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情熱をもつ

別府史之さんという自転車選手が自戒をこめた語り口調でブログに書いていた。クールになりすぎた、情熱をもつことを日々の生活で忘れかけていたという趣旨だった。一生懸命がんばる毎日で、好奇心などを失っていたという。自分に欠けていたものは「情熱」だと。 折しもジロでディルーカが鬼のような執念を見せ、それに呼応してファンが熱狂的に沿道で応援する姿をかいまみて、何か美しいものに触れたような気がした。ジロの一陣の風が吹き去り、取り残されたこの日常にぽかんと大きな穴を感じた。それはこの日常が空虚だからではなく、熱いもの・情熱的なものが手元を離れたからだろう。 がむしゃらに突進し、毎日を精いっぱい生きることも重要だ。しかしそのような日々に慣れて、余暇を楽しむ感覚や感受性を働かせる機会を逃してしまうのはもったいない。美しい景色を前に無感動になっている自分に気づくほど腹立たしいことはない。 これからの毎日を初々しく生きてみようなどというのは無理なスローガンだが、風化していた生活の一断面を活性化させることはできそうだ。「事務的」におこなっていたことを「人間的」に直せないか。あいさつや歩き方から始まって、趣味や仕事にまで拡大できるのではないか。 「事務的」ということほど、それを受けたときにざらついた気になるものはない。当人は無意識に悪意もなくおこなっているぶん、余計むなしい。手紙でのやりとりや実際に対面しているときも表れる。顔見知りなのに知らないふりをされて戸惑ったこともあったっけ。 別府選手のブログをたまたま見つけ、情熱をもつことへの美しい自覚の瞬間を目の当たりにし、ディルーカの神がかった気迫を見るにつけ、今の生活のなかで、重要な部分を錆びつかせてはいけないなと痛切に思うようになった。偶然か、きょうみた夢で、兄がしおれた植物に水をやって必死に再生しようと試みていた。

ジロ・デ・イタリア2009

ジロ・デ・イタリアはメンショフ総合優勝で幕を閉じた。休息日も入れて23日間、総合優勝やステージ勝利の争いはもちろん、コースをめぐっての主催側との葛藤や、チーム内やチームを超えた人間ドラマを見ることができた。 サッカーのW杯や野球の世界大会、オリンピックなどの注目度にくらべ、自転車ロードレースが日本の大手メディアに取り上げられることは少ない。ジロの場合でも、ジロが始まった・アームストロングが落車した・メンショフ総合優勝で終わった、その3つの記事ぐらいだろうか。とりわけ2つ目の落車は話題にするのもためらわれるほど軽いものだった。 ジロはチーム競技の優勝争いが20日間以上も行われるわけで、毎日マラソンをするとか、毎日駅伝をするとかいう耐久戦なので、考えてみれば尋常でない競技だなとつくづく思う。しかもイタリア全土を順に回って開かれるので、日本でいえば、鹿児島で始まって、広島や大阪、長野や新潟も通り、最終的に東京でゴールするようなスポーツの一大イベントなのだ。 自転車ロードレース、とりわけグランツールと称される20日間以上にも及ぶレースは、それを見終わったあとの虚無感も大きなものだ。グランツールが終わるたびに旅愁をかきたてられるのは、ぼくだけではあるまい。テレビで観戦している私たちや路上で応援している観客だけでなく、選手のほうこそ疲労や緊張で今ごろボロボロの状態なのかもしれない。 選手やチーム、主催者、報道関係者などをふくめた何百人もの集団がイタリア中を旅しながらレースをする。地元の人たちが全選手を応援し、「ティフォジ」と呼ばれるファンが熱狂する。ディルーカの気迫やメンショフの雄叫びだけでなく、アシストの選手・スタッフの働きや挙動にも見るべきものが多かった。 テレビでゲスト解説をしていた片山右京さんも言っていたが、熱いものがこみあげてくるジロだった。

サイクリング

2日ぐらい前に、久しぶりに多摩川のサイクリングロードを自転車で流してきた。暑い日だったけど、気分は爽快だったな。目の前に開ける明るい景色が、とてもくっきりしていて、世界が開けるような感じがした。 今年は、例年にないくらい色白生活なので、毛穴もバアーと開いたような感覚だった。 今年は風邪もひいて、視界が近いところにしかなかったが、外の明るい世界を余裕を持って眺めると気持ちが落ち着くな。 どうやら今年の夏は時間はほとんどないけど、その合間をぬって、サイクリングに行く日が月に4、5回ありそうな予感がする。 一日空いていれば江ノ島までいけるのだけどな。 多摩川の川中に段差があって、その小さな滝のところで、高校生らしき部活動が行われていた。滝にパンチを繰り返しながら、「エイ」「オー」などと叫んでいた。精神的な訓練が今でも行われているんだね。 調布を過ぎて、多摩川の上流に向かうと、風光明媚な川の浸食風景も見られる。その地層だけ岩で、川幅も狭いためか、下流で見る多摩川とも様子が違う。 サイクリングロードの終点、きっと「あきる野」につくと、川遊びをしている人も多くなる。 今現在の暮らしがせせこましいわけではないけど、20分も出かければ視界の広がる風景が見られると思うと、とても小さい暮らししかしていないな、なんて思う。 こんなことを思う年に限って、長旅に出かけたけど、今年も行くのだろうか。そういえば長旅は、ここ3,4年行ってない。 なぜか、旅のロマンを感じて、うだるような暑さに耐えているのでした。

立場が変わると・・・

ジャック・ルーシェのピアノソロ作品のショパンの曲を聴きながら書いている。書く内容とショパンとは何の関係も無いけど・・・ 演劇の期間でないときは、ぼくは、ふたつの仕事をかけもちでしているのだが、スケジュールについては、ぼくは問題児で、NG・早退・遅刻・変更の要求を提出するので、管理者は大変だろうなあ、なんて思いながらも、頻繁にそういうことをする。 立場が変わって、公演の稽古のスケジュール管理をする立場になると、わずらわしいこと、思いどおりに行かないことがあって、苦労する。半分以上はその仕事を演出助手の未来ティーに任せることによって、負担は軽減したが、ぼくは心配性なのか気になることはまだまだある。 思うに、人の時間の管理、場所の確保、会合のアポなど、いわゆる前準備の仕事をうまく決定できれば、不安はなくなるらしい。不確定の要素が多いときに、いらいらするのだ。どれだけ、その心配を管理者にさせてきたことか。反省。 立場が変わるといえば、前々からぼくは、人にものを教えたり、主導の立場に立ったときに、自分自身が勉強・学習している感をもつ。まるで自分自身の勉強のために、教えるかのようだ。 高校生のときに、出身校の小学校にサッカーを教えにいったことがり、こどもたちに蹴り方、動き方を教えることで、基礎を再確認できた。 大学のときは英語の家庭教師みたいなこともやったけど、個人教授で、教え方も自分できめるので、好みの方法で教えたのだが、その時間、自分も勉強しているかのように、物事がすっきり頭に入ってきた覚えがある。 立場が変わるといえば、これだけは言っておきたい。 普段から自転車を愛用する者としては、車の乱暴な運転が頭にくる。ぼくが車を運転するときは、道路の端に歩行者や自転車を追いやって平気でスピードをだすような真似はしたくない。それだけは自戒の意味も含みながら言っておく。 やはり、車優先の社会はおかしい。車に乗るとその感覚が麻痺するからな。 気をつけっぺ!

怒り心頭

今日は4回、車関係のいざこざがあった。 まず、朝にお酒か何かの配送のトラックが無理に右折してきて、直進のぼくの自転車を無視したこと。次に、夕方、タクシーが無理な追い抜きをしたあとにぼくの自転車の進路を妨害して割り込み急ブレーキをかけせたこと。夜に、相互通行の道で交通誘導の親父が反対から来る車にばかり気をとられ道の真ん中で棒をふりまわしていたこと。最後に、タクシーが信号待ちしているぼくをクラクションでどかそうとしたこと。 最後の件は、ぼくも意地を張っていたから、タクシーばかりを責められないが、すべての事例に共通するのが、車の権力をふりかざすことに無感覚になっている者たちのお粗末な行動だ。 なぜか武器を持っているからといって、優遇されるのも間違いだし、上から目線というのも大間違いだ。車に乗っているのは恥ずべきことかもしれない。地球温暖化の防止の名目なら、その論理は成立する。だいたい自転車が行き場がない道路も悪いし、歩行者の通る道が狭いのも悪いし、車の運行を優先する思考方法自体大間違いなのだ。歩行者の邪魔にならないよう、ひっそりと道路を使わせてもらっているのだぞ車は。こんなふうに極端に、逆説的に考えなければ惰性になってしまう。 歩行者や自転車に気を使って走っている車は、一目でわかる。その思想が運転に表れるのだ。そんな紳士を求む。野蛮な怪獣はもういらない。

継続すること

いやあ、しばらく何も書かないと書くことに億劫になってしまう。以前から、日記というものは苦手で、毎日書き続けることは大変な苦労になる。だから、それができる人を感心してしまう。 自転車のロードレースのジロ・デ・イタリアも終わりそうだが、自転車も乗り続けることしか上達の道はない。毎日続けることは、競技のためでなくても、相当つらい。毎日の往復1時間40分の生活を2年続け、今は往復1時間20分とメッセンジャーの仕事8〜10時間、これだけ自転車に乗り続けるのも苦労なのだ。 家計簿をつけようとしたことがあるが、つけ始めたその日でストップしたこともあったな。 継続することに尊厳がある。長年演劇に携わっていた人が言っていたことだ。その人自体を尊敬はできなかったが、その言葉には経験に裏打ちされた大切な意味が含まれている。道半ばにして、別な職業に移る人も多い芸能の世界。 皆勤賞も馬鹿にはできない。さぼりの得意なぼくには目も眩む存在だ。こうしてみると朝の通勤列車に揺られて、無表情で、汗臭いおっさんたちも、苦労を抱え込みながら、毎日、そう、毎日通勤していることは敢闘賞ものなのだな。 一週間働いているからこそ、土日の休みが尊いものにもなる。 要するに、ぼくは自分にムチをうっているのだ。ブログを更新しろと。 この意気込みも一日で終わってしまわないようにしなければ。 以前は、楽しみから入っていった自転車乗りも、体脂肪を落とすためや、仕事のため、半ば義務的に、またはロードレースへの憧れなど、いろいろな要素を巡りながら、また結局は自転車に乗ることを楽しむことに戻っていく。 このささやかなブログも、毎日書けないにしても、毎日書く意志はもたないとな。書くことが楽しみでもあり、書くことでいろいろな発見もできるし、自分の生活者としての視線も鋭くなるような気がする。 吐いて捨てるような文章を書き続けることで、ちっぽけな栄養にはなるのではないか?何歳になっても自分で自分を養わなければな。よしよし。

不満だらけさ

今日、仕事で自転車に乗っているときに、ハイヤーのタクシーにひかれそうになった。怒ってどなって睨んだら、無視された。人をひこうとして何の謝りもないのだからな。おかしなことだ。 車に乗っている者は車同士には、合図をだしたり謝ったり譲ったりするが、歩行者や自転車に対しては、なんのコンタクトもしない。たかが車の力で加速しているに過ぎないのに、鼻高々なのだ。走る凶器が歯をむきだしにして怪我をさせなかったからといって、おとがめなしなのはいかがなものか? たしか法律では、歩行者をびっくりさせただけで違反のひとつになるんじゃなかったっけ? 車のクラクションもいらない。というか、歩行者や自転車に対してクラクションを鳴らしたら罰則にしようじゃないか。歩行者たちが抗議したいとき、大声で怒鳴るか、バンパーを叩くかしか方法がない。過激かもしれないが、抗議の形として、傷がつかない程度に車の側面に蹴りを入れるのを合法にしようじゃないか?交通弱者の声は車の中の人間に聞こえないのだから。 要するに、人間が機械を使って自分のキャパシティー以上のものをあやつるときに、慎重になれということ。謙虚になれということ。できないのなら、法律を大胆に変えること。車の通れない道を作ればいい。都内を大渋滞にさせてしまえばいいのだ。 表参道の交差点も車のスペースを狭くする計画があるらしい。だいたい、あんなに歩行者の多いところを今まで車優先にしてきたことのほうがおかしい。歩行者信号の時間も増やせ。青山通りを一車線ずつ歩行者と自転車にあけわたせ。 いい加減、車を優先する考えをやめなさい。交通のガードマンも車に気を使って、歩行者の足を止めるんだから、何を考えているのやら。 なんだか今日は愚痴大会になってしまった。しかし、これはいつも思っていること。そして多くの人が耐え忍んでいることだと思うがどうだろうか?

イタリア

ジロ・デ・イタリアが始まった。この自転車レースがおもしろいのはテレビで見るイタリアの風景が美しいことだ。気候的にも暑苦しくもないので、選手たちの表情も幾分余裕がある。ピンク色のマリア・ローザのジャージも華やかだ。青い海に青い空、カラフルなジャージ、緑の自然。レースの展開もおもしろい。イタリア人ががんばる姿もおもしろい。 イタリアというと芸術のことがすぐに思い浮かぶ。オペラにせよ、音楽にせよ、彫刻、絵画、映画、そして演劇も。 ヴィヴァルディからヴェルディ、そしてモリコーネにいたるまで、音楽の分野では親しみやすく、美しいメロディが奏でられる。