少し前の事件だが、音楽家のダニエル・バレンボイムが2001年7月イスラエルで、R・ワーグナーの曲を初めて演奏したことで、論議を呼んだことがあった。イスラエルの国会はボイコットを促したという。ワーグナーはヒトラーの好んだ作曲家だったので、迫害を受けたユダヤ人の国家イスラエルとしては許せないということだろう。ちなみにバレンボイムの国籍はイスラエルである。
バレンボイム自体がイスラエル政府批判をしていることもあってか、この演奏行為も政治的なものと見るむきもあるのだが、そこに横たわる問題はそんな単純なものではない。
そもそも、ワーグナーの政治思想でワーグナーの音楽すべてを語ることは誤りだし、それをある特定の政治的なものに結びつけるのも誤りだという認識がある。
ナポレオン崇拝のベートーヴェンの音楽という捉え方など不可能だし、ナチス問題とフェルトヴェングラーの関連は彼の人生には密接でも、彼の芸術とはそんなに大きな関連がない。
そういったとしても、現にイスラエルではワーグナーの音楽は、一般には流通していても、公共の場での演奏はタブーとされていたらしい。
このタブーということが問題なのである。
日本にもさまざまなタブーがあり、それを侵犯すると色々な害悪が加えられる。言ってはいけないことというものが厳然と存在しているわけだ。それは、歴史的な禁忌であったり、経済的な損失の恐れから口をつぐんだり、または、危害を加えられることを恐れることでもある。
また、タブーがタブーとして一般化しすぎて、人の認識の上で問題視されなくなってしまうこともある。今さら語るに値しないという訳だ。
「タブー」
1、神聖(不浄)なものとして禁制されること。
2、その事に言及するとよくないということが、その社会や席で暗黙のうちに認められていること。
(新明解国語辞典より)
最近話題の映画も、そういったタブーに触れた理由で大騒動になっている。ほかにも、花になぞらえたさまざまな禁忌があり、それを避けるかのように報道がなされている。
何もタブーを破ることが勇気あるというわけでもないが、事実を隠ぺいするような蓋の役割をそれが持っているのなら、そのことによって多かれ少なかれ盲目にさせられているわけで、これは不利益になることだ。
同じように、ワーグナー作曲というだけで、素晴らしい曲を聞くことができないのもイスラエル国民にとって不利益であろう。
E・サイードはこう言っている。
「人生は批判精神や解放体験を打ちのめそうとするタブーや禁止事項によって支配されるものではない。この心構えは、常に第一に掲げるだけの意義がある。知らないでいることや知ろうとしないことが、現在の道を切り開くことはないのである。」(「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」《ル・モンド・ディプロマティクより》 サイード)
そう、タブーを恐れないという心構えを第一に掲げないと、問題を忘れていくものなのである。
フランスでも、アルジェリア問題は教科書で簡単に触れられるだけらしい。
日本の近代史も論議が多いという理由で触れられずにおくと、次第に問題を問題と思わなくなってしまう。菊タブーは風化しかかっている。
芸術は、政治的・社会的な問題を取り上げる必要はないと思うが、人間の問題、人間というものへの問いかけは、タブーを乗り越えてでも探っていく必要があると思う。
たとえば演劇はそこにほとんどの力を降り注ぐべき芸術だと思っている。週末の娯楽としてだけでなく、笑わせ集客するだけでなく。
バレンボイム自体がイスラエル政府批判をしていることもあってか、この演奏行為も政治的なものと見るむきもあるのだが、そこに横たわる問題はそんな単純なものではない。
そもそも、ワーグナーの政治思想でワーグナーの音楽すべてを語ることは誤りだし、それをある特定の政治的なものに結びつけるのも誤りだという認識がある。
ナポレオン崇拝のベートーヴェンの音楽という捉え方など不可能だし、ナチス問題とフェルトヴェングラーの関連は彼の人生には密接でも、彼の芸術とはそんなに大きな関連がない。
そういったとしても、現にイスラエルではワーグナーの音楽は、一般には流通していても、公共の場での演奏はタブーとされていたらしい。
このタブーということが問題なのである。
日本にもさまざまなタブーがあり、それを侵犯すると色々な害悪が加えられる。言ってはいけないことというものが厳然と存在しているわけだ。それは、歴史的な禁忌であったり、経済的な損失の恐れから口をつぐんだり、または、危害を加えられることを恐れることでもある。
また、タブーがタブーとして一般化しすぎて、人の認識の上で問題視されなくなってしまうこともある。今さら語るに値しないという訳だ。
「タブー」
1、神聖(不浄)なものとして禁制されること。
2、その事に言及するとよくないということが、その社会や席で暗黙のうちに認められていること。
(新明解国語辞典より)
最近話題の映画も、そういったタブーに触れた理由で大騒動になっている。ほかにも、花になぞらえたさまざまな禁忌があり、それを避けるかのように報道がなされている。
何もタブーを破ることが勇気あるというわけでもないが、事実を隠ぺいするような蓋の役割をそれが持っているのなら、そのことによって多かれ少なかれ盲目にさせられているわけで、これは不利益になることだ。
同じように、ワーグナー作曲というだけで、素晴らしい曲を聞くことができないのもイスラエル国民にとって不利益であろう。
E・サイードはこう言っている。
「人生は批判精神や解放体験を打ちのめそうとするタブーや禁止事項によって支配されるものではない。この心構えは、常に第一に掲げるだけの意義がある。知らないでいることや知ろうとしないことが、現在の道を切り開くことはないのである。」(「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」《ル・モンド・ディプロマティクより》 サイード)
そう、タブーを恐れないという心構えを第一に掲げないと、問題を忘れていくものなのである。
フランスでも、アルジェリア問題は教科書で簡単に触れられるだけらしい。
日本の近代史も論議が多いという理由で触れられずにおくと、次第に問題を問題と思わなくなってしまう。菊タブーは風化しかかっている。
芸術は、政治的・社会的な問題を取り上げる必要はないと思うが、人間の問題、人間というものへの問いかけは、タブーを乗り越えてでも探っていく必要があると思う。
たとえば演劇はそこにほとんどの力を降り注ぐべき芸術だと思っている。週末の娯楽としてだけでなく、笑わせ集客するだけでなく。
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