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10月, 2007の投稿を表示しています

探求

演劇に携わっていると、毎日が楽しくなるのは、今までに何度も語ってきたことだが、その理由をあげればきりがないので、今、というより今日、頭をめぐっていることを書きたいと思う。 演劇だけとは限らず、何かの調べ物をすることをぼくは好むのだが、自分の知らないこと、未知の事象や、過去の歴史の具体的な事象の発見をすることから、樹木が生長するかのように、興味がひろがり、ひとつの発見がもうひとつの無知につながり、その探求に結びつく。 樹木は地上に大きく、高く、広がり伸びるだけでなく、目に見えない地下にも茎として広がって深くなっていく。その巨大な地下網は、たとえば人間の潜在意識のように、感じ取ってはいるが、感じ取っていることを意識できずに蓄積されていき、ふとした何かの拍子に露見することになる。 古代の住居や貝塚、ポンペイの遺跡は、地上の表面からは姿を消していても、探求者の情熱や、ふとした偶然により、地上にあらわれる。そんなときにわれわれは目も眩むような未知の世界が、地下で生命を保っていたことに愕然とし、考古学者や好事家は憑かれるかのように、発掘に情熱を燃やす。 冒険家の行動も、自分の知らないことを、他者との遭遇によって、少しでも理解したいという行動のあらわれと解釈できる。 個人の知識や経験は限定されたものであるが、人がひとり増えることや、場所がひとつ増えること、歴史がひとつ明らかになることで、知識や感受性の限界は広がっていく可能性をもつ。 江戸時代の絵をみる。江戸時代以前の絵でもそうだが、街全体を見渡した絵がある。さまざまな人間が茶を飲んだり、三味線を弾いたり、あいさつしたり、犬においかけられたりしている。遠近法を全く無視したような構図で、平べったい屋敷がカンバスに塗りつけられているようだ。なぜか、どの絵にも雲が描かれていて、雲に隠されて、その部分は何が行われているか想像で補うしかない。もしくは、画家が描き疲れて雲でごまかしたのかもしれない。絵画の美学の可能性もある。 知らないこと、気になることだらけだ。 そんなことをひとつひとつ探っていくことで、また新たな発見と無知に出会う。完成はないようだ。 こんな日々が毎日続くと、大変ではあるが、おもしろい生活になるのではないだろうか?

稽古・稽古・稽古

お夏清十郎の稽古も、順調に進んでいて、役者の考えてくるエチュードも発展してきて、いわゆるインスピレーションの領域に達しているものもある。荒削りではあるが、考えてきたこと、想像してきたこと、共同で話し合ったことが、活発に動き出したのである。やはり、インスピレーションが湧くには、燃料のたくわえが必要であり、役者の努力による積み重ねによるしかない。こういうエチュードが出てくると、ぼくも、他の仲間も刺激され、一段高いものに到達しようとする。 共同作業のよさである。 何度も言っていることだが、どうしても個人主義的に生活することに慣れてしまいながら、演劇の場でそういったチームワークの仕事に出会うと、普段の生活が物足りなく、なんと味気なく生きているものだろうと感じてしまう。 ちっぽけな自尊心や、ちっぽけな知識を打ち砕くような、チームの力、個々の努力と協調による創造を求めていきたい。そして、その輪をもっと広げて、もっと緊密にしていきたい。個々人に要求すること、ぼくの努力も、もっとハードルを高くしていきたい。 いやあ、また、似たような文章を書いてしまった。 こんな能天気な文章だが、今は具体的な作業に直面しているときで、正直、課題や作業量はまだまだ山積みだ。満足はしていない。満足する要素があることに、可能性を見出しているわけで、それはいくぶんぼくの楽天的な思想の顕れでもある。やるべきことをしなかったために後悔はしたくない。だから、今からでもいいからやる。役者にやってもらう。 ふう! つまらんことを書いている。 よし! 寝る! 向かい通るは清十郎じゃないか お夏清十郎の公演

立場が変わると・・・

ジャック・ルーシェのピアノソロ作品のショパンの曲を聴きながら書いている。書く内容とショパンとは何の関係も無いけど・・・ 演劇の期間でないときは、ぼくは、ふたつの仕事をかけもちでしているのだが、スケジュールについては、ぼくは問題児で、NG・早退・遅刻・変更の要求を提出するので、管理者は大変だろうなあ、なんて思いながらも、頻繁にそういうことをする。 立場が変わって、公演の稽古のスケジュール管理をする立場になると、わずらわしいこと、思いどおりに行かないことがあって、苦労する。半分以上はその仕事を演出助手の未来ティーに任せることによって、負担は軽減したが、ぼくは心配性なのか気になることはまだまだある。 思うに、人の時間の管理、場所の確保、会合のアポなど、いわゆる前準備の仕事をうまく決定できれば、不安はなくなるらしい。不確定の要素が多いときに、いらいらするのだ。どれだけ、その心配を管理者にさせてきたことか。反省。 立場が変わるといえば、前々からぼくは、人にものを教えたり、主導の立場に立ったときに、自分自身が勉強・学習している感をもつ。まるで自分自身の勉強のために、教えるかのようだ。 高校生のときに、出身校の小学校にサッカーを教えにいったことがり、こどもたちに蹴り方、動き方を教えることで、基礎を再確認できた。 大学のときは英語の家庭教師みたいなこともやったけど、個人教授で、教え方も自分できめるので、好みの方法で教えたのだが、その時間、自分も勉強しているかのように、物事がすっきり頭に入ってきた覚えがある。 立場が変わるといえば、これだけは言っておきたい。 普段から自転車を愛用する者としては、車の乱暴な運転が頭にくる。ぼくが車を運転するときは、道路の端に歩行者や自転車を追いやって平気でスピードをだすような真似はしたくない。それだけは自戒の意味も含みながら言っておく。 やはり、車優先の社会はおかしい。車に乗るとその感覚が麻痺するからな。 気をつけっぺ!

生活の発見

ここのところ、稽古のことしか書いていなく、文の最後には「がんばる」と結ばれて、稽古のブログにリンクを貼って、もう、熱病に取りつかれているようだ。 かといって、別な話題を考えていると、すぐにお夏清十郎のことに結び付けてしまう。たくさんの発見が、お夏清十郎にもたらされる。 ということは、逆に考えると、普段の何も行われていないぼくの生活も、驚くほど豊富な材料・魅力に満ち溢れているのに、それに気づかずに生活しているのかもしれない。 人はよく、逆境に立たされたり、ピンチになると、馬鹿力を発揮したりする。また、そんな重大な瞬間にすべてがす〜と見渡せて、はっきりと物事が理解できたりする。 そういった意識を覚醒するような瞬間を多く持てて、それを習慣化させるのがよいことなのかもしれない。だが、なかなかそんな緊張をはらんだ生活を続けていくことは難しい。 演劇の稽古に入って、いわば、祭り的な状況にいるぼくにとって、明日は久しぶりに日常的な手仕事・足仕事の日だ。販売とメッセンジャー。そんな日常的な生活に新鮮な魅力を再発見できる日なのかもしれない。 一日一日がおもしろい日になればいい。 また最後に「がんばる」という言葉で結ぼうか。このことばを嫌う人もいるが、ぼくは別段、嫌う理由も見あたらないので、使ってしまう。 そんなことはどうでもいい。 明日がきてしまった!

チームワーク

少し前に何度も何度もかみしめて読んだ本がある。 橋本忍の『複眼の映像』。黒澤明の映画での共同執筆について、橋本が振り返った好著だ。 橋本はとくに、『羅生門』『生きる』『七人の侍』について詳しく書いている。 ライター先行型の共同脚本という執筆方法。先行ライターが叩き台となる第一稿を書き、第二稿に修正し、それを複数のライターが同じ場面を用意ドンで書き始めるのだ。一番よくできたライターの稿や、よくできた部分を混合し、決定稿ができあがる。 手間と時間がかかるが、本当の意味での共同作業、チームワークのたまものなのだ。脚本は映画の根本であり、そこにかける時間と労力を惜しんではいけない。 自転車のロードレースもチームでの仕事だ。コースの脚質にあった選手を勝たせるべく、風除けになったり、引っ張ったり、戦術的に先を走ったり、水分の入ったボトルを取りにいったり。 はじめからチームのスポーツであり、選手の勝利はチームの勝利でもある。 ラファエロやミケランジェロなどの天井や建物に描いた絵画も、もちろんチームの仕事であり、名が残るのはラファエロであっても、そこには多くの弟子たちの作業と喜びが隠されているであろう。 稽古をはじめて、チームワークの必要さが、前にも増して感じられるようになった。15人くらいの眼が、心が、頭が集まれば、かなりの可能性が生まれる。個人の認識の範囲をまたたくまに超えていくのだ。いわば集団としての観察であり、思考であり、感受である。毎日が驚きの連続である。ちっぽけな限度を破られる快感だろうか? そして、まだまだその可能性を広げることができる。チームワークとは、ひとりひとりがそれぞれ手を抜かず、自分なりのやり方で、周囲を気遣いながら、上へ上へと目指すものだろう。芸術の創造過程で遠慮はいらない。激しくぶつかりあうくらいのエネルギーをもったやりとりが、そこで交わされたとき、真のチームワークが生まれるから。 頑張ります。 向かい通るは清十郎じゃないか (お夏清十郎公演ブログ)

お夏清十郎の病

芝居の稽古をしている。 公演のために稽古をするということは、一種、ある熱狂状態に陥るかのようであって、楽しいのはもちろんだが、一方では、ある感覚が麻痺することでもある。その感覚とは、日常生活のリズム感とでもいおうか、芝居以外の生活習慣を忘れてしまい、すべて芝居に従属させてしまう。そんなふうになると、稽古以外の時間も稽古のための準備になってしまい、テレビを見ても、人と会っても、ひとりでいても、劇の状況を思いだしたり、劇に結び付けて考えたり、情報の収集を無意識に劇の要素だけにしたり、ようするに熱狂・恋だ。 今度の劇が、恋が中心の物語であることあり、二重に恋の状態に陥っているかのようだ。こうした演劇病は、それでもやはり、バランスを欠いている状態にほかならない。もしくは、ある別次元の均衡を見つけ出しているのか?だからこそ、熱が収まったときの心の揺れが激しいのだ。役者の卵だけの病気かと思っていたら、これは一生続くのね・・・ 自分がそこまで一生懸命になれて、あるものに打ち込めることに驚き、感動する。自分を再発見することでもある。 こんなことを綴らざるをえないぐらいの状態なんだな、今は。いつまで続くか、途中で息切れするかもな。もしくは、もっと高熱になるかもしれない。 今はこんな文章しか書けないな・・・ あとで読み返すと恥ずかしいかも。 だってこれは、「演劇に恋をしています」と白状して、それがもろに表情・しぐさに表れているようなものなんだから。 一緒に作り上げる仲間、スタッフも含め、そんな恋をする状況にあると思うのは、ぼくだけか?いやいや、みんなそんな兆候が表われているように見受けられるが・・・昨日稽古にいらっしゃった、音楽の若柳吉三郎さんに夕方に会ってきたのだが、吉さんも昨日の稽古風景を楽しく反芻して語ってくれていた。 もう伝染病の類だな。 がんばろっと!!! 向かい通るは清十郎じゃないか (今回の公演用のブログね!)

稽古に入りますよ

しばらく、書きませんでしたな・・・ははは 忙しさにかまけて、書こうとページを開いても、ま、いいやと放置しておいたわけ。 日記の類は、続かせる努力が必要だと再認識。ぼくの弱いところでもあるんだな。 明日からグルッポ・テアトロ公演『お夏清十郎』の本格的な稽古に入ります。 チラシも印刷に回せたし、事前準備もやれることは最大限にやったし。今回、できなかった事前準備は今後の課題ですな。 詳細はこんなとこよ。 グルッポ・テアトロのホームページ 『お夏清十郎』公演のチラシ 向かい通るは清十郎じゃないか (公演用のブログ、公演については主にこちらに書きますんで・・・) 頑張ります。今日は久々のあいさつということで。 もう雲隠れしませんので。 (今日はとてもかしこまった口調で書いているな・・・!)