演劇に携わっていると、毎日が楽しくなるのは、今までに何度も語ってきたことだが、その理由をあげればきりがないので、今、というより今日、頭をめぐっていることを書きたいと思う。 演劇だけとは限らず、何かの調べ物をすることをぼくは好むのだが、自分の知らないこと、未知の事象や、過去の歴史の具体的な事象の発見をすることから、樹木が生長するかのように、興味がひろがり、ひとつの発見がもうひとつの無知につながり、その探求に結びつく。 樹木は地上に大きく、高く、広がり伸びるだけでなく、目に見えない地下にも茎として広がって深くなっていく。その巨大な地下網は、たとえば人間の潜在意識のように、感じ取ってはいるが、感じ取っていることを意識できずに蓄積されていき、ふとした何かの拍子に露見することになる。 古代の住居や貝塚、ポンペイの遺跡は、地上の表面からは姿を消していても、探求者の情熱や、ふとした偶然により、地上にあらわれる。そんなときにわれわれは目も眩むような未知の世界が、地下で生命を保っていたことに愕然とし、考古学者や好事家は憑かれるかのように、発掘に情熱を燃やす。 冒険家の行動も、自分の知らないことを、他者との遭遇によって、少しでも理解したいという行動のあらわれと解釈できる。 個人の知識や経験は限定されたものであるが、人がひとり増えることや、場所がひとつ増えること、歴史がひとつ明らかになることで、知識や感受性の限界は広がっていく可能性をもつ。 江戸時代の絵をみる。江戸時代以前の絵でもそうだが、街全体を見渡した絵がある。さまざまな人間が茶を飲んだり、三味線を弾いたり、あいさつしたり、犬においかけられたりしている。遠近法を全く無視したような構図で、平べったい屋敷がカンバスに塗りつけられているようだ。なぜか、どの絵にも雲が描かれていて、雲に隠されて、その部分は何が行われているか想像で補うしかない。もしくは、画家が描き疲れて雲でごまかしたのかもしれない。絵画の美学の可能性もある。 知らないこと、気になることだらけだ。 そんなことをひとつひとつ探っていくことで、また新たな発見と無知に出会う。完成はないようだ。 こんな日々が毎日続くと、大変ではあるが、おもしろい生活になるのではないだろうか?