を見出したに違いない。

銀座のカンガルー

銀座を歩いた。

日差しが弱まり、涼しい夕暮れ。銀座の柳も風に揺られていた。土曜日で歩行者天国とくれば大勢の人がここに集まるだろう。写真撮影をしている人が何人かいた。聞きなれない言葉を使っているところを見ると、海外からの観光客なのだろうか。歩行者天国や歩道をぶらぶら歩くと、何人にぶつかりそうになったか。どこを見て歩いているのやら。何が気がかりなのかは知らないが、まっすぐ曲がらずに歩くことのできる人が少ないのは休日の特徴なのか。

英国の研究チームが、ベビーカーについての研究結果を発表したという。ベビーカーの進行方向に向いて赤ちゃんが乗る背面方式の場合、親との対面接触が少ないから、赤ちゃんは不安をかりたてられるらしい。親と対面して顔を合わせて乗る方式の場合、赤ちゃんの心拍数は背面式より少なく、赤ちゃんが眠る割合も対面式が背面式の2倍だそうである。

なるほど、赤ちゃんは安心をおぼえるわけだ。こんな小さい時期に周囲の不安にさらされる必要もあるまい。赤ちゃんが何を見ているのかは知らないが、親に面と向かって話しかけられて、後ろ向きで連れられていくのは、完全に防御されている姿勢である。カンガルーの袋みたいなものだ。今はいろいろなベビー用品がある。それこそカンガルーの袋もあるようだ。

周囲の人たちは不安を覚えさせる。今日の夕暮れの銀座の話である。斜行してきたり、急に立ち止まったり、肩にぶつかってくる人もいる。ベビーカーに乗った赤ちゃんではないが、できるなら後ろ向きに進行したい、対面式ベビーカーに乗りたい、カンガルーの袋に入りたいと思う。少なくともよそ見をしながら突進してくる人の恐怖は味わうことはない。

とはいいつつも、休日散歩人のふらふら歩きを器用にかわしながら、自分の足取りでするすると闊歩するのも悪くない。場所は銀座ときた。カンガルーの親のつもりで跳ねまわってみた。

平安の時代

人の命が生まれては消えていく。そして、なにものかの力によって消されていく。殺人にせよ、戦争にせよ、死刑にせよ。

死刑執行を求める国連の委員会決議があったそうである。死刑執行の一時停止などを求める決議案が賛成多数で採択された。日本は反対をしたらしい。理由は「世論調査で死刑が支持されている」から。

なるほど、ネットの書き込みなどを見ると、殺せ殺せの大合唱のように思える。世論調査でも死刑を存続してほしい人が多いという。そんな人たちの意見はそれでよい。ただし悲しい気持になってしまうのはどうしてだろうか。人間の命を絶っても良いと声高に主張する意見は、正直あまり大声で聞かされたくない。

世論の意見は問わない。国の代表は日本政府の立場を貫いた。死刑制度は刑法や政治にもかかわる、法治国家としての根幹の問題である。世論をたてにとるという行為自体が、国家の問題のすりかえととられてもおかしくない。国の方針として、死刑にはこういう意義があるという理由が前面に出ないところに、死刑制度を後ろめたいものと感じているように思えるのだが。

衆人の前で首をさらしてまで虐殺をしていた社会は、その後大きく抑制を働かせるようになった。江戸時代でも死刑は極刑だったわけで、かなり残酷な時代だとはいえ抑制は働いていた。今、多くの国が死刑廃止という流れになっている。死刑制度が復活した国というのはないらしい。今度の決議も死刑執行停止の決議である。廃止に向けて議論をするまで、一時やめようじゃないかという決議である。多くの国では政治犯の惨殺や虐殺が行われている。日本にも冤罪がある。

かつて、聖武天皇が724年に死刑廃止をうちだして、それから347年間、日本では、流罪はあっても、死刑は行われなかったという。奈良時代から平安時代。仏教思想の影響という。死刑制度にとって奇跡的な時代があった。

カエルの強弁

昨日の時点で国会が空転していたらしい。政党が、我が党が一番という態度で差別化を図るというのは、気持は分からないでもないが、行きすぎると辟易してくるものだ。党利党略ばかりでは置き去りにされる者のほうがつらい。家電の販売員は自分の売りたい商品があってもバランスを保って、お客の指し示す商品もほめてくれるものだ。

国家斉唱の文科相発言や田母神論文など、強いもの言いが幅をきかせる昨今だ。国家を問題とすると、強制服従させる認識が働くのが政治的人間の悪いところだ。人種差別もそんなお粗末な思い込みから発生する。それが最近増えている気がするのは気のせいだろうか。自分の帰属しているものが確固たるものであってほしいという願い、それが増長する。自分の家族や会社をよく思いたいのは同情できる。行き過ぎると強弁でしかなくなる。

おうおうにして、人は自分の写真うつりを初めは驚きの目で見るものだ。そこで開き直るか、受け入れるかが分かれ目かもしれない。まだ写真うつりの問題ならかわいい。

国家認識という面において、ヨーロッパは飛躍的に変化しているように思える。EUという枠組みが良かれ悪しかれ変化のきっかけとなった。関連して、英語を話す国民がひと昔前と比べて、かなり物腰が柔らかくなったと感じたことはないか。日本の街角で出会う英語ネイティヴの人たちの、以前の横柄さが消えてなくなった。感じのいい人に変化している。日本の人を含め、国際的に変化している。

「井の中の蛙、大海を知らず」とはよく言った。井戸の中の蛙がガアガアと「私が一番」「誇りをもとう」などといっても、隣の住人には蛙がうるさいとしか感じ取れない。

雨の日になると蛙が道路に進出する。そのときの蛙くんは声など出さないで、黙々と地面を這いつくばって行動する。神々しいくらいだ。小さな井戸のために鳴いていてもしょうがないのだ。

ケンカはやめて

喧嘩を止めに入るべきか、放っておくべきか。

少し前に、一国の大統領と首相が、国際会議のなかで内輪喧嘩をしたという記事が流れたが、はたして、仲裁をした他の国の首相はいたのだろうか。

駅の中で二人の初老の男性がもめごとをしていた。片方がもう片方の肩を押して、いまにも暴力が始まるか、いや、そこまで発展するには両人に抑制がある、とぼくは見ていた。通りがかった30代の男性が止めに入った。肩を押され危機にあった男性はそそくさと逃げて行った。肩を押した男性は仲裁に入った30代の男性に食ってかかった。なんで、関係ないお前が邪魔をするのかと。「俺が悪いのか」と仲裁男に問いかけた。仲裁男が何を言ったかは聞こえなかったが、この男性も肩押し男を説教する勢いだ。第二次紛争が始まるかと思えた。肩押し男が「お前なんか関係ない」と、仲裁男から去ろうとするが、今度は仲裁男が許さない。肩押し男が去ろうとする前に回りこみ、何か言葉を投げかけている。いざこざが繰り返された。

周りで見ている者からすると、肩押し男は暴力の匂いを匂わせたことが欠点で、仲裁男は他人の喧嘩を裁こうとしたことが欠点に思われた。お互いそこまでしなくてもよいのに、しつこく相手に食い下がる。修羅場にならなかったので、この光景は興味深いものだった。

かつて、ソ連がチェコに内政干渉した「プラハの春」への軍事介入や、アメリカ合衆国のイラク戦争(いわゆる「湾岸戦争」)の例を出すまでもなく、国家間でもこういった例が見いだせる。そして、介入する側が仲裁でなく積極的に攻撃するから、ちゃんちゃらおかしい。

猫の喧嘩を止めるのは愉快だ。ギャーギャーうるさいのを黙らせるなんて大義名分。2匹とも「なんだこいつは」という顔をして逃げて行く。喧嘩を止めるのもこんな楽しくやりたいね。あの、ビクっとした猫の反応の良さを見るのは快感である。

軽やかなシシュポスの岩

シシュポスは巨大な岩を山頂まで持ち上げるが、あと少しのところで岩は下へ転がり落ちていく。この苦行を何年も繰り返す。賽の河原では親の供養のために積み石で塔を作っても、完成する前に鬼がやってきて塔を壊してしまうという。報われない努力を今日も続ける。シシュポスの場合は罰として、賽の河原の場合は子どもたちに課せられた義務として、徒労を続けなければいけない。

忘れられない言葉があり、それは先輩が繰り返し言っていたことだ。その先輩というのは酒飲みで、酒が入るとすぐこの言葉がでてきたから、酒のうえのたわごとと切り捨てることもできるのだが…。「作っては壊し、作っては壊しだよ」。仕事に対する愛着と解釈した。

途方もない責苦を人間は背負わされたものだ。毎日食事を作り食べることだって同じことの繰り返しだし、排泄だって繰り返す。ニュースから流れてくる犯罪や事故だって絶えることはない。説教師も同じ話を繰り返し繰り返しするが、信者は何も聞いていない。

そんな日常に反抗を企てる。ストライキだったり、旅だったり、無気力になってみたり。または自殺をしてみたり、冒険してみたり。反抗を企たとしても、バンド再結成やスポーツ選手の復帰、犯罪の再犯に見られるように、元の鞘に収まってしまうこともある。報われない日常を離れると、もうひとつの怠惰な日常が現われる。旅人として世界を回ると、世界を回ることが日常の徒労になってしまうものだ。

夏の間、毎日のように打ち水をしていたご近所のおばあさん。そして伝統のようにそんな風習が繰り返される。保冷の効果という意識があるのだろうかね、徒労を無駄と思わない無心な習慣のような気がしてならない。秋の落葉掃きにしても同じ。

日常のささいな習慣には、徒労という意識すらないのかもしれない。身近なところに軽やかなものがあることに気がついた。

自爆のススメ

自爆してみたらどう?賢すぎる人間が多いと思ったことはないだろうか。ほとんど無自覚に迷惑行為をしておきながら、自分が被害にあうことはうまく避ける。

最たるものは、携帯を見ながらゆっくりゆっくり狭い場所を歩いて、行列を作ってしまう人。テレビドラマやマンガのように、電柱にぶつかったり、空中を闊歩してほしいのだが、障害物は自然と避ける。そして何事もなかったかのように、また携帯を打ち込む。

狭い道路を猛スピードで駆け抜ける、ごく少数の車にもいえる。歩行者などに恐い思いをさせながら突き進むのだが、人間じゃなくて、電柱にでもぶつかってほしいものだが、うまくかわしていく。

不謹慎だとは思いつつも、自爆する姿を見てみたい。そうはうまくいかないのが人間のドラマではある。しかし、乱暴者がぶざまな姿に陥って、しゅんとしてしまう姿には愛嬌があることは確かだ。かわいらしいと言っても良い。間の抜けたドジをしてくれない迷惑者ほどつまらないものはない。ずるがしこくて、何の共感ももてない。巨人・長嶋さんだって、権力をもった球団に、あんなボケが存在したからこそ、球団をこえて愛されたのではないか。サッカーのイギータというGKは、足技に冴えて、中盤にまであがってドリブルしていたけど、W杯で単純なミスを犯して敗戦のきっかけを作った。

自爆というコトバが過激であるなら、「ドジ」というコトバでも構わない。ドジをしてくれ。大阪の芸人ではないが、ボケてくれなければ、笑いの種がない。賢くなりすぎるのは、善良な人たちでいい。何かしらの権力や武器、迷惑となる種をもっている人たちは、ドジを踏んでくれないと困る。強権社会はこりごりだ。

廣澤虎造の清水次郎長一家。やくざで暴力をする人たちである。彼らに愛嬌と、ドジな行為がなかったら大衆からは愛されなかったに違いない。救いはそこにある。

社会のオリーブオイル

声をかけられるというのはそんなにうれしいものなのか。それが知らない人からであればなおさら。

お店に入っただけで「いらっしゃい」という声をかけられるのは悪い気がしない。声をかけられないほうが違和感をおぼえてしまうのは習慣からだろうか。違う環境・外国にいれば、事情は変わるのだろうけど。しかし、声をかけられることに気分を悪くするということは決してない。

街角に立っている客寄せの店員の話しかけや、女の子にしつこくつきまとうような男の話しかけもある。声かけのプロを不快に思う人もいれば、何も気に掛けない人もいる。客寄せにだろうが何だろうが、声をかけられて気分が悪くなることはない。傍で見ていて微笑ましい声かけもある。これはプロフェッショナルというより、ベテラン・熟練さんですな。そんな達人がまだ世の中で見られる限り、どんな事件がおきようと物騒であろうと、世の中捨てたもんじゃない。

「そのストッキング素敵ね、どこで買ったの?」
「ええ…ああ。どこで買ったか忘れちゃったんですけど…」
「ああ、そう。でも素敵ね、その紫っぽい。ふうん…ん、ありがとう」
「あ、はい…」
駅のホームでたまたま聞いた老女と若い女性の会話である。目の前に現れた若い女性のストッキングに魅かれたのでしょうな。老女の、人の懐に入っていくスムーズさは嫌味がない。

駅で見かけた老女と若い女性。老女はすぐさま歩いてどこか行ってしまったが、その後、若い女性は自分の足のストッキング姿を自分で改めて眺めていた。そのときに見せていた、若い女性のどことなく柔和な表情が忘れられない。
電車が来て車両に乗り込んだ後のその女性は、硬い表情に戻ってしまった。

そっと後ろの方から武装解除。まるで知り合いであるかのように気さくに声をかける。社会の潤滑油というのはこんなものをさすのだろうか。

感性の宴

思いもせぬところに、思いもよらぬものがいる。いるかどうかさえ定かでない。音だけは聞こえてくるのだ。

自宅の壁にイモリが始終へばりついている姿も、見慣れているとはいえ、ちょっとした驚きは与えてくれる。そういえば、以前は体長15センチ以上のガマガエルが東京の住宅地を闊歩していたな。道路の主のように王道をへばりついていた。たまたま見かける犬のウンコにも、微妙に感性をくすぐられるのはなぜだろう。思いもよらぬ急な飛び出しは、こどもに限らず大人だって日常茶飯事だし、うっかり大きな声でひとり言を言った途端に、突然人が近くにいたことに気づくこともある。陰に潜んだ恋人達の抱擁に出くわすこともある。

毎日通る場所、しかもそれは大きな建造物の中なのだが、そこに思いもよらぬものが存在する。いや、先にも言ったとおり、音だけ聞こえるのだから実物がいるのかどうかさえ怪しい。鈴虫なのかな。残念ながらあまり虫の音には興味がなくて、どの虫だか特定はできないのだけど、とにかく「秋」を感じさせる鳴き声ではある。

鳥だって建物に巣を作ることはある。ねずみだって建物の中に健在じゃないか。
鈴虫。草のない壁だらけのところにいるものかしら?声は聞こえても、姿は見えず。ええ、ウグイスだって姿は見えずに鳴けれども、存在しないなんていう人はいないだろう。なら幽霊屋敷は?

空耳なのかなと思っても、はや20回ほど聞えるのはどうしてか。録音テープの可能性だって否定はできない。なにしろそこは、人のたまり場でもある。
そんな微妙な虫の音を「あの音なんだろうね」と話題にするには、あまりにもささやかな音でしかなく、ささいな出来事でしかない。

思いもよらぬところに、思いもよらず心をくすぐるものがいる。存在すら怪しい。そんな感性のささやかな宴が催される秋というのも、悪いもんじゃない。

ストレイシープ

ゲーテは「努力する限り、道に迷うもの」だと書き記している。それで思い出した。道に迷うことが少なくなったものだ。

人生の道に迷うという、大きな尺度で測らなくてもよい。不案内のために、道路をさまようことがほとんどなくなった。理由のひとつは、同じ道しか通らないことをあげよう。いろんな脇道も覚えてしまったこともある。そして、知らない道には足を踏み込まなくなったことも原因だろうか。あくまでも道路の話をしている。けれども、人生論に拡大解釈できないこともない。あえて新しい道に踏み込もうとしない日常生活。

ところが今日、道に迷ってしまった。八王子を過ぎて、陣場街道目指して自転車で走っていたのだが、見覚えのある道でない。2年前の記憶を頼りに途中までは順調だったが、陣場高原にはたどり着けない。結局、秋川市、八王子市、あきるの市をグルグル走り回ってしまった。

慌てはしなかった。時間の制限があるわけでもない、ひとりだけのサイクリングだったし。雨がポツポツ落ちてきはじめていたのだけど。悠長な心持が、途方もないさ迷いを生んだ。道に迷ったときは、イノシシのように猪突猛進、引き返すことをしない。行く先々で方向を変えていく。だから、むやみに体力ばかりが消耗してゆく。

大きな大きな廻り道をしたあげく、ようやく見覚えのある道路を見つけたときの安堵感たら…。大いなる無駄足と努力の迷走のおかげで、道を踏み外した状態のままに放置されることはなくなった。迷子を逃れた安堵感とともに、道を踏み外した冒険がちょっぴりうれしかった。何よりも、道に迷ったという久しぶりの体験が。

ぼくは小さい頃、上野駅で迷子になった。そんな人間が、今、上野駅構内で働いて5年近く、迷子になることなどない。いや、そのうち迷子になるよ、きっと。その迷子を喜ぶ日も来るんだろう。

うざいと言われても干渉を

寒さも本格的になった。この寂しさが好きでもあるな。

昨日は何かといらいらしていたと反省。土曜日の新宿は、人々みなゆったりモードで、そんな中にせかせかしたぼくが紛れ込むと、いらいらするだろうな。
そんな日は繁華街に行くのが間違いだな。行かざるを得なかったんだけど。

金曜日だったか、駅で二人の男性がもめていた。しかも無言で、暴力というより、一人がもう一人を押さえつけているようであった。だから、通り過ぎる人も二人はじゃれあっているようにしか見えなかったのだろう。
その二人のもめごとがエスカレートして、とうとう駅の売店のほうへもつれて行った。そして売店の簡易棚を倒して落してしまった。

買い物をしていたおじさんが、どすの効いた声で「こらあ」と言ったのには驚いた。そのおじさんも二人の成り行きは気になっていたようで、とうとう周囲に被害を与えたのを見かねて、注意したのだろう。
ええ、とかく世間は、見ていても見ぬふりというか、係り合いになるのを避けようとするが、そんななかで、こうした叱責というのは尊いものだ。

干渉すればいいというわけでもないが、相手の領域への入り込み方というのは難しいものだ。

先日、小さい自分の子供相手に、大人に対する喧嘩のように怒り・怒鳴りまくっている父親を見かけた。子供は泣きじゃくっていた。親の子供に対する接し方の一線を超えた、子どもと対等に喧嘩する態度だった。大人げないとは思いながらも、親を注意するわけにはいくまい。

駅のホームで喧嘩している高校生もいた。取っ組み合いになった途端に、周囲で見ていた50代の女性が「馬鹿者!やめなさい」と注意したのをきっかけとして、周囲の男性たちが仲裁に入ったこともあった。

周りに何らかの被害を与えない限り、人に干渉することは難しいのであろうか。
しかし、こんな例もある。
中国に行ったとき、二人の人が口論を始めた途端に、周囲の人が野次馬のように集まってきて、成り行きを見守るのである。これは、ほんとに野次馬なんだろうな。何が起こるんだというのを、間近で見たいという欲求。こうなると喧嘩の二人は暴力をできなくなる。したがって、二人は口論というかたちでエスカレートせざるを得ない。
なかなか理にかなった社会のシステムだと思う。

喧嘩の二人は、周囲から放っておかれることで、増長して手を出さざるをえなくなるものだろうか。最初から周囲が監視して…