かつて、鎖国をした日本にも、海外からの知識や情報は入らざるをえず、また、明らかにそれらの知識の方が優れているときに、当時の知識人たちは日本と諸外国の違いに驚いた。黒船が実力行使で乱入するまでもなく、開国をすることは必然であったろう。
オランダからの書物は入手できたから、その洋本に接することのできた人間は、鎖国をする日本がもどかしかったに違いない。
高野長英もそんな中の一人で、彼はずばぬけた語学力があったようで、書物の翻訳に関しては一番であったらしい。現代のように情報があふれる世の中ではない。しかも鎖国中の日本である。接することのできる海外からの書物は限られるし、自分たちの未知の情報であるために、それを吸収するために理解力は大きく役立ったに違いない。
現代の風潮というまでもなく、いつの時代にも、どこの場所でも、ナショナリズムというものは発生するようだ。
鎖国をしていた幕府はもちろん、移民排斥の気運が高まったときの欧州も、最近の聖火リレーでの中国の国民感情もそうだ。
どうも、ナショナリズムというのは、自分らを持ち上げ擁護するだけでは物足りないらしく、他を排撃することも含まれているようだ。サッカーの試合で何も戦わなくってもいいし、戦争まで始めてしまう国もあるみたいだ。
高野長英は傲慢で攻撃的な人のようであったらしいが、彼の洋学にたいする尊敬と服従は確かなものであり、それは日本という枠組みを超えざるをえなかった。自分の国にかんする危機感から、彼の想像力は外へ向かっていった。保身をして身構えるのでなく、胸を開いて入ってくるものをとことん吸収しようとした。
また、アランが言っていたことだが、二流のピアニストが300人集まりくだらないおしゃべりと虚栄心があふれる会場に、ひとりの巨匠が入ってきただけで、熱狂的に賞賛する会場に様変わりするといったように、われわれは賞賛する機会を求めているだけなのかもしれない。
広く国際的に交流し理解し合うのをモットーとしている五輪が、かえって、ナショナリズムの発露と政治的なものの争いの場になってしまっているのは皮肉なことだが、底辺レベルでは、技術の吸収や多人種混合は当たり前のようになっている。野球やサッカーに限らず自転車レースも。
非常に暴力的な、非常に利己的なものを見るたびに思う。どんなところにもナショナリズムの萌芽はあるのだ、そこで身構えて戦うか、他の人間や国にたいする尊敬をもって、胸を開いて、それを受け入れる度胸をもつか、それが分かれ目のような気がする。
高野長英にも矛盾はある。しかし、彼の、一冊の書物に対する尊敬のエピソードを聞くと心がうたれる。自分はまだ何ものでもない、もっと勉強して、もっと役立つような人間にならなければという姿勢である。
自分の城を持った気がして、また、何の根拠もなく徒党を組んで戦うのも容易である。しかし、外からのもの・他の人間に対し尊敬を払うことを覚えなくては、いつまでも鎖国の状態のままだ。
高野長英は開かぬものをこじあけたわけではなく、開きかけた先に見えるものに魅了され、それを求めたに違いない。そこにあるのは尊敬や崇拝の念である。そして腕力を使わずにそれを求めた。
長英は政治犯で長年牢屋暮らしをしていたのもあり、絶望的な現世の先に見える希望や偉大なものに魅かれ続けたのかもしれない。
オランダからの書物は入手できたから、その洋本に接することのできた人間は、鎖国をする日本がもどかしかったに違いない。
高野長英もそんな中の一人で、彼はずばぬけた語学力があったようで、書物の翻訳に関しては一番であったらしい。現代のように情報があふれる世の中ではない。しかも鎖国中の日本である。接することのできる海外からの書物は限られるし、自分たちの未知の情報であるために、それを吸収するために理解力は大きく役立ったに違いない。
現代の風潮というまでもなく、いつの時代にも、どこの場所でも、ナショナリズムというものは発生するようだ。
鎖国をしていた幕府はもちろん、移民排斥の気運が高まったときの欧州も、最近の聖火リレーでの中国の国民感情もそうだ。
どうも、ナショナリズムというのは、自分らを持ち上げ擁護するだけでは物足りないらしく、他を排撃することも含まれているようだ。サッカーの試合で何も戦わなくってもいいし、戦争まで始めてしまう国もあるみたいだ。
高野長英は傲慢で攻撃的な人のようであったらしいが、彼の洋学にたいする尊敬と服従は確かなものであり、それは日本という枠組みを超えざるをえなかった。自分の国にかんする危機感から、彼の想像力は外へ向かっていった。保身をして身構えるのでなく、胸を開いて入ってくるものをとことん吸収しようとした。
また、アランが言っていたことだが、二流のピアニストが300人集まりくだらないおしゃべりと虚栄心があふれる会場に、ひとりの巨匠が入ってきただけで、熱狂的に賞賛する会場に様変わりするといったように、われわれは賞賛する機会を求めているだけなのかもしれない。
広く国際的に交流し理解し合うのをモットーとしている五輪が、かえって、ナショナリズムの発露と政治的なものの争いの場になってしまっているのは皮肉なことだが、底辺レベルでは、技術の吸収や多人種混合は当たり前のようになっている。野球やサッカーに限らず自転車レースも。
非常に暴力的な、非常に利己的なものを見るたびに思う。どんなところにもナショナリズムの萌芽はあるのだ、そこで身構えて戦うか、他の人間や国にたいする尊敬をもって、胸を開いて、それを受け入れる度胸をもつか、それが分かれ目のような気がする。
高野長英にも矛盾はある。しかし、彼の、一冊の書物に対する尊敬のエピソードを聞くと心がうたれる。自分はまだ何ものでもない、もっと勉強して、もっと役立つような人間にならなければという姿勢である。
自分の城を持った気がして、また、何の根拠もなく徒党を組んで戦うのも容易である。しかし、外からのもの・他の人間に対し尊敬を払うことを覚えなくては、いつまでも鎖国の状態のままだ。
高野長英は開かぬものをこじあけたわけではなく、開きかけた先に見えるものに魅了され、それを求めたに違いない。そこにあるのは尊敬や崇拝の念である。そして腕力を使わずにそれを求めた。
長英は政治犯で長年牢屋暮らしをしていたのもあり、絶望的な現世の先に見える希望や偉大なものに魅かれ続けたのかもしれない。
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