演劇のことを考えていると、非常に図式的ではあるが、照明の光と闇、音楽・音響の音と沈黙、舞台装置の存在と空間といった、二元論的な対比を思いついてしまう。役者としての訓練をしていたころ、そして今も、発声のための呼吸をつきつめて、単純に言うと、吸うこと、吐くことといったふたつの動作に還元することで、手がかりを得ようとしてしまう。
ことばの上で、こういった対比をすることで、意識が研ぎ澄まされた錯覚に陥ってしまう。そしてそんな図式的な考え方は、その場限りで終わる。もともと、製図をするための尺のような思考方法なのだろう。人に物事を説明するときも、こういった、定規でひっぱった論理を使うことに、自分自身納得し、賢くなったと思い込むことを何度も繰り返し、これからも繰り返すことであろう。
かといって、ある現実を考えるときに、その反対となる概念でもって、対比させながら、その現実を明るみにだしていくことは、有害であるとはいえないだろう。少なくともひとつの手がかりにはなる。
さてさて。
都心を駆け回っていると、あふれるばかりの過剰な騒音・雑音に慣らされてしまい、住宅地や裏道に少し入ったときの静寂感に、ときおり、はっと驚くことがある。音があふれかえっている盛り場や交差点などは、かえって音を感じ取れない場所なのか。外観は高ぶった活発さがあっても、じつはそこには、末梢神経の痙攣しかないのかもしれない。そのことを、武満徹は「どうしようもない衰弱」ではないかと言っている。
時間がなくなってきた。また、続きを書こう。
残念ながら、ここで話を打ち切るのも、体言止めのような効果ぐらいはあるだろう。
饒舌の口を休ませてあげるのは、天使のひらめきを生み出すことには役立つであろうから。
音、沈黙と測りあえるほどに(2)
試し続ける人たち
戦いのマニフェスト
ことばの上で、こういった対比をすることで、意識が研ぎ澄まされた錯覚に陥ってしまう。そしてそんな図式的な考え方は、その場限りで終わる。もともと、製図をするための尺のような思考方法なのだろう。人に物事を説明するときも、こういった、定規でひっぱった論理を使うことに、自分自身納得し、賢くなったと思い込むことを何度も繰り返し、これからも繰り返すことであろう。
かといって、ある現実を考えるときに、その反対となる概念でもって、対比させながら、その現実を明るみにだしていくことは、有害であるとはいえないだろう。少なくともひとつの手がかりにはなる。
さてさて。
都心を駆け回っていると、あふれるばかりの過剰な騒音・雑音に慣らされてしまい、住宅地や裏道に少し入ったときの静寂感に、ときおり、はっと驚くことがある。音があふれかえっている盛り場や交差点などは、かえって音を感じ取れない場所なのか。外観は高ぶった活発さがあっても、じつはそこには、末梢神経の痙攣しかないのかもしれない。そのことを、武満徹は「どうしようもない衰弱」ではないかと言っている。
時間がなくなってきた。また、続きを書こう。
残念ながら、ここで話を打ち切るのも、体言止めのような効果ぐらいはあるだろう。
饒舌の口を休ませてあげるのは、天使のひらめきを生み出すことには役立つであろうから。
音、沈黙と測りあえるほどに(2)
試し続ける人たち
戦いのマニフェスト
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