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10月, 2008の投稿を表示しています

優しくなる

ここしばらくは風邪で寝込んでいたし、まだ咳きこんで回復していない状態だから、外出する時はなるべくおとなしくしている。 道路をふさいで話しこんでいるおばあさんたちの脇をそっと通り抜け、角から勢いよく飛びこんでくる自転車に乗ったにいさんも睨まず、駅をゆっくりゆっくり歩く人たちにもいらつかず。 優しくなってみたよ。 はは、優しいだってよ。 もともと冷たくはないけど、見込みのない人には優しくないぼくなんですよ。 性格が完全に曲がっている人、そしてそんな状態に陥っているのを気づかない人には。そんな性根の悪い人とは友達どころか、知り合いにもなりたくない。きっぱり拒絶する。 自分と親しい人は、そんなことないのだよね。 また、自分の友達は少し大目に見てしまうのが人間というものでしょう。 だから案外、そんな性根の悪い人たちを友達として接するようにすれば、優しくなれるのかも。 世の中には、いい人、気持ちのよい人、性格の良い人、気持ちよくさせる人、和ませてくれる人が、ぽつぽついるんですよね。しかも、どんな人でも友達がいるなら、みんな、そんな心地よい接し方をしているんでしょうね。 それが、公の場に出ると修羅場になるから恐いよ、人間って。 車の中では気持ちいい人でありながら、路地を猛スピードで駆け抜ける運転手だっている。 仲間うちでは、はきはきしていても、コンビニのレジ前に立つと尊大な客になる人もいる。 たばこ欲しいのに、ぼそぼそと銘柄を言って、聞こえないと怒る。 サークルのノリで駅前で円陣を組んで、反省会をする大学生。 すべての人に気持ちよく接することは無理だけど、友達以外にも、最低限接する人には、気持ち良い人間でありたいよね。嫌われることは嫌いだからね、誰でも。 きっと不可能な幻想なのかもしれない。でも、小集団ではよく起こることだし、中集団にだって起こりうる。 初めて行った地方の村で、朝通りすがりの小学生から「おはようございます」と声をかけられて、こちらもあいさつをかえす感動は忘れられない。 単に物の売り買いをしているときの、売り手と買い手の両者の「ありがとう」ほど、お互いの気持ちをよくするものはない。 今日は、風邪を利用して、優しくなる練習をしていたわけだな。 でも健康じゃないから、優しくなる体力がなくなったかも。 優しくなるに

健康

またまた熱を出した。またまたとは言っても、8か月ぶりか。 金曜の夜から怪しかったけど、土曜日から今日日曜日の夕方まで、かなりひどかったな。 温かくして眠るとひどく汗をかいて、そのたびにお風呂に入って汗を流した。 こんなときでも発見はあるもので、体脂肪計付きの体重計で逐一体重を計ってみたら、風邪の引き始めの頃から、体重は1〜2キロ下降したけど、体脂肪はどんどん上昇したのだ。普段から比べると、7〜8%も上がった。これはなぜでしょうかね。今はその気でないので調べることはよすけれど、体重が2キロも減って、体脂肪が7%も上がるというのは、人間の体として変調がある証拠なんだろうね。風邪をひいて熱が上がるというのは、こんな数値にもあらわれるのかもね。 そう。風邪を引いていたからか、土曜日からは朦朧としていて、それでも知り合いの演劇を観に新宿までは行く事はできた。しかも自転車で。 観た芝居もおもしろい試みではあったけど、風邪ひきのぼくには魅力的に思えず。 その帰りに食べた麻婆豆腐もあまりおいしくなかったな。 今日食べたハムカツもコロッケもおいしくなかった。 きっと風邪をひくと、賞味する感覚も失われるのだな。 唯一おいしいと思えるのが、烏龍茶だからな。 寝てばかりはいられないと、少しだるいが、夜からは起き上がって活動している。このほうが風邪の治りが早いんじゃないか。リハビリよ、リハビリ。 健康ね。健康。これが減少すると、何もできないね。 明日からは治ると確信してはいるが、まだ少しだるいなあ。

演劇に必要なこと

久しぶりに演劇について書くな。 演劇をいっぱい観ているわけではないが、いくつかの舞台を拝見したし、今後も観る機会が連続する。まさに、シーズンだから。 良い舞台、いまいちな舞台はあっても、嫌悪させるような舞台がないということはよいことか、あるいは平均化しすぎてつまらないことなのか。 まったく記憶にも残らない舞台はあるけれど、記憶に悪く残る舞台もある。そこで行われていることが、吐き気しか催させないものなのならば、ある意味で公演は成功なのかもしれないな。 通り過ぎるような演劇よりも、何かしらのインパクトを与えるよな演劇が、演劇たるものであるかもしれない。 そんな意味で、最近観る演劇は、通り過ぎて行くものが多いな。 誰だったか、アッカーマンだったかが言った言葉があったな。日本の演劇シーンは戯曲が量産され消費されていきすぎると。 そうね、いい戯曲はあるのだけど、新作のほうがもてはやされることが多いかな。新作は、たいてい新奇なだけが魅力であることが多い。それはベテランの劇作家にしても、駆け出しの作家にしても。 近頃みる演劇が、いまいちピンとこないのは、何なのだろうかと考えてみた。 ぼくなりに見つけたのは、「テーマ」の問題。何について書かれていて、それをどう提示しているのかが不明瞭な演劇。 それは戯曲にしても、それを上演する団体にしても。戯曲ならば、何について書いてあり、それを作者はどう描いているかが分からない。団体ならば、なぜそれを上演するのかが分からない。 新作だから、いい戯曲だから、いい作家だから、という理由は上演する理由にはならない。その戯曲のどこに惚れて、どのように舞台化したのかが分からないと。それがある団体は、たとえ欠陥があっても、好印象を受ける。 なぜ、その公演をやるのか、月並みだけど、何を問題としてそれを上演するのか、そこにかかっていると思う。 きっとそれなりに、上演する意義を持ってやっているに違いない。でも、その熱意も伝わってほしいというのが観客としての要求であると、ぼくは信じる。少なくともそんな熱意があれば、素人演劇でも学生演劇でも楽しい。 テーマがあり、熱意があるということ。 それに加え誠意があるということが、好感を呼ぶと思う。 最近接する演劇団体は、こなれた団体が多いのか、事務的にかつ突き放した姿勢でお客さんを

次郎長三国志9 荒神山

とうとう次郎長三国志の最終部となってしまった。次郎長の物語は、石松が死んだ時点でひとつの終着点だと思うが、石松の仇ということで、都鳥三兄弟を討ちに行く。 思っていた以上に、ドラマは面白かった。しかし、新しい要素を入れなければならなく、吉良の仁吉が登場してくる。吉良の仁吉は魅力的な人物像が描かれていたが、その話しを推し進めるには、また何本もの映画が必要かもしれない。それが、このシリーズが終わりになった理由かもしれない。区切りのいいところで。 仇討ちとなると、怨念のたまった暗い暴力的なものと想像しがちだが、それを裏切ってくれるところが面白い。 やはり次郎長一家には、喧嘩の際でも歌が必要なのだ。そして、ワッショイワッショイの掛け声が必要なのだ。その活気が仇討を明るいものとしてくれる。 農民の誤解を解くところに話が費やされていて、なかなか進まないところにもどかしさを感じるところはあるけど、そのぶん登場人物の小話というか、特徴ある姿や行動に費やされるのは観ていて楽しい。 しかし、シリーズ後半になると、さすがに人物描写だけではもたないのだろうか、シリーズ後半になればなるほど、次郎長一家としての集団に焦点があたる。集団として、次郎長一家の性格が描かれている。そのぶん個人の特徴や逸話は語られなくなるのが惜しいところではあるけれど。 ひとつおもしろいところを発見したのだけど、戦闘の場面の悠長な次郎長一家ほどおもしろいものはない。 歌を歌うところもそうだし、相手に油断させるよう馬鹿をするところもそうなのだが、今回のチャンバラは映画とはいえ、完全な虚構としての戦闘になっていた。集団として押しまくる、かと思えば、農民たちをなだめるために引いてきてお詫びをいう。敵が寄せたらまた押しまくる。 戦闘のリアリズムならそんな暇はない、敵を全滅させるか退散させてから農民との話にくる。虚構としての戦闘なら、それを同時に行う。敵を追い詰め、農民との交渉で引く、敵がまたやってきたら戦う。 その虚構としての戦闘が、ドラマを盛り上げていることは間違いない。ふたつのモメントをひとつにまとめ、同時にこなすことで、場面全体のダレがない。

次郎長三国志8 海道一の暴れん坊

第8部のクライマックスにやってきた。この回は、石松の死という、次郎長の物語のピークを迎える。 石松の死は、廣澤虎造の浪曲で何度も聞いてはいたが、虎造の語りで描かれる石松の壮絶な死とは違って、マキノ監督のそれは叙情的な側面があった。 石松と小政のそれぞれの恋が、このクライマックスの性格を印象付けた。 石松も小政も、すぐそばに恋する人がいないところでのやりとり。いわば、恋人のイメージが二人を包む。小政の恋人「お藤」は姿さえ現わさないし、石松の恋する「夕顔」は、石松が別れを告げてから、イメージが増大する。 たとえば、石松の死の場面で、仮に石松でなく七五郎が死んだとしたら、愛する女房お園が傍にいるので、七五郎の死は悲劇性を帯びたであろう。 石松の死は、恋し恋される夕顔が傍らにいないので、夕顔の花のそばで死ぬという抒情性を帯び、石松も夕顔を思い浮かべながら死んだであろうことは想像がつく。 次郎長一家の死人のうち、豚松やお蝶の死は、まさしく悲劇であった。そして、暗かった。石松の死は、画面は暗くても、希望の見えるものであったし、美しかった。 これは、死を美化することなので、人間の真実をとらえているとはいえないだろう。しかし、豚松やお蝶の死の、あの暗く救いのない描写よりも、石松の死の描写の方が好感持てるのはなぜであろうか。 人の死に意味をつけるのが人間である。石松の死のあとの、あの開放的な浜辺で次郎長一家が走り出し、おそらく石松の仇を討ちにいく姿の方が、何倍も心をとらえるものである。 さて、全体として、また軽いタッチのマキノ節に戻っているところが楽しかった。旅の遠景の演出もさすがで、前回は屋内の戦闘を褒めたけども、今回は屋外の旅姿におもしろみをみつけた。 第3部だったか、石松と三五郎とお仲の出てくる旅の場面でもそうだったが、遠景からアップに来ないところがよい。遠景の人物がてくてく歩いていくと、アップしてその人の説明をしたいところだが、遠景は遠景で人物描写をする。だから体の動きや振り付けの演出が大事になる。遠景でどんな人かが分かれば、アップしてそれを拡大する必要はない。アップの場面は、また次の描写をすればいいわけだ。 また最後に、森繁久彌の石松の演技は、渥美清の演技に似ている。渥美清が森繁の演技を勉強していたことがわかる。そして石松は森繁の名演といえる

次郎長三国志7 初祝い清水港

第7部は、清水に戻ってきている次郎長一家である。やはり、旅よりも、家に構えているときのほうが、子分達の自由度も高い。 そして、圧倒的に、野外よりも屋内のほうが、おもしろい場面が多い。しかも屋内でのチャンバラの撮り方がうまいのではないだろうか。屋内から屋外へ飛び出す時の開放感も手伝って、なかなか躍動的になる。 保下田の久六が次郎長一家の家に押し寄せる場面も、できる限り、中へ中へ敵を呼び込み、そこからあふれ出すかのような勢いでチャンバラをしかける。そんな「タメ」がおもしろいものである。 第6部のチャンバラも、屋外で数人が敵の侵入を防ぎ「タメ」を作っていると、屋内から次郎長一家がものすごい勢いで出てくる。 このあふれ出す躍動感がチャンバラの魅力でもあり、また、マキノ雅弘の得意とした手法であり、次郎長一家の特徴でもあるのではないか。 しかも、お蝶の死後百日までは、ずっと復讐も我慢してきた。その我慢が勢いとなってあふれだすというドラマトゥルギーもある。 言ってみれば、休み時間が待ち遠しくて、我慢していたこどもが、ものすごい勢いで校庭にでるかのようだ。こうした「抑えられていたこども」、これが次郎長一家の特徴であるかのようだ。 しかも、こんなチャンバラのときは、味方が多いほうが頼もしいし、わくわくするものだ。なので、投げ櫛のお仲も、お園も槍をもって参戦する。しかも強い。このハチャメチャさが魅力でもある。 今回は、前半のドラマはくどすぎるところがあったが、後半の喧嘩いたるドラマは秀逸なもであった。 そして傑作なのは、フグにあたったという噂を流しておいて、しかも保下田の久六一味を家の中まで侵入させ、あげくのはてには久六をフグと罵り、しかも自分たちはフグの中毒にかかった演技までしてみせて、相手の油断を誘った場面だった。 敵は刀を持って、今にも切り込みにかかろうとしていたのに、次郎長一家はフグ中毒でしびれてフグ踊りをしていたのだ。みんな大げさに痙攣していた。こんな楽しさ、めちゃくちゃなチャンバラはない。 案の定、フグ踊りは演技で、今まで我慢してきた次郎長一家の活力は、凄まじい勢いで解き放たれるのであった。

次郎長三国志6 旅がらす次郎長一家

第6部まできた。 次郎長一家が、殺害の件で、当局から逃げ回っているという状況である。 ものすごく暗い、湿った雰囲気のなかで映画は始まるのだが、この基調がすべてを重くしてしまったように思える。今回の6部は、暗く重い。 映画の始まりは、演劇ほどの重要性はないにしても、大事なものである。演劇よりも、始め方に可能性があるのは確かである。 今回の重々しい始まり方では、作品全体が暗くなってしまう。おちゃらけた場面があったとしても、そんな場面もすべてお蝶の死に収束されていく。 もし、この回の始まりが、明るく楽しめる始まり方だったとしたら、終わり方と同質のものとなり、まとまりがついていたであろう。もしくは、明るく始まらなくても、次第に明るくなっていったとすれば。 何が暗いかといえば、まず画面。暗過ぎて表情が見えない。また雰囲気が沈んで湿っぽ過ぎて、それ以上の涙の場面はくどすぎる。情緒芝居にしか見えない。 鬼吉が両親に金を借りに行く場面のカラっとした雰囲気こそ、作品のはじめに必要だったと思う。あの場面は喜劇と涙が乾燥した空気のなかで調和したような、優れた場面だった。 保下田の久六の登場も、悪役と信じさせない性格づけがなされており、それがこの場面の明確な輪郭を作っていた。 小松村の七五郎とお園の場面は、そんな沈んだ雰囲気を払しょくしようと軽く粋なものに見せようとしたのだろう。お園の演技は軽妙で、おかしいものではあったが、ひとり芝居に思える部分も多くあった。声がひとりごとの調子であったので、複数の人との芝居の場面では、有機的にからんでいなかった。 シリーズもここまでくると、試行錯誤を繰り返すのであろう。新しい要素もいれなければならない。 「男はつらいよ」の連作6作目ぐらいから変化を見せているのと同じである。製作側もマンネリはつらいのかもな。

次郎長三国志5 殴込み甲州路

なんかライフワークならぬ、ウィークワークらしくなっている次郎長三国志の日記だけど、ここまで続けたなら、終わりまで続けてやろうといった、義理じゃないが意気込みがあって第5部、甲州の喧嘩の回の報告、報告だな、をいたします。 今回の鑑賞はお酒も入っていたのだが、それにふさわしく、次郎長一家も祭りでにぎやかになり、酒もたらふく含んでいた、そんな雰囲気であった。 次郎長の義兄弟の親分が入ってきて、祭りの雰囲気が一変し、甲州のやくざとの関係が険悪になったことを報告する時、次郎長も久しぶりの酒を含んでいたのだが、観ているこちらも酒の酔いを抑え、きちんと酔いを醒まさねばという気持ちになった。 祭り、酒、そして純情なほどの師弟愛、純粋な恋。これらが次郎長一家に脈々と流れる血である。なんかどす黒い卑しい血なんてこの世に存在しないかのようにふるまう次郎長一家は、たしかに美化されてはいるだろう。 しかし、次郎長一家にあって、他の敵役に無いのは歌である。次郎長一家はとにかく歌を歌う。旅の道中歌としてとにかく歌う。そしてやっぱり歌ったほうが勝ちである。もちろん敵役は憎しみや陰謀の色で描かれる。それに対して、主人公一家は歌で描かれる。 歌を歌ったほうが勝ちなのだ。憎しみは歌にはかなわない。そういった意味で次郎長一家は歌を味方につけている限り、負けはしない。喧嘩にも、人間的にも。 今回は、新たな登場人物としては大野の鶴吉だが、役者の技量と演出の妙で、ああ、この人は害のない人だな、というか次郎長一家に入ってしまう人だなと感じさせるものであった。 他の登場人物の新たな性格付けもなく、次郎長の子分に関しては、なんの目新しさはなかった。これは脚本の次元だろう。 唯一目新しい性格の発見は、次郎長の妻のお蝶であろう。そして、この回の影の主人公はお蝶といっていいかもしれない。 お蝶が甲州まで駆け付けたことが、驚きなことではある。それに至るお蝶の心理をきちんと描いている。 同時に、投げ櫛のお仲の心理も分かって、しかも最後、お仲との別れは何のきなしの、音楽の途中にさらりと挿入されるところがにくいところではある。 さすがに上演時間などの尺の長さを気にしていたふしがあるにせよ、さらりとお仲が消えてなくなるところに、余韻が残る結果となったわけだ。 さて、今回は、個々の登場人物はお蝶意外

次郎長三国志4 勢揃い清水港

次郎長日記も第4まで続きました。前の回に増して感じられるのが、シリーズ化としての一本の物語性。そのぶんひとつひとつのエピソードが薄められていくのは残念でもある。 また、関東綱五郎、増川仙右衛門、桶屋の鬼吉あたりは影が薄くなっている。シリーズ1、2で十分活躍したのだが、4までくると登場人物も増え過ぎて、ある程度簡略化しなければいけない。これらの子分は、あまり特徴あるようには描かれない。 前回も書いたが、コンビというものはおもしろい。石松と追分三五郎のコンビ、桶屋の鬼吉と関東綱五郎。この間抜けなコンビの珍事件がおもしろおかしいのである。 なんでなのだろうか。 二人で一人の女に惚れる基本パターンはある。しかも二人はそのお互いがいて初めて生き生きする。相互に補完し合うところをしながら、ひとつの人格かのようでもある。 石松がどもると、三五郎が代わりに説明してやる。そんなところに友情でも生まれるのだろうか。今回は特に石松と三五郎の友情がクローズアップされていた。 清水の次郎長が勢力を大きくしていく様子が描かれている。そんな暗示などがあるために、物語は継続性を帯びて、次に起こる大きな事件の予感が感じられる。 事件が起こっているときの登場人物の描写を特長持って描くのは難しい。今回の立ち回りは見事ではあるけど、石松や張り子の虎造の珍事件ほどの人間らしさは感じない。 今回もおもしろくはあるのだけど、物語や事件の筋だけが立ちすぎると、印象は弱まるものかもしれない。かえって、筋が進まないほどはみ出た人物描写のほうが楽しいものだ。 そういった意味で加東大介演じる豚松のエピソードが、今回の秀逸な場面といえよう。相撲の場面で、豚松が力士に勝たなければ脚本は成り立たないと思っていたが、ああいったおもしろい演出で豚松が勝利を納めるとは思わなかった。 役者の力量もあるが、場の雰囲気と、豚松の動き、力士の余裕の様子を含めて、すべての演出がおもしろく回転したところであったと思う。

次郎長三国志3 次郎長と石松

清水の次郎長における社会学や、やくざについてはあまり興味がないので、ここでは話さない。語り口が楽しいのはなぜかというところにしか興味がないようだ。 映画の輝きというか、わくわくさせるような要素ってのは何なのかということをどうしても知りたい。 今日の映画は、石松と追分三五郎の、投櫛のお仲への恋物語が主だった。 二人が知り合ったばかりとはいえ、何だか知らない友情を結ぶ所が大きな意味があるのだろう。言ってみれば「でこぼこのコンビ」なのだ。石松は純情で馬鹿正直な小さい男。追分三五郎は美男で背の高い、いい男。この二人がいつのまにか同じ女に惚れるところが面白い。 いわゆるキャラクターの違う二人が友情を結び、離れようとしても、ついつい離れられなくなる構図は、いくつかの映画によく見られる構図だ。 その二人がいろいろなおかしな事件を起こすのがおもしろいのだな。 また、一方、次郎長たちは博打を打っているところで捕まり、牢屋に入る。 その牢屋の中で、牢名主たちの序列と横暴に反乱を起こすのだが、考えてみればこれは、力で力を制するのであって、何も民主的ではない。大義名分は、病気の男に味方した次郎長たちにあるようだし、この映画を見る人も次郎長に加担するだろうが、権力闘争にすぎないともいえる。水戸黄門に味方するようなものだ。 そんな結末自体はおもしろいものでも何でもない。 しかし、次郎長たちが牢名主たちの横暴を、黙って素直に聞きれようとしている姿がいたずらっぽくておもしろい。ひとこと「清水の次郎長だ」といえば序列が変わってしまうところを、あえて自分が下で耐え忍んでいる。水戸黄門が素性を明かさないでおとなしくしている状態と同じだ。 そんな逆転というか、観ているお客さんは知っていて、次郎長たちが知っているけど、牢名主たちが知らない事実があるということがおもしろい。その半公然の秘密が、いつばれるかいつばらすかと引き延ばしするところが、娯楽のツボをつかんでいるのだろうな。 マキノ雅弘の演出の妙味は、今回は、お仲と石松の酒場での場面によくあらわれている。みな歌で終わるではないけれど、歌を歌いながら、恋をしている石松が駆けだしていくという演出は、決定的に正しい解決の仕方で、場面の情動と、登場人物の盛り上がりと、クライマックスが、最も鋭く描かれている場面といえよう。 きっとこれ

次郎長三国志2 次郎長初旅

第2作も見ました。次郎長三国志〜次郎長初旅。 とうとう出てきましたな、森繁久彌の森の石松。まあ器用な演技だね。昨日も書いたが軽さの演技。 新東宝だったっけ、社長シリーズなどでの森繁の演技は、おもしろく軽いんだけど、単なる軽薄に見えるが、ここでは違う。しっかりと物語の芯があるからだろうか。 増川仙右衛門も出てきたな。ここでのラブシーンも、マキノ節なんだろうな。体の小気味よい動きで心理を描く。二人の距離感と押し合い、引きあい、かわしあいをよく見てみると納得できる。素晴らしい。 きっと芝居の妙味をよく知っている人なんだろうな、マキノ雅弘って。それが軽妙にできているからおもしろい。恋愛悲劇ではこれらの動きはコテコテで、くどいものかもしれない。喜劇的な輪郭があるから軽妙に見えるのだろう。 それにしても、登場人物のチームがどんどん増えていくといった構造は、どうしてこうもおもしろいのだろう。行く先々で子分が増えること。 桃太郎の話だってそうだし、七人の侍だってそう。荒野の七人もそう。ハワード・ホークスの映画もそう。 仲間が増えるといった楽しみは、なぜかわくわくするものだ。 清水の次郎長も、まだまだ子分が増えていく。田中春男の法印大五郎も仲間になったし。 また明日が楽しみ