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4月, 2008の投稿を表示しています

高野長英

かつて、鎖国をした日本にも、海外からの知識や情報は入らざるをえず、また、明らかにそれらの知識の方が優れているときに、当時の知識人たちは日本と諸外国の違いに驚いた。黒船が実力行使で乱入するまでもなく、開国をすることは必然であったろう。 オランダからの書物は入手できたから、その洋本に接することのできた人間は、鎖国をする日本がもどかしかったに違いない。 高野長英もそんな中の一人で、彼はずばぬけた語学力があったようで、書物の翻訳に関しては一番であったらしい。現代のように情報があふれる世の中ではない。しかも鎖国中の日本である。接することのできる海外からの書物は限られるし、自分たちの未知の情報であるために、それを吸収するために理解力は大きく役立ったに違いない。 現代の風潮というまでもなく、いつの時代にも、どこの場所でも、ナショナリズムというものは発生するようだ。 鎖国をしていた幕府はもちろん、移民排斥の気運が高まったときの欧州も、最近の聖火リレーでの中国の国民感情もそうだ。 どうも、ナショナリズムというのは、自分らを持ち上げ擁護するだけでは物足りないらしく、他を排撃することも含まれているようだ。サッカーの試合で何も戦わなくってもいいし、戦争まで始めてしまう国もあるみたいだ。 高野長英は傲慢で攻撃的な人のようであったらしいが、彼の洋学にたいする尊敬と服従は確かなものであり、それは日本という枠組みを超えざるをえなかった。自分の国にかんする危機感から、彼の想像力は外へ向かっていった。保身をして身構えるのでなく、胸を開いて入ってくるものをとことん吸収しようとした。 また、アランが言っていたことだが、二流のピアニストが300人集まりくだらないおしゃべりと虚栄心があふれる会場に、ひとりの巨匠が入ってきただけで、熱狂的に賞賛する会場に様変わりするといったように、われわれは賞賛する機会を求めているだけなのかもしれない。 広く国際的に交流し理解し合うのをモットーとしている五輪が、かえって、ナショナリズムの発露と政治的なものの争いの場になってしまっているのは皮肉なことだが、底辺レベルでは、技術の吸収や多人種混合は当たり前のようになっている。野球やサッカーに限らず自転車レースも。 非常に暴力的な、非常に利己的なものを見るたびに思う。どんなところにもナショナリズムの萌芽は

技術とプロと

今日は床屋に行ってきたのだけど、いつもの親爺さんの愛想の好さがなく、どうもぎこちない様子だった。しかも、櫛を3,4度も落としたりして、いつもとは違うように思えた。彼の中に何があったのかは分からないが、おそらく精神的に何か負担になるようなことを抱えていたには違いない。 そんな様子ではあったが、ハサミさばきの技術はしっかりしたもので、そこに対しては不安を覚えることはなかった。身につけた技術の質は、そんなに簡単に落とせるものではない。 自転車に乗る技術、都心でうまく走る技術というものもあるので、どんなに気分がすぐれなくて流しながら都心を走っていても、一定の時間以上にかかることはない。これも随分と乗りなれた経験からだろう。 チベット問題の聖火リレーの妨害も問題となったが、マスメディアに映るぐらいの行動に出る人は、やはりそれなりの技術があるのだということも推測がつく。熱い思いで国を憂う人が映し出される場合と、妨害の先頭に立つ人の場合では、まったく別なことをしているようにしか思えない。市民運動の盛んな英仏の市民のデモと、そこで繰り返される一部の策略・行動は別種のものだ。どう見ても、火を盗もうとした人は、プロとは言わないまでも、ある一定の技術は持っている。 日本の調査捕鯨船の妨害と、この聖火リレーの妨害は同種のものであると思うのだが、どうであろうか?一方は、海賊船に乗り自らを名乗り出ていて、一方は市民に紛れている。どちらも、ある過激派の行動と言える。 オーストラリアの市民に捕鯨への批判が多いにしても、彼等は調査船を妨害することまではしないのだ。 豪では日本政府に対する風当たりも強いことは、中国政府にたいする世界の風当たりと同じ。 聖火リレーを妨害する側も、それを防ごうとする「青シャツ」も、チベット問題を拡大化しようとする諜報組織も、問題をなかったことにする中国政府も、すべて専門家による一種の諜略と捉えるのなら、ある意味で、民衆はいいように利用され、置き去りにされているように見えなくもない。聖火ランナーの一様に困惑した顔がとても印象的だ。 話はかわって、テレビで活躍するタレントにすら技術があり、たとえ海外でどれだけのエンターティナーであったとしても、日本のテレビに引っ張り出されると、ある一種の違和感を感じるものである。テレビ慣れしたスポーツ選手や弁護士など

タブー

少し前の事件だが、音楽家のダニエル・バレンボイムが2001年7月イスラエルで、R・ワーグナーの曲を初めて演奏したことで、論議を呼んだことがあった。イスラエルの国会はボイコットを促したという。ワーグナーはヒトラーの好んだ作曲家だったので、迫害を受けたユダヤ人の国家イスラエルとしては許せないということだろう。ちなみにバレンボイムの国籍はイスラエルである。 バレンボイム自体がイスラエル政府批判をしていることもあってか、この演奏行為も政治的なものと見るむきもあるのだが、そこに横たわる問題はそんな単純なものではない。 そもそも、ワーグナーの政治思想でワーグナーの音楽すべてを語ることは誤りだし、それをある特定の政治的なものに結びつけるのも誤りだという認識がある。 ナポレオン崇拝のベートーヴェンの音楽という捉え方など不可能だし、ナチス問題とフェルトヴェングラーの関連は彼の人生には密接でも、彼の芸術とはそんなに大きな関連がない。 そういったとしても、現にイスラエルではワーグナーの音楽は、一般には流通していても、公共の場での演奏はタブーとされていたらしい。 このタブーということが問題なのである。 日本にもさまざまなタブーがあり、それを侵犯すると色々な害悪が加えられる。言ってはいけないことというものが厳然と存在しているわけだ。それは、歴史的な禁忌であったり、経済的な損失の恐れから口をつぐんだり、または、危害を加えられることを恐れることでもある。 また、タブーがタブーとして一般化しすぎて、人の認識の上で問題視されなくなってしまうこともある。今さら語るに値しないという訳だ。 「タブー」 1、神聖(不浄)なものとして禁制されること。 2、その事に言及するとよくないということが、その社会や席で暗黙のうちに認められていること。 (新明解国語辞典より) 最近話題の映画も、そういったタブーに触れた理由で大騒動になっている。ほかにも、花になぞらえたさまざまな禁忌があり、それを避けるかのように報道がなされている。 何もタブーを破ることが勇気あるというわけでもないが、事実を隠ぺいするような蓋の役割をそれが持っているのなら、そのことによって多かれ少なかれ盲目にさせられているわけで、これは不利益になることだ。 同じように、ワーグナー作曲というだけで、素晴らしい曲を聞くこ

変わりゆく世界

今、中国のチベット問題が話題になっているが、少数民族の自立・独立は潜在的な問題なので、何かの拍子にふと湧き出て、沸騰する事態になることは、容易に想像できる。 欧米でのリレー妨害は、突端の過激な妨害をしたのは過激な活動家で、いわば、その道のプロであり、穏健な民衆とは種類が違う。 思えば、世界中でこういった問題を抱えていない場所はなく、日本でさえも、映画「靖国」をめぐる混乱においては、腫れものにふたをするような歴史が浮き彫りになった。 ときおりテレビで流されるどうでもいい映像、天皇一家のこと、なんて、非常に気持ち悪い統制のように思えて仕方がない。 冷戦後、世界の盟主的な立場になり、過激な国・組織を「懲罰」してきた、アメリカ合衆国でさえも、懐疑的、というより反省的な姿勢になっている。 少し前の枠組みや思考方法さえも、変転していくもので、思えばここ10年に限っても、普段よく見る外国人の態度などに変化が見られる。 さまざまな問題をかかえ、変化していく世界。その変化を敏感に感じ取ること。 真山青果の『玄朴と長英』は江戸後期の、そういった世界の中で格闘した人間の物語に思える。突如この作品に触れたのには訳があるが、今は言わない。 変動する世界で人間どう生きていくか、これは昔も今も変わらない。 そういった視点で、物語を読むという方法もある。 変わっていく世界と向き合う現代的なもの、それを追及したい。