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8月, 2008の投稿を表示しています

顔見世

まったくもって野ざらし状態ですな。 生きています。 いろいろと、ブログなり、事務作業なり、稽古なりで、こちらに手が回らない。いろいろと思うこと、考えること、憤ることあるけどなあ。 さっと登場して、すぐ帰るのもなんだから、ひと演説ぶちまけますか、なんて。 今日は、小田急線の人身事故で足止めをくらい、新宿から京王線を使って帰りました。はい、それだけ。 うむ。 こんな調子で書いていると、真面目に書けないな。 だから今日は顔見世ということで勘弁してください。

プロに敬服

いろいろな分野にプロフェッショナルがいて、そのプロがさまざまな形で仕事をしている。 人にはいろいろと個性があるので、話をしているとつまらない人や、おどおどしている人がいても、作業をさせるとぬかりのないものだ。 それはどの分野にもいえる。 コンピュータの処理に長けた人もいれば、販売に長けた人もいる。料理人はスムーズに仕事をするし、救急隊員の処置も適切だ。メッセンジャーやバイク便の道路での移動はすごいものがあるし、経理のプロもいる。映像業界の人の仕事もかなりマニアックだし、市場の競りをする人もすごい。魚屋のお兄さんなんて輝いて見える。 演劇の制作者もぬかりない。手を回すところへの気配りは常にしているし、チラシの折り込みだって速いし、きれいだ。舞台技術者の舞台への建設の仕方なんても、すべてが合理的で優れているように見える。 俳優だって、すぐに飲み込むことのできる人もいるし、何よりも演技をすることへの能動的な姿勢は素晴らしい。きっと、その能動的な姿勢が俳優の基本でもあるかのようだ。 誰に対しても、どんな仕事に対しても、ぼくは結構敬服してしまう。かといってもの怖じはしないけどね。すごいなあ、いいなあ、なんて思うから、いろいろな仕事をしてみたくなるのだね。うらやましがることにかけては、人一倍の人かもね。 さすがに今携わっている演劇の仕事にたいしては、厳しくなるけれども、敬服することはするものだ。しかも、プロの仕事を見せつけてくれる人には、何もほめないけど、結構尊敬していたりもする。 隠れたところにプロもいる。路上であいさつをかわす主婦は、コミュニケーションのプロではないかと思ってしまう。自分のことを同時に話ししていて、人の話を聞いていないかのようでいて、かなり聞いている。聖徳太子もこんな能力があったのだね。きっと、ぬかりのない奴だったのだろう。 いいなあ、と思うことがあっても、自分がまねするのには限度があるから、それを実行できるわけではない。 自分の分野のなかで、どうすればそれが職業としてのプロ主義を確立できるかを模索している。 そんな中で、やはり、さびついたものをスムーズに動かし、動かないものには動くようにし、いいものにはその軌道を確保してやりたい。 料理人が包丁をといだり、清掃するのと同じことでしょうな。

天気の話

雷がひどかった。 大粒の雨が降って、稲妻が走っていた。 そんな中、自転車でサイクリング、でもパンク。また家に帰って、パンク直して雨の中出発。サイクリングロードは雷にやられそう。恐る恐る走ったようなものだった。 大雨で雨漏りして一時閉店になった店もあるようだ。 天気といえば、天気の話というものは話の糸口になる。自分でもつい、「暑いですね」とか「ひどい雷だったですね」とか話してしまう。 客観的に聞くと、話の種がないから天気の話をしているようだが、きっとそれは違う。いわば序文として、話の序ノ口として、差し障りのないところから始めるのだろう。それがないと、円滑なやりとりができない。 いきなり本論に入る商談というものはないだろう。いきなり告白するデートも興ざめだ。 天気の話がいい潤滑油になるのだ。 その話にこだわりすぎるのも考えものだが、天気の話をしておいて、聞く側も言う側も準備が整えられるのがうれしい。 前座のようなものだな。 今日はちと友達と話しこんでしまった。 話の始め・きっかけは、そういえば天気の話だったなと思った。 別に話の種がないわけではないけど、あえて遠回りして天気の話から入るのは、案外いいことなのかもしれない。 しかも、見ず知らずの人の場合でも共有できるのが天気の話だから便利である。 明日は晴れるかな? そんな話からどれだけ人間の会話が盛り上がることであろう。 おもしろいと同時に不思議でもある。

戦争と暴力

また夏が来た。 この時期になると、テレビでも新聞でも、また舞台でも、太平洋戦争をふりかえった特番をやる。これは、大事なことではあるね。報道はニュース性の強いものだけでなく、記憶を忘却から救いだす類いの記事が必要だからね。 人間忘れやすいから。 ぼくが前にいた劇団も、この時期に戦争の演劇をやる。 ぼくは、その作者と作品が嫌いだから、見るのを逃れることのほうが多い。それ以外の集団でも、この時期は、戦争を扱った作品が多いものだ。ま、正直、あまり変わり映えしない内容なのだけどね。演劇でも、社会の責任の一端を担っているので、いい試みではある。 今日、ふと思ったことがあって、それは「暴力」のこと。政治的な暴力でなくて、ちっぽけな個人がもつ「暴力」。肉体的な暴力に至らない意味での、微妙な「暴力」。 思えば、今は夏だからか、街で出会う人ひとりひとりが自分のことにしか意識がいっていないような気がする。 「すさんだ」という言葉遣いが適当であるかのような、人間の風化。 それは、女性も、こどもも、老人も含め、一様に乱暴な姿勢が目立つのだな。 また、今の世の中は「権利社会」でもあり、「モンスター」の出現も珍しくない社会でもある。 なんだか、胸を張りすぎている人が多いような気もする。少なくとも、5年前と比べても、人間の立つ角度が1%反り返り、顎が5度上がっているであろう。「お前、後ろに歩いた方が楽だろう!」と思えるようにのけぞった男性を見かけたことがある。 戦争が、人を人と思わず、戦略と全体主義に支配されるものだとするなら、そんなものに反抗するには、意識的な人間主義の立場にたつことが必要だろう。 しかし、そんな立場に立つ人間が「乱暴」な「すさんだ」人間であったりもする。 戦争に関するあれだけの教育や報道や演劇が、一概にセンチメンタルな視点を持つことも不思議である。 結果、涙を流せば成功のような錯覚に陥るもの。 現代の人間が、また戦争に突き進んでそれを「権利」だという言い張ることがあるかもしれない。また、扇動するほうも、されるほうも、無意識に共同することもあるだろう。知らぬ間に、偏見を植え付けられることもある。 戦争を題材にするのはいいのだけど、今現在のわたしたちの「暴力」や「全体主義」も同等に問題にしないと、片手落ちのように思える。 今進みつつある