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音楽は記述することが可能か?(6)

音楽は記述できるか、という問いかけをずっとしてきたわけだが、今になって気づいたことは、もともとのこの問いかけ自体が意味をなすものなのかという疑問である。 命題がずれていたら答えもずれる。良くない質問には答えようがない。 とはいっても、ずっと書き続けてきたことの締めくくりは必要なわけで、だから、これは失敗の記録として締めくくりたいと思う。 もともとの問いのたて方が、「音楽は記述することに意味をもつのか?」であったなら答えることもできたと思う。なぜなら、音楽が音楽である限り、文字を使って記述したのなら、それは、音楽そのものでなく、音楽について書いたことにほかならない。それは自明なことで、そこに問いを投げかけると、言語哲学などの領域になってしまい、そこにぼくは興味がない。 ならば、記述できるかできないかを問うよりも、記述することでどれほどの意味をもつものなのかを探ったほうが、生産的に思えるのだ。 ま、また回りくどくなってしまったので、意味があるかないか結論を言おう。 音楽そのものでなく、その音楽の周辺情報は、音楽家のことばにせよ、文章にせよ、たち振る舞いにせよ、広告・映像・写真・イラストにせよ、音楽そのものの価値を測る基準としては意味がない。その音楽についての知識のためには意味がある。 ようするに、意味あるか・ないか、どちらにも偏らない日和見主義だな。ははは。 音楽そのものは音楽を聴くことでしか判断できない。耳にあわない音楽は、その人にとってはつまらないものだ。たとえその曲が名曲であろうと、ヒット曲であろうと、珍しい価値があろうと、おもしろく心地よいものに思えなければ、聴く人にとって良いものではない。 音楽の情報は、音楽そのものに付随するもので、あえて分ける必要はない。しかし、良い曲と思えるものを人に薦めたいときには、仕掛け人はある戦略をとる。その戦略的な仕掛けによって、音楽と情報が結びついたり、逆に両者が分離したりする。 結局は、つまらない結論になってしまったのは、問いかけがつまらなかったからで、音楽に関する駄弁というものは、これほどまでに無益なものだという証拠になったということが、今回の収穫だった。 あえて野心的に書こうとすると、詮索だけして何も見つけ出せないまま、報告書を作成することになる。 埋蔵金を掘ることなんてものも、そのような...

音楽は記述することが可能か?(5)

はたしてどちらの意見を尊重すればよいのか? 音楽は音楽以外で語るべきでない、という意見と、音楽ですらことばを省いて無言になるのはよくない、という意見と。 同じように、演劇も、舞台の上で演劇という方法だけで表現するものと、演劇について語るものとの相克が問題意識にあがることもある。 スタニフラフスキーの書いた「俳優の仕事(俳優修業)」と「「芸術におけるわが生涯」は、演劇の読み物だし、「俳優のエチカ」なども論文に近いものがある。弟子たちの書いた稽古場の記録がスタニフラフスキーの演劇人としての姿をよく映し出しているのは皮肉だ。彼の仕事は、現場で俳優や学生を演出したことに集約されていて、それ以外の著書は、正当に比較するなら、彼の余技ぐらいの価値しかないのではないか? ならば、彼が演劇についておしゃべりしたことは、彼の活動に弱い光をあてるだけのもので、そこにどれほどの重要性があるのだろうか? 同じように、蜷川幸雄の著書でも、栗山民也の著書でも、ピーター・ブルックの著書でも、たしかにおもしろいが、それに勝る舞台との比較をするならば、どうしても舞台のほうを選んでしまうのではないか? ストレーレルも「演劇は語るものではない」という文章で、自分の舞台を語ることが、その舞台と無縁なものであることを承知しながら、文章を書いている自分を卑下してこう書いている。 「ときとしてわたしは、こんな思いにとらわれることがある。演劇を、演劇以外のかたちで報告することが不可能だというこの特殊性は、演劇が劣っているという判定、自己の劣等性の自認にほかならないのではないか、と。しかしこれは同時にまた、あのほとばしりでるような<演劇性>のあかしでもあるのではないか、と。この演劇性はそれ自身によってしか自己をときあかすことのできないものである。そしてこれこそが、<演劇>の使命である。」(ストレーレル「人間の演劇」) 世の中さまざまな職種があるように、演劇も音楽も、その表現方法の分野ではおのおのの独自の力が必要だが、それを書物や文字とするとなると、また別の才能が必要になる。文章を書く能力である。専門的な芸術家にそれを求めるのは酷であろう。ゴーストライターという職業もあることだし。 かといって、ことばで語ることを回避して、いわば秘儀化して、秘伝として特許化することも、あまりおもしろくない。...

音楽は記述することが可能か?(4)

さてさて連載ものででもあるかのように、シリーズで書いているわけだが、ふりかえって少し明確にしておくところが必要だと思うので記しておく。 批評・評判・広告・宣伝・噂といった形の、創作者の外部からなされる記述と、創作者本人に求められる記述といったものの違いについて。もちろん創作者本人でさえも、後付けでさまざまな衣裳は着せられることがあるし、改作といった形で形を変えることもできる。そこらへんの区別については触れないことにしておく。 大事なのは、音楽なり、絵画なり、映画なり、演劇なりの芸術の特性的なもの・本質的なものか、それに付随する言述かという区別をつけること。 作品が一次的創造物とすると、その作品についての言述が二次的創造物であり、その二次的創造のことばというものが、はたして作品をどれほど豊かにできるか、反対にどれほど損なえるかということ、また、その二次的なことばでわれわれは何をどこまで表現できるかということを探ってみたい。 ふうぅ…堅苦しくなった… 前回は、ことばとの格闘というか、ことばとの交渉は必要なんじゃないかという結論で終わったのだが、それと反対のことも思ったりしているのだから、性質が悪いというのは承知でそちらの線の弁護もしたい。 さきほどの一次的、二次的な区分でいえば、たとえば音楽である限り、二次的な批評や言説は一次的な創造物にかなうものではない。これは分かり切ったことで、音楽が音楽についてのことばに負けるようであれば、音楽の存在価値がないのだ。音楽が音などを使って表現できることが、ことばによってできるのであれば音楽なんて必要ない。 音楽は音楽、音楽についての言説はことばの世界なので、まったく別の世界なのだ。ことばがどれほど発達しようが、音楽によって表現されたことで、すべてがひっくり返されるものなのだ。いわば、ことばなんてちっぽけなものだということ。 音楽なり映画なりが、目の前に現れて、現実のもの、生の具体的なものであるとすれば、ことばはあくまで抽象的なものなのだな。今日は雪だが、「雪」と書いて、連想するのは読み手の「雪」であり、書き手がどれほどの趣向と技術と具体性をこめて「雪」を説明しようが、読み手は自分勝手に「雪」のイメージを作ってしまう。 芸術が、ある意味で職人仕事だというのは、作品という具体的なものを提示するからであり、その...

音楽は記述することが可能か?(3)

先日まで書き綴ってきたことから文脈が少しはずれるが、ある音楽家の言葉を引用してみたい。 「私は未だに、作曲家は言葉で語るべきではないのではないかと思ったりしている。だが反面、自分に与えられた発言の機会を充分に生かさないのは、芸術家として社会に対する責任を怠ることになるのではないか、とも思う」(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より) 同じ人はこうもいう。 「昨夜の時点では、徹夜で書いた原稿をここで読もうと思っていたのですけれども、今朝、練習に立ち会っているうちに、なぜか読む気がしなくなってきました。自分の考えを知っていただくには、結局、ぼくの音楽を聴いていただくのが最も端的だ、と思うようになったからですが、しかしそう言ってしまうには、ある後ろめたさがあり、そこに作曲家としての怠惰と傲慢を感じます」(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より) 音を作り出す当人が、自分への戒めのために、あえて饒舌に口を開く機会を作っている意志の表れであり、そこに、説明責任といった一般的に求められる義務というよりも、親切心よりも、芸術家としてのポリシーを感じる。 「さ、これを聞けば答えが書いてありますよ」「詳しくはホールに来てください」「CDを買ってください」といった投げやりなものでなく、たとえ音楽でさえも、言葉との交渉を通して語るという使命感。 もちろん、当人ならずとも、第三者がその音楽を語るには、音を通して語るものが一番重要なものだが、そこでコトバでもって音楽を記述するという行為を放棄するのは、怠慢なのではないか?確かに、音に付随するコトバが、音を裏切ることもあるし、誇張していたり・偽装していたりする類の、コトバの衣裳もある。コトバの過剰や氾濫は、テレビのテロップに表れていて、それはそれで愉快なものではないが、かといってコトバで語るという行為をやめ、無言になってしまうのも考えものなのだ。 ある意味、言語活動は社会的な行為であり、それがなくては音楽でも絵画でも映画でも、まるで登られたことのない秘峰であって、それは眺められ、崇められ、迷信となってありがたがられる。もしくは忘れ去られる。芸術が受け手の手元にきちんと届くには、コトバとの交渉が必須なのではないか? と、またまた、事が大きくなりそうで、収拾がつかなくなりそうで、次に回す。次は芸術という関連から、演劇が記述で...

音楽は記述することが可能か?(2)

勢いにのって第二弾! 「バッハのイタリア協奏曲ってどんな曲だったっけ?」 「はい、これ」(楽譜を渡す) 「どんな曲だったっけ?」 「はい、これ」(CDを渡す) 「どんな曲だったっけ?」 「こんな曲よ。♪〜」(ハミングする) 「どんな曲だったっけ?」 「第一小節がフォルテに近い音から始まり…」(説明する) 「どんな曲だったっけ」 「ぼくの大好きな曲よ」(絶賛する) 何が一番効果的に、また分かりやすくその曲を伝えられるのだろうか? そんなことを書きながら、グールドの弾くバッハの「イタリア協奏曲」をCDで流す。音楽自体を聴いたことのある人なら、共有するものもあり、あるキーワードによってこちらの伝えたいことを伝達することができる。そのキーワードが伝達する側にも、される側にも共通しているというだけで、案外、別な曲を連想していたり、まったく個々の感受をしていたりする。 同じ曲を聞いたことがあるというのはまだいいほうで、聞いたことのない人にそれを伝えるとなると、ひと苦労する。ときには、相手の感受性をくすぐる方向で、説明を展開するし、曲そのものとはなんの関係もない自分の体験との連関を語ってみたり。そして、たいていそのような独自性のある説明のほうが印象に残るし、的を得ていたりするのはよくあることだ。 別に純粋主義ではないが、音楽が客観的に記述できるものなのか、批評ではないが、それを言い表す衣をかぶせることはできるのかという単純な疑問がどうしてもある。 歌詞のある歌ならその歌詞によって曲の一部、しかも大きな一部は表現できるのだが、「いかすぜベイビー!」「暗闇のおもちゃ〜」などという歌詞とは別次元で、洋楽ロックを聴いているのも事実なのだ。 歌詞は思い浮かばなくてもハミングできるのだし、たいていサビくらいしか覚えていないのだし。 ジャンルわけというのはよくされることであるが、まあ、あれは大ざっぱなものでしかない。ヘヴィメタルといういかつい名前のものだと、ひとくくりにしてしまい、それがブランド名になっていたりもするのだが、そのメタルの中でも、良い曲悪い曲があり、もちろんそれだけでは説明にならない。 そもそも音楽をコトバで説明すること自体ナンセンスなことなのか? (つづく…はず…)

音楽は記述することが可能か?(1)

今、武満徹のギター曲を聴いているのだが、ギターであるということ、彼の音楽を聴いていると彼独特のメロディがあるということはわかる。 周りにだれもいないにもかかわらず、もし、この曲の雰囲気を人に伝えなければならないとしたらどういう方法をとるだろうか?などと、休日的な発想をしている。 ♪を羅列するか? 文学的・描写的な方法をとるか? この曲を聴いて、自分はどう感じたかを言うか? ただ、「聴いてみろ」というか? そこでぼくは、音楽の記述という難問にぶつかった。はたして音楽というものは、それがその音楽そのものであるように記述するということが可能なのだろうか?このコトバを使えば、まさしくこの曲を指し示す、まさしくこの曲であると万人がわかるように説明することが可能なのだろうか?といういささか絶望的な問いを自分に課してみた。 なるほど、歌詞のついている曲は歌詞をそのまま記述したり、口にすることによって、その曲だと認識させることはできよう。しかし、それはあらかじめその曲に接する機会のあった人の記憶を呼び出すものであって、その曲に接したことの無い人には説明できない。歌詞を忘れている人、またその歌詞を音楽とは別なところで聞きかじった人には、音楽のメロディ、リズムなど説明できるものではない。 たとえばローリング・ストーンズと早坂文雄の音楽の違いを、その両者を知らない人に、コトバで説明して、分かってもらうこと、魅力を感じてもらうということが可能なのか?可能だとしても、それが純粋な音楽というものなのか?コトバによる説明でしかないのではないかという危惧なのである。 ここ最近履歴書を送る毎日を繰り返していることからそんな発想が生まれたのかもしれない。履歴書で人の説明はつくが、会って話してみないことにはその人自体を知ったことにはならない。周辺事情だけで人間が見えるものでないのは人事をする人はよくご存じだと思う。それほどひとりの人間は複雑なものなのだ。簡潔に要点をあげ、プロフィールを作るのは、遠回りしているにすぎないとすれば、これまた絶望的に、すべてを体験しなければ知ったことにはならないという命題にぶち当たる。 音楽を知るには、直接、その音楽を聴くこと、それが唯一の方法で、それしかありえないのか?また、文字による記述や言い伝えというものは付属的なものでしかないのか?とい...

戦いのマニフェスト

今日はワークショップをやった。 シアターゲームとエチュードを中心に。 有意義な一日だった。 ワークショップを開くとき、必ず気にかけるのは、集まった俳優はその場にうちとけられるかということ。というのは、ぼくはそういった場に溶け込むことが苦手だから。ほぐすために、シアターゲームを使っているのだが、一番うちとけていないのは、気負いすぎのぼくかもしれない。 そしていつも不安になるのは、俳優はぼくを信頼してくれているかということ。おどおどしているわけではないが、内心大きな不安をかかえてはいる。博打をうつような大胆さをもって進行しなければ俳優が不安になるので、そこは開き直ってなんの迷いもなく行動することにしている。 つねに、そんな不安と戦いながらやっているから、稽古のあとの食事や乾杯が楽しいのだろうか? 俳優としてやっていたときも、演技はこれでいいのかという大きな不安を抱えながら、やるしかないと踏み切ってしまえば、あとは開放感が待っていてくれる。 大雨の日のメッセンジャーの仕事も、終了後の安心と達成感と苦労とで、なにげに同僚たちの雰囲気は高揚している。 そうか!つねに大きく強いものと戦えばいいのか! 自分をネガティヴにさせるような蜘蛛の巣をふり払う努力をすればいいのか! 戦えば戦うだけ、その見返りは大きいのだろう。 逆にいえば、戦うものをなくしているときほど、惨めな状態はないのか? 「多くの演技者が感ずる気おくれやはにかみは、害があるどころか、かえって有益なものであり、必要でさえもあるくらいである。・・・こうした不安感を使いこなし、みずからを役の高さにまで高めなければならない。このような恐怖やはにかみを利用することができてこそはじめて真の職業俳優になれるのだ」 (L.ジュヴェ) その障害が自分の内心にあるのであれ、肉体にあるのであれ、外部にあるのであれ、乗り越えようと戦うことが大事だ。安易な結着をつけるのでなく、負けてもいいからぶつかっていく。ぶちあたって初めて相手を知ることができるのだ。相手を変えることができるのだ。 武満徹はどもりのマニフェストと称して、どもりを称揚している。 「どもりはあともどりではない。それは前進だ。どもりは、医学的には一種の機能障害に属そうが、ぼくの形而上学では、それは革命の歌だ。どもりは行動によって充...

今宵はライヴで!

今日は、友人のライヴに行ってきた。 電車で向かい、帰るときもそうだったが、電車に飛び込んだとか、線路内に人が立ち入ったとかで、電車が遅れた。 周囲の人の話をちらと聞いたら、このごろ頻繁にそういうことが起こるらしい。 そんな季節になったのか。 少し前だが、歩道を歩く歩行者が、ふらふらと、周りを見ないで方向転換したり、急に立ち止まってみたりと、ずいぶん自由気ままな行動をとり始めたと感じた日があったが、その延長なのだろうか? それとも何か思いつめてか? さて、そのライブだが、レストランで開かれて、なかなか楽しい雰囲気で聞けた。 リーダーの人がおもしろい人というか、音楽に真摯に向き合いながら、楽しくバンドを導いて、グルーヴを作り上げていた。 友人の歌姫は女優なのだが、いい歌を聞かせてくれた。少し音程がはずれていたところはご愛嬌で。こういった幅広い活動は続けるのがいいね。 オペラを観ているときもそうだが、今夜はバンドのライヴということで、生演奏を聞けた。生演奏というのは、目の前で演奏している意味だけでなく、そのときの現時点で、音楽をつくりだす生産活動ということだ。 スコアはあっても、グルーヴは書かれていない。そのときどきで協同で生み出すものだからだ。 バンドの演奏を聴いていておもしろかったのは、テンポが速かったり、リズムをとれなかったり、音のバランスがあわなかったりすると、演奏を何度も何度も繰り返して、ぴたりとあてはまるものになるまで、曲を始めないことだ。 いいグルーヴができあがるまでの準備というか、その準備もリズムにのって決して非音楽的なやり直しというわけでない。 演劇をやっていて、集団のアンサンブルを作りだすために、こんなやりかたで、スタートするまでの準備をしてみるとおもしろいかもしれない。 みんなのいきがあってテンポが生まれたときに、おもむろに劇が始まるという・・・ 音楽では、音を出すこと、メロディを出すこと、リズム・テンポをあわせるために、演奏を何度もやり直せばいいが、演劇でそれと同じことをしようとすると何をすればいいのか?発声練習じゃあるまい、柔軟体操じゃあるまい、嘘くさい小芝居じゃあるまい。 バレエでも準備から流れるように本番に入っていくのを見たときがある。何気なく手をぷらぷらしたり、しゃがみこんだり、スキップしたり。 ...

試し続ける人たち

ここ数日、気になって離れない言葉がある。ほんのささいなことばだ 「実験的ということばを私は好かないが、というのは芸術は実験に決まっているからである」 (三谷礼二) 楽譜がそこにあるのは、踏み台としてあるのであって、線路の上を一寸たがわず演奏しなさい、ということではない。 台本という言葉自体、踏み台といった意味にとれるのではないか? さまざまな博物館のうち、おもしろいものは、そこから何を見出すか?という問題提起を投げかけているものだ。珍奇な物を収集・保存してそれをありがたがらせ、権威をもってひれ伏させる類の博物館では、観覧者の足取りは速い。 つねに試す人であること。新しい物事に遭遇したら、それはどんなに日ごろ見慣れているものであっても、新しい経験にほかならない。 「そんなことしょっちゅうあるよ」といって、態度を常套なものにしてしまっては、新しい物事は、古い、扱い慣れたものになってしまう。 態度の自動機械化。判断のマニュアル化。 夏の夜にわが肌を刺す、あの蚊でさえ、昨日の蚊とは違う。 「(音楽とはなんですか?の問いに) もしわたしが音楽のなんたるかを知っていれば、音楽に専念することはなかったでしょう。過去、現在を問わず音楽家というのは、その答えを求めてきた人たちのことを指すのですから。その答えを表現する手段を模索する人こそ音楽家です。・・・ともかく作曲家は答える立場の人間ではありません。逆にいつも問いをなげかける人間です」 (武満徹) 演劇をやるにあたって、始めから、その効果と意義とおもしろさが手に取るようにわかり、また、見通しが製図されて配置されているのなら、あえてその作品を上演する意味はない。 近松の戯曲は、歴史と人間の風雪に耐えてきたからこそ、現代にもつながるものがある。確かめるために試練にさらすのもいいかもしれない。 ある意味、遺跡の発掘に似ているかもしれない。 先頭に立って堀り続けること。発見すること。汚れを丹念に落とすこと。手にしたものを吟味すること。歴史的な文脈と手にしたものの観察から、仮説をたてること。そしてまた明日に掘り続けること。 博物館に入れることや、メディアに発表するのは、別な人間がやることだ。それこそ、偉大な分業制ではないか? 音、沈黙と測りあえるほどに(1) 音、沈黙と測りあえるほど...

音、沈黙と測りあえるほどに (2)

グレン・グールドのピアノ曲を聴き、弾むような、そして一音一音がつぶだってはっきりと聞こえる、あの、スタッカート。グールド自身、人生にスタッカートのようなかかわり方をしていたかのように思えてしまう逸話の数々。 鍵盤から指が離れる間際、そこにあらゆる音楽がつまっているかのように、美しく、澄んだ音が、沈黙へ流れ込む。音が、沈黙があるゆえに自らをふちどり、存在を確立するかのようだ。 都心の喧騒は、公園や住宅地の静寂によって、自分の地位を確認しているのであろうか? 人間の話し声の集積なら、ふとしたときに、予想外の沈黙を生み出すことがある。電車の中で、飛び交う言葉の群れが息抜きをしたときの、あの奇妙なバツの悪さはなんなのであろうか?まるで、突然訪れた沈黙を恥じるように、耳をすまして、音の来訪を待つ。その瞬間、音は時間の流れを断ち切って、空間を切り裂く。 あのやかましい車の音でさえ、信号の切り替わりのときに、深く息を吸い込んだあと、奔流のように音を流し込む。 その一瞬はなんなのであろう? 「芸術は、沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか」(武満徹) また、同じひとは言う 「音楽は、音か沈黙か、そのどちらかである。私は生きるかぎりにおいて、沈黙に抗議するものとしての<音>を択ぶだろう。 それは強いひとつの音でなければならない」 (武満徹) なにげなく生活をしているこの世界に音が溢れ、それがわたしたちの意識の下を、あざ笑うかのように素通りするする。失うものの量は大きい。 かといって、すべての音を偏執狂的に収集したところで、得るものは少ない。 わたしたちがこの世界の音のひとつにでも意識を傾けたとき、世界が理解できた気持ちになるのは、大いなる勘違いとばかり言えようか? ぼくたち、芸術を志す者は、武満の言うように、強い音を鳴らさなければならない。そして、その強い音の隣には、おしとやかな沈黙が伴侶のように寄り添っている。世界を音として把握するには、そんな夫婦を引き離さずに喜んで迎えなければならない。ああ、それが口でいうぶんには簡単なのだが、実際に考えはじめてみると・・・ 音、沈黙と測りあえるほどに(1) 試し続ける人たち 戦いのマニフェスト    

音、沈黙と測りあえるほどに (1)

演劇のことを考えていると、非常に図式的ではあるが、照明の光と闇、音楽・音響の音と沈黙、舞台装置の存在と空間といった、二元論的な対比を思いついてしまう。役者としての訓練をしていたころ、そして今も、発声のための呼吸をつきつめて、単純に言うと、吸うこと、吐くことといったふたつの動作に還元することで、手がかりを得ようとしてしまう。 ことばの上で、こういった対比をすることで、意識が研ぎ澄まされた錯覚に陥ってしまう。そしてそんな図式的な考え方は、その場限りで終わる。もともと、製図をするための尺のような思考方法なのだろう。人に物事を説明するときも、こういった、定規でひっぱった論理を使うことに、自分自身納得し、賢くなったと思い込むことを何度も繰り返し、これからも繰り返すことであろう。 かといって、ある現実を考えるときに、その反対となる概念でもって、対比させながら、その現実を明るみにだしていくことは、有害であるとはいえないだろう。少なくともひとつの手がかりにはなる。 さてさて。 都心を駆け回っていると、あふれるばかりの過剰な騒音・雑音に慣らされてしまい、住宅地や裏道に少し入ったときの静寂感に、ときおり、はっと驚くことがある。音があふれかえっている盛り場や交差点などは、かえって音を感じ取れない場所なのか。外観は高ぶった活発さがあっても、じつはそこには、末梢神経の痙攣しかないのかもしれない。そのことを、武満徹は「どうしようもない衰弱」ではないかと言っている。 時間がなくなってきた。また、続きを書こう。 残念ながら、ここで話を打ち切るのも、体言止めのような効果ぐらいはあるだろう。 饒舌の口を休ませてあげるのは、天使のひらめきを生み出すことには役立つであろうから。 音、沈黙と測りあえるほどに(2 ) 試し続ける人たち 戦いのマニフェスト