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次郎長三国志9 荒神山

とうとう次郎長三国志の最終部となってしまった。次郎長の物語は、石松が死んだ時点でひとつの終着点だと思うが、石松の仇ということで、都鳥三兄弟を討ちに行く。 思っていた以上に、ドラマは面白かった。しかし、新しい要素を入れなければならなく、吉良の仁吉が登場してくる。吉良の仁吉は魅力的な人物像が描かれていたが、その話しを推し進めるには、また何本もの映画が必要かもしれない。それが、このシリーズが終わりになった理由かもしれない。区切りのいいところで。 仇討ちとなると、怨念のたまった暗い暴力的なものと想像しがちだが、それを裏切ってくれるところが面白い。 やはり次郎長一家には、喧嘩の際でも歌が必要なのだ。そして、ワッショイワッショイの掛け声が必要なのだ。その活気が仇討を明るいものとしてくれる。 農民の誤解を解くところに話が費やされていて、なかなか進まないところにもどかしさを感じるところはあるけど、そのぶん登場人物の小話というか、特徴ある姿や行動に費やされるのは観ていて楽しい。 しかし、シリーズ後半になると、さすがに人物描写だけではもたないのだろうか、シリーズ後半になればなるほど、次郎長一家としての集団に焦点があたる。集団として、次郎長一家の性格が描かれている。そのぶん個人の特徴や逸話は語られなくなるのが惜しいところではあるけれど。 ひとつおもしろいところを発見したのだけど、戦闘の場面の悠長な次郎長一家ほどおもしろいものはない。 歌を歌うところもそうだし、相手に油断させるよう馬鹿をするところもそうなのだが、今回のチャンバラは映画とはいえ、完全な虚構としての戦闘になっていた。集団として押しまくる、かと思えば、農民たちをなだめるために引いてきてお詫びをいう。敵が寄せたらまた押しまくる。 戦闘のリアリズムならそんな暇はない、敵を全滅させるか退散させてから農民との話にくる。虚構としての戦闘なら、それを同時に行う。敵を追い詰め、農民との交渉で引く、敵がまたやってきたら戦う。 その虚構としての戦闘が、ドラマを盛り上げていることは間違いない。ふたつのモメントをひとつにまとめ、同時にこなすことで、場面全体のダレがない。

次郎長三国志8 海道一の暴れん坊

第8部のクライマックスにやってきた。この回は、石松の死という、次郎長の物語のピークを迎える。 石松の死は、廣澤虎造の浪曲で何度も聞いてはいたが、虎造の語りで描かれる石松の壮絶な死とは違って、マキノ監督のそれは叙情的な側面があった。 石松と小政のそれぞれの恋が、このクライマックスの性格を印象付けた。 石松も小政も、すぐそばに恋する人がいないところでのやりとり。いわば、恋人のイメージが二人を包む。小政の恋人「お藤」は姿さえ現わさないし、石松の恋する「夕顔」は、石松が別れを告げてから、イメージが増大する。 たとえば、石松の死の場面で、仮に石松でなく七五郎が死んだとしたら、愛する女房お園が傍にいるので、七五郎の死は悲劇性を帯びたであろう。 石松の死は、恋し恋される夕顔が傍らにいないので、夕顔の花のそばで死ぬという抒情性を帯び、石松も夕顔を思い浮かべながら死んだであろうことは想像がつく。 次郎長一家の死人のうち、豚松やお蝶の死は、まさしく悲劇であった。そして、暗かった。石松の死は、画面は暗くても、希望の見えるものであったし、美しかった。 これは、死を美化することなので、人間の真実をとらえているとはいえないだろう。しかし、豚松やお蝶の死の、あの暗く救いのない描写よりも、石松の死の描写の方が好感持てるのはなぜであろうか。 人の死に意味をつけるのが人間である。石松の死のあとの、あの開放的な浜辺で次郎長一家が走り出し、おそらく石松の仇を討ちにいく姿の方が、何倍も心をとらえるものである。 さて、全体として、また軽いタッチのマキノ節に戻っているところが楽しかった。旅の遠景の演出もさすがで、前回は屋内の戦闘を褒めたけども、今回は屋外の旅姿におもしろみをみつけた。 第3部だったか、石松と三五郎とお仲の出てくる旅の場面でもそうだったが、遠景からアップに来ないところがよい。遠景の人物がてくてく歩いていくと、アップしてその人の説明をしたいところだが、遠景は遠景で人物描写をする。だから体の動きや振り付けの演出が大事になる。遠景でどんな人かが分かれば、アップしてそれを拡大する必要はない。アップの場面は、また次の描写をすればいいわけだ。 また最後に、森繁久彌の石松の演技は、渥美清の演技に似ている。渥美清が森繁の演技を勉強していたことがわかる。そして石松は森繁の名演といえる...

次郎長三国志7 初祝い清水港

第7部は、清水に戻ってきている次郎長一家である。やはり、旅よりも、家に構えているときのほうが、子分達の自由度も高い。 そして、圧倒的に、野外よりも屋内のほうが、おもしろい場面が多い。しかも屋内でのチャンバラの撮り方がうまいのではないだろうか。屋内から屋外へ飛び出す時の開放感も手伝って、なかなか躍動的になる。 保下田の久六が次郎長一家の家に押し寄せる場面も、できる限り、中へ中へ敵を呼び込み、そこからあふれ出すかのような勢いでチャンバラをしかける。そんな「タメ」がおもしろいものである。 第6部のチャンバラも、屋外で数人が敵の侵入を防ぎ「タメ」を作っていると、屋内から次郎長一家がものすごい勢いで出てくる。 このあふれ出す躍動感がチャンバラの魅力でもあり、また、マキノ雅弘の得意とした手法であり、次郎長一家の特徴でもあるのではないか。 しかも、お蝶の死後百日までは、ずっと復讐も我慢してきた。その我慢が勢いとなってあふれだすというドラマトゥルギーもある。 言ってみれば、休み時間が待ち遠しくて、我慢していたこどもが、ものすごい勢いで校庭にでるかのようだ。こうした「抑えられていたこども」、これが次郎長一家の特徴であるかのようだ。 しかも、こんなチャンバラのときは、味方が多いほうが頼もしいし、わくわくするものだ。なので、投げ櫛のお仲も、お園も槍をもって参戦する。しかも強い。このハチャメチャさが魅力でもある。 今回は、前半のドラマはくどすぎるところがあったが、後半の喧嘩いたるドラマは秀逸なもであった。 そして傑作なのは、フグにあたったという噂を流しておいて、しかも保下田の久六一味を家の中まで侵入させ、あげくのはてには久六をフグと罵り、しかも自分たちはフグの中毒にかかった演技までしてみせて、相手の油断を誘った場面だった。 敵は刀を持って、今にも切り込みにかかろうとしていたのに、次郎長一家はフグ中毒でしびれてフグ踊りをしていたのだ。みんな大げさに痙攣していた。こんな楽しさ、めちゃくちゃなチャンバラはない。 案の定、フグ踊りは演技で、今まで我慢してきた次郎長一家の活力は、凄まじい勢いで解き放たれるのであった。

次郎長三国志6 旅がらす次郎長一家

第6部まできた。 次郎長一家が、殺害の件で、当局から逃げ回っているという状況である。 ものすごく暗い、湿った雰囲気のなかで映画は始まるのだが、この基調がすべてを重くしてしまったように思える。今回の6部は、暗く重い。 映画の始まりは、演劇ほどの重要性はないにしても、大事なものである。演劇よりも、始め方に可能性があるのは確かである。 今回の重々しい始まり方では、作品全体が暗くなってしまう。おちゃらけた場面があったとしても、そんな場面もすべてお蝶の死に収束されていく。 もし、この回の始まりが、明るく楽しめる始まり方だったとしたら、終わり方と同質のものとなり、まとまりがついていたであろう。もしくは、明るく始まらなくても、次第に明るくなっていったとすれば。 何が暗いかといえば、まず画面。暗過ぎて表情が見えない。また雰囲気が沈んで湿っぽ過ぎて、それ以上の涙の場面はくどすぎる。情緒芝居にしか見えない。 鬼吉が両親に金を借りに行く場面のカラっとした雰囲気こそ、作品のはじめに必要だったと思う。あの場面は喜劇と涙が乾燥した空気のなかで調和したような、優れた場面だった。 保下田の久六の登場も、悪役と信じさせない性格づけがなされており、それがこの場面の明確な輪郭を作っていた。 小松村の七五郎とお園の場面は、そんな沈んだ雰囲気を払しょくしようと軽く粋なものに見せようとしたのだろう。お園の演技は軽妙で、おかしいものではあったが、ひとり芝居に思える部分も多くあった。声がひとりごとの調子であったので、複数の人との芝居の場面では、有機的にからんでいなかった。 シリーズもここまでくると、試行錯誤を繰り返すのであろう。新しい要素もいれなければならない。 「男はつらいよ」の連作6作目ぐらいから変化を見せているのと同じである。製作側もマンネリはつらいのかもな。

次郎長三国志5 殴込み甲州路

なんかライフワークならぬ、ウィークワークらしくなっている次郎長三国志の日記だけど、ここまで続けたなら、終わりまで続けてやろうといった、義理じゃないが意気込みがあって第5部、甲州の喧嘩の回の報告、報告だな、をいたします。 今回の鑑賞はお酒も入っていたのだが、それにふさわしく、次郎長一家も祭りでにぎやかになり、酒もたらふく含んでいた、そんな雰囲気であった。 次郎長の義兄弟の親分が入ってきて、祭りの雰囲気が一変し、甲州のやくざとの関係が険悪になったことを報告する時、次郎長も久しぶりの酒を含んでいたのだが、観ているこちらも酒の酔いを抑え、きちんと酔いを醒まさねばという気持ちになった。 祭り、酒、そして純情なほどの師弟愛、純粋な恋。これらが次郎長一家に脈々と流れる血である。なんかどす黒い卑しい血なんてこの世に存在しないかのようにふるまう次郎長一家は、たしかに美化されてはいるだろう。 しかし、次郎長一家にあって、他の敵役に無いのは歌である。次郎長一家はとにかく歌を歌う。旅の道中歌としてとにかく歌う。そしてやっぱり歌ったほうが勝ちである。もちろん敵役は憎しみや陰謀の色で描かれる。それに対して、主人公一家は歌で描かれる。 歌を歌ったほうが勝ちなのだ。憎しみは歌にはかなわない。そういった意味で次郎長一家は歌を味方につけている限り、負けはしない。喧嘩にも、人間的にも。 今回は、新たな登場人物としては大野の鶴吉だが、役者の技量と演出の妙で、ああ、この人は害のない人だな、というか次郎長一家に入ってしまう人だなと感じさせるものであった。 他の登場人物の新たな性格付けもなく、次郎長の子分に関しては、なんの目新しさはなかった。これは脚本の次元だろう。 唯一目新しい性格の発見は、次郎長の妻のお蝶であろう。そして、この回の影の主人公はお蝶といっていいかもしれない。 お蝶が甲州まで駆け付けたことが、驚きなことではある。それに至るお蝶の心理をきちんと描いている。 同時に、投げ櫛のお仲の心理も分かって、しかも最後、お仲との別れは何のきなしの、音楽の途中にさらりと挿入されるところがにくいところではある。 さすがに上演時間などの尺の長さを気にしていたふしがあるにせよ、さらりとお仲が消えてなくなるところに、余韻が残る結果となったわけだ。 さて、今回は、個々の登場人物はお蝶意外...

次郎長三国志4 勢揃い清水港

次郎長日記も第4まで続きました。前の回に増して感じられるのが、シリーズ化としての一本の物語性。そのぶんひとつひとつのエピソードが薄められていくのは残念でもある。 また、関東綱五郎、増川仙右衛門、桶屋の鬼吉あたりは影が薄くなっている。シリーズ1、2で十分活躍したのだが、4までくると登場人物も増え過ぎて、ある程度簡略化しなければいけない。これらの子分は、あまり特徴あるようには描かれない。 前回も書いたが、コンビというものはおもしろい。石松と追分三五郎のコンビ、桶屋の鬼吉と関東綱五郎。この間抜けなコンビの珍事件がおもしろおかしいのである。 なんでなのだろうか。 二人で一人の女に惚れる基本パターンはある。しかも二人はそのお互いがいて初めて生き生きする。相互に補完し合うところをしながら、ひとつの人格かのようでもある。 石松がどもると、三五郎が代わりに説明してやる。そんなところに友情でも生まれるのだろうか。今回は特に石松と三五郎の友情がクローズアップされていた。 清水の次郎長が勢力を大きくしていく様子が描かれている。そんな暗示などがあるために、物語は継続性を帯びて、次に起こる大きな事件の予感が感じられる。 事件が起こっているときの登場人物の描写を特長持って描くのは難しい。今回の立ち回りは見事ではあるけど、石松や張り子の虎造の珍事件ほどの人間らしさは感じない。 今回もおもしろくはあるのだけど、物語や事件の筋だけが立ちすぎると、印象は弱まるものかもしれない。かえって、筋が進まないほどはみ出た人物描写のほうが楽しいものだ。 そういった意味で加東大介演じる豚松のエピソードが、今回の秀逸な場面といえよう。相撲の場面で、豚松が力士に勝たなければ脚本は成り立たないと思っていたが、ああいったおもしろい演出で豚松が勝利を納めるとは思わなかった。 役者の力量もあるが、場の雰囲気と、豚松の動き、力士の余裕の様子を含めて、すべての演出がおもしろく回転したところであったと思う。

次郎長三国志3 次郎長と石松

清水の次郎長における社会学や、やくざについてはあまり興味がないので、ここでは話さない。語り口が楽しいのはなぜかというところにしか興味がないようだ。 映画の輝きというか、わくわくさせるような要素ってのは何なのかということをどうしても知りたい。 今日の映画は、石松と追分三五郎の、投櫛のお仲への恋物語が主だった。 二人が知り合ったばかりとはいえ、何だか知らない友情を結ぶ所が大きな意味があるのだろう。言ってみれば「でこぼこのコンビ」なのだ。石松は純情で馬鹿正直な小さい男。追分三五郎は美男で背の高い、いい男。この二人がいつのまにか同じ女に惚れるところが面白い。 いわゆるキャラクターの違う二人が友情を結び、離れようとしても、ついつい離れられなくなる構図は、いくつかの映画によく見られる構図だ。 その二人がいろいろなおかしな事件を起こすのがおもしろいのだな。 また、一方、次郎長たちは博打を打っているところで捕まり、牢屋に入る。 その牢屋の中で、牢名主たちの序列と横暴に反乱を起こすのだが、考えてみればこれは、力で力を制するのであって、何も民主的ではない。大義名分は、病気の男に味方した次郎長たちにあるようだし、この映画を見る人も次郎長に加担するだろうが、権力闘争にすぎないともいえる。水戸黄門に味方するようなものだ。 そんな結末自体はおもしろいものでも何でもない。 しかし、次郎長たちが牢名主たちの横暴を、黙って素直に聞きれようとしている姿がいたずらっぽくておもしろい。ひとこと「清水の次郎長だ」といえば序列が変わってしまうところを、あえて自分が下で耐え忍んでいる。水戸黄門が素性を明かさないでおとなしくしている状態と同じだ。 そんな逆転というか、観ているお客さんは知っていて、次郎長たちが知っているけど、牢名主たちが知らない事実があるということがおもしろい。その半公然の秘密が、いつばれるかいつばらすかと引き延ばしするところが、娯楽のツボをつかんでいるのだろうな。 マキノ雅弘の演出の妙味は、今回は、お仲と石松の酒場での場面によくあらわれている。みな歌で終わるではないけれど、歌を歌いながら、恋をしている石松が駆けだしていくという演出は、決定的に正しい解決の仕方で、場面の情動と、登場人物の盛り上がりと、クライマックスが、最も鋭く描かれている場面といえよう。 きっとこれ...

次郎長三国志2 次郎長初旅

第2作も見ました。次郎長三国志〜次郎長初旅。 とうとう出てきましたな、森繁久彌の森の石松。まあ器用な演技だね。昨日も書いたが軽さの演技。 新東宝だったっけ、社長シリーズなどでの森繁の演技は、おもしろく軽いんだけど、単なる軽薄に見えるが、ここでは違う。しっかりと物語の芯があるからだろうか。 増川仙右衛門も出てきたな。ここでのラブシーンも、マキノ節なんだろうな。体の小気味よい動きで心理を描く。二人の距離感と押し合い、引きあい、かわしあいをよく見てみると納得できる。素晴らしい。 きっと芝居の妙味をよく知っている人なんだろうな、マキノ雅弘って。それが軽妙にできているからおもしろい。恋愛悲劇ではこれらの動きはコテコテで、くどいものかもしれない。喜劇的な輪郭があるから軽妙に見えるのだろう。 それにしても、登場人物のチームがどんどん増えていくといった構造は、どうしてこうもおもしろいのだろう。行く先々で子分が増えること。 桃太郎の話だってそうだし、七人の侍だってそう。荒野の七人もそう。ハワード・ホークスの映画もそう。 仲間が増えるといった楽しみは、なぜかわくわくするものだ。 清水の次郎長も、まだまだ子分が増えていく。田中春男の法印大五郎も仲間になったし。 また明日が楽しみ

次郎長三国志 次郎長売出す

とうとう観ました。といっても新作映画のではない。マキノ雅弘監督のほう。今までずっと機会を逃してきたのでねえ。新作のほうも時間があったら観にいこうかな。 古い「次郎長三国志」は9作シリーズの第1弾。スカパーで上映されました。 やはり虎造の声がいいねえ。啖呵がいいねえ。 虎造の「清水次郎長伝」は、何度も聞いて真似して勉強したっけな。 さすがにこの人、声だけで勝負できる人。声の演技が正確だから、体の動きが少しで済む。しかも声優の芝居でなく、声だけが浮き上がることもない。いいね。 いろいろと参考になる演出がありましたな。 湿っぽいラブシーンも、湿り過ぎている感はありつつも、役者の動きが場面を鮮やかに描いている。近づく・離れる・立つ・座る・振り向く・逸らすなどの人物の関係性を距離感と行動で演出するあたりは、マキノ雅弘の真骨頂らしいし。 そうなんです。難しいのは、微妙な距離感。電車に乗っていることひとつにも、近くの人との距離感を意識するものなのに、芝居になると、それが意識から消えてしまうのが難しいところ。役者にしても、劇作家にしても。 別役実の作品に、どうしてもつきまとう違和感は、人と人との距離が最初の段階から近すぎるということ。コミュニケーション過多なところだろうか。きっと作家の策略はあるのだろうけど。 次郎長の物語に出てくる人は、みんな魅力的な人だから、そんな個性的な人物たちが、小気味よく動きまわるところは見ていて楽しい。 桶屋の鬼吉と関東綱五郎の飲み屋でのやりとりの場面なんて、あそこまで二人がいきいきと動くは、現実にはあるにせよ、芝居で作るのは難しい。 二人のような登場人物の心が大きく揺れ動くときは、このように大きく動きまわるのが必要なのね。 ええ、とにかく、活きのいい人間が小気味よく動くのは、見ていて気持ちのいいものだ。こんな軽やかさがあふれている映画っていいね。 顔だけの心理芝居ばかり見せられるのは御免だ。体全体が顔。 また明日からの2作目の放送が楽しみだな。

ルノワール

ジャン・ルノワールの本を読んでいる。斜め読みに近いのだけど、相変わらずというか、当然というか、よいこと言ってますね、彼は。 ジャン・ルノワールの言葉や思想というのは、少しも過激でなく、どちらかというと通俗に近いものがある。人への優しさや信頼などが、確信をもって書かれているのだ。 「私は、完成した作品のことよりも一緒にそれを作った友人たちのことを思い出すのだ。いちばん鮮やかな思い出とは、スタッフやキャストの思い出である。」 「フランス人の商人と一緒にいるよりも、ヒンズー教徒の大道具係やキャメラマンと一緒にいるほうがくつろげる。同業者以外の人達と一緒にいると、死ぬほど退屈してしまう。」(ともに『ジャン・ルノワール エッセイ集』(野崎歓 訳) 多くの人が感じていても、それを口に出して、しかも宣言までするのをためらうような言葉。私は人間が好きなんだ、友達が好きなんだ、という、ごく単純な言葉。こんな言葉は簡単には出ないだろうし、ルノワールほど鮮やかにあっけらかんとそれを語るのは並大抵じゃない。通俗が通俗に聞こえない。 ひどく単純な思想にはとても複雑な変遷の過程があるという。誰にでも分かりやすいマニュアルや説明書は、作るのがとても難しいともいう。 単純に思えることばも、それを明快・簡潔に語るのは難しい。 ジャン・ルノワールの文章を読んでいると、ところどころにそんな宝石が見つかる。とても素敵な体験だ。 分かりやすいこと、簡潔で明快なこと、単純に思える思想は、目指してはいるが難しいことなのだ。

褒めること

今も開催されているんだっけ?ルノワール×ルノワール。まあ、それはどうでもいい。ジャンのほうのルノワールのインタビュー記事を読んだ。かなり長い分量だったが、気がついたことがある。 ジャン公は、人をよくほめあげる。映画の撮影で知り合った、スタッフであったり、俳優であったりを、とにかく褒める。後で落とすために褒めるのじゃなく、その人たちに尊敬と親近感を感じ、才能を称えているのだ。そんなことしか言っていないような気がする。 とにかく、機械的で大がかりなスケジュールや撮影を嫌ったジャンは、人間と接することでその人を好きになり、その人の長所とジャンの長所で、同盟を作っているかようだ。心地よい人間関係。 我々は、特定の役職や立場に就いていない限り、日常生活であまり似たような立場の人をほめることをしない。人を称える言葉というのも使用をためらわれるほどだ。改まって手紙に書いてみたり、別れのときになってはじめて口にしたり。 ほめることを必要とされないからだろうが、ほめられて嫌な思いになる人は少ないので、もっと褒める機会を増やせたら、その人にとっても、ほめる自分にとっても心地よいものになるだろう。 口では言わないが、ぼくも、多くの友達のなかの尊敬すべき長所や才能を称えたいでいる。口ベタだし、面と向かうと恥ずかしくなってしまうので、割引いて言ってしまう。ほんとはもっと声高に素晴らしいよといいたいのだが。ルノワールのように人を称えるのにも経験や技術がいるのかもしれないな。 けなすこともしつつ、褒めることもしようかな。

ふと我に帰る

人にはそれぞれの顔があるように、人それぞれの考え・思想というものもある。同じ事件を見ても感じることは違うだろうし、気づくことも、観察するところも千差万別だ。 それなのにどうして、ひとつかふたつの意見に早々と集約されるものなのか? 要するに賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかと、簡単に結論づけてしまうものなのだろうか? 人間の思考が複雑なものを単純化して記憶し、整理するものだからか? 一般的な意見に沿うのが安心だからか? そもそも人間みな同じようなことを考えているからだろうか? ある作家の小説を読むときに、ある視点・ある視角というものが、読者によりはっきりと明快に分かるときに、その小説がよりわかるのであり、その視点に共感できるからこそ、それを愛読する。 一般的な視点で書かれたジャーナリズム的な小説には魅力を感じにくいものだ。 ならば作家というものは、物事を単純化する一歩手前で立ち止まり、作家個人のフィルターを通してものを書くのだろうか? 賛成か・反対か、諾か否か、あれかこれかを、結論づけてしまう前に「わたし」のところで一呼吸し、「わたし」を探る。そうして探り当て出てきたものは、同じ「賛成」でも同じ「反対」でも、一般的な「賛成」「反対」とは違ってくる。 もちろん通常だれでも同じことをしているが、作家はより慎重に、より懐疑的にそれを行う気がしてならない。 映画の名作と呼ばれる『東京物語』(野田高悟、小津安二郎作)は、脚本からして豊かに、また明快にできている。そのテーマを声高にではなく、しかし着実に語っている。それが二人がとった視点から語られる物語だからこそ、そしておそらくは、その視点から思い切って描いたからこそ、名作なのだ。 『悪魔を憐れむ歌』(ゴダール監督、出演ローリング・ストーンズ)も、奇抜なドキュメンタリーでありながら、ゴダールの見る目が感じとれた。あえてそこからしか見ようとしない、そしてそこから見させる意志が汲みとれた。 早急に結論を出すことの一歩手前で立ち止まり、ある意味戦術的に自分の視点を確保してみようか。どうせ、結論自体たいていは陳腐だったり、ころころ変わりやすいほどのものなのだから。そして、人は多かれ少なかれ自分の出した(と考えている)意見や結論に固執してしまう頑迷さを持っているから、自分で自分を縛りつける一歩手前で...

折鶴お千

昨日は溝口健二の『折鶴お千』を観たのだが、観るたびに感動するのは、話の筋や登場人物の行為でないところがおもしろい。もちろん、出来は悪くはないし、話の筋もよくできていておもしろいのだが、この映画の場合、特殊な観点があるのだ。 たとえば、寅さんの話なら寅の別れの場面であろうし、刑事ものであるなら解決する場面であろうし、『椿三十郎』なら血の吹き出るところだろうし、『タイタニック』なら船の舳先の場面だろうか? それらと同じように、または、もっと目立ちはしないが、鋭く感動させるひとコマがあって、それはお千が宗吉に折鶴を渡す場面にほかならない。その折鶴を手渡しするのでなくて、自分の手のひらからふっと息をふきかけ折鶴を飛ばすのだが、その折鶴の飛び方が超自然的でおもしろいのだ。 超自然的といえば、超人的な力を発揮するスーパーマンや西部劇のガンマン、時代劇の剣豪が容易に思い浮かぶ。また、知的に全知万能の刑事というものもいるし、ヒーロー・ヒロインはたいてい波瀾万丈すぎる生活を映画のなかで過ごす。ドラマで見る立ち回りはそんなに超人的には見えないのだが、それですら約束事として受け入れて見るものだ。 超自然的な怪奇や天変地異も映画で見ると、驚くどころか当然のこととして受け入れてしまうものだからおもしろい。天が割れ、洪水が地を割いてくることも、演出効果としてとらえる。 ここでの折鶴は、観ている人の想定外の映像が流れること、つまり映像が意外性があり、映画で描かれている現実を異化しているところに特質がある。あまり、こういった映像を見ることは少ない。練りに練った映画で、役者が意図していないところでつまづいて倒れるなどといったハプニングもたまにはある。映ってるべきでない人の顔が映っているなどといった怪奇な映像もあることはある。また、チャップリンの帽子のように、かぶろうとしたら急に帽子がとび跳ねたなどという意外性のあるギャグもある。 折鶴は女性がふっと息を吹きかけたその風力からすると、何十倍もの力で空を飛んでいった。なめらかに画面を横切って。明らかにスタッフが手で飛ばした勢いだったのだが、映像ではお千の吹いた息につながっていた。魔法というより、違和感のあるモンタージュなのだが、それをそのままの映画的な現実として受け取らせるのだからおもしろいものだ。まさしく映画的な瞬間であり、そんな場...

ラ・マルセイエーズ

ジャン・ルノワールの、最高でないにせよ、面白い映画『ラ・マルセイエーズ』を観た。いわば歴史物であり、戦争物ともとれる題材ながら、歴史の再現を目指さないところが彼の映画らしい。フランス革命を扱い、実在の人物も登場してくるので、史実から離れることは許されないが、彼の映画を観ると、史実が映画から離れてひとり歩きを許されているかのように、今までのぼくが知っている限りのフランス革命がまるでこの映画そのものとしか考えられないくらいに、興味を引くものであった。 群像劇であり、主に焦点を当てているのがマルセイユ義勇軍の庶民兵士3人なのだが、描くのはそこにとどまらない。パリで起こっている政治と革命の動きもきちんと織り交ぜて、ルイ16世やマリー・アントワネット、パリ地区委員長も出てくる。大きくは、プロシアやオーストリアの動きも逐一描かれている。まあ、歴史劇だから、当然と言えば当然なのだが。感心するのは、主人公たち三人と国王を同時に描きながら、どちらも通俗の表現になってなく、性格がきちんと描写されていること。この両者が相まみえる瞬間があってもいいと思うのだが、それをしないで、最後まで両者の立場から見た革命を描いている。王妃も庶民の女たちも同等に個性的に描かれている。 どこかユーモラスな行動をしてしまうところをのがさないルノワールの視点もあげておこう。かえって、そういった事細かな生活に密着した行動がつねに画面にあふれてくることを信条としているかのようだ。あっけらかんとした人間があふれ出す。 ルイ16世の食事。マルセイユ義勇兵が歌に聞き惚れる。戦闘の最中に戦闘しないで女たちを見送る義勇兵。王の息子・娘たちのこどもらしさ。 歴史というものは要旨を抜粋したようなものなので、それを人間のドラマに置き換えると、今までに考えられた観念からいろいろはみ出してくるものがある。ハリウッド映画なら英雄主義的にはみ出すであろうし、日本の大河ドラマなら感情の引き延ばしという点ではみ出すだろう。ルノワールのこの映画は、人間がまるっきり人間らしく、意外性のあるはみ出しかたをするので、感情的な高まりをそこに求めても筋違いのような気がする。ああ、こんなこともありうるな、人間だから、といった考えを微笑ましく抱きながら見ることのできた、楽しい映画だったと思う。

作家と骨組

これは分かりきっていたことではあるが重要なこと。 映画にも、演劇にもあてはまること。そして、もちろん音楽にも。 それは、戯曲・シナリオ・スコアが、良いものであることが、その上演の基礎になることで、いい上演にしたいのなら、基本の骨組である戯曲をいいものにするのが早道であること。 どれほどの労力を作家・作曲家の書く骨組に費やしても、無駄になることはない。 いいシナリオがいい作品を作れないことはあっても、いい作品は必ずいいシナリオによる。 今回の『お夏清十郎』は、やはり戯曲の力が大きい。はじめからそれは分ってはいたが、出演者・スタッフ・お客様・そして演出のぼくも含めて、すべて真山青果のこの戯曲に頼るところが多かった。この戯曲を綿密に自分たちのものにすることで、あとは作家の力でぐいぐいひっぱっていってくれる。 稽古過程の最初と最後は作家の腕にかかっている。 それだからこそ、橋本忍・小國英雄・黒澤明は旅館に缶詰となり、シナリオを作るのに血のにじむような努力をする。真山青果は取りつかれたように歴史劇を書き綴る。 すべて作家の詩心にかかっているとしても過言ではない。 単純に作家の書いたことを実行することほど難しいことではあるが、最終的にはそこに辿り着かなければならない。ひどく遠回りしながらも、作家の書く単純な行動が、人の胸を打つ。 伊丹万作の『国士無双』といったシナリオや、「シナリオ時評」ほかの随筆を読んでいる。 改めて思う。作家の作品を吟味しているこの時期こそ、極度の神経と明確な把握が必要なのだ。ここを間違ってはならない。それによって行き先も変わるのだから。 こうしてみると休まる日などないのだな。仕方ない。自分の選んだ道だから。

溝口組

またまた、溝口の映画を見た。どうしてこうも溝口の映画を気にするかといと、もう伝説になるくらいの溝口組(溝口の映画のスタッフ及び俳優)の仕事ぶりのためだ。もちろん映画自体が良いから、その秘訣を探りだすべく、本などの資料も読んでみる。 映画や演劇では何々組といったチームワークで作品作りを継続することが多い。気心や方法を共有している人間と一緒に作品をつくるほうが効率もいいし、継続性がある。溝口組といえば、溝口健二を筆頭に、脚本:依田義賢、撮影:宮川一夫、美術:水谷浩、音楽:早坂文雄、といった面々が代表となっている。 内藤昭は後々の美術監督で名高く、その彼が水谷浩の助手として溝口組の仕事に参加しているときの文章やインタビューを読んでいるが、妥協を許さない仕事師としての溝口はじめ溝口組の仕事には、緊張感がみなぎっているように感じ取れる。下調べの考証や、ロケハン、撮影時の集中など、内藤氏のインタビュー以外でも、どのスタッフが語っても、どの役者が語っても、溝口組の仕事に誇り高いものを感じているようだ。なにしろ、日本映画が技術的にも人材的にも黄金期だったこともあって、溝口のひとつの作品は相当レベルの高い人材と技術の結晶だったわけで、そんな撮影や仕事ぶりのこぼれ話を聞くだけでわくわくするものだ。 思うに、溝口が1950年代に当然のこととしてやっていた、時代考証、下調べ、厳密な撮影、芸術性のある職人的な仕事の数々というものは、それ以前の溝口が映画にかかわっていた30年間の結晶でもあるし、経験や技術の完成でもあるが、そういった緻密に練り上げられた大胆な作品に、現代のわたしたちが少しでも近づくには、どれほどの格闘を自分に課さなければならないのかと考えると、目がくらくらしてくるぐらいだ。溝口のようなベテランで一級の監督が試行錯誤と莫大な仕事量を経て作った作品に、質的にどれだけ近づいていけるかを考えると、ぼくのような駆け出しが安易に仕事をやっつけてしまうのが恐ろしい。 こういうわけで溝口という高い目標を常に参考にしていきたい。もちろん自分ひとりでできるわけがない。周囲のチームの力で、やっつけ仕事でない、芸術家としての職人的な献身で仕事を進めたいと常々思っている。 今夜はNHKで大河ドラマを見たのも影響しているのだろう。ぼろくそに言って良いならいくらでもいえるが、情けないくらい...

山椒大夫(4)

先日は、現代の山椒大夫とは何かを考えたが、今日は、現代の安寿と厨子王は何かと、自信はないが、考えたみたい。あくまで、森鴎外の『山椒大夫』でなく、溝口健二の『山椒大夫』として。 まず、安寿と厨子王は何をしたのか? 父親の失脚で、母子で父の元に向かう旅をする。人買いに捕まって、母と離れ離れにさせられる。丹後の山椒大夫のもとに奴隷として放り込まれる。素性へのプライドは子供心にもあって名前を明かさない、これは鍵となることである。あとで述べる。 山椒大夫のもとで長年は酷使され、身も心もぼろぼろになる。ようは人間でなく、非人扱いなのだ。厨子王は環境に順応して、山椒大夫に反抗するのでなく、かえって手先として利用される。安寿はあくまで、入ってきたときの屈辱と現状の奴隷たちの悲惨さで反抗心を残している。二人とも成人として成長している真っ只中の青年なのだ。この山椒大夫の領地で働かされている他の奴隷たちも、あるものは順応し、あるものは無感覚になり、あるものは牙を隠しながら耐え忍んでいる。 母の便りをふとしたことから知って、安寿はもとの幸福を取り戻そうという気持ちになる。安寿は厨子王を改心させようとするが、長年の環境の垢はなかなか落とせない。瀕死の同僚を捨てに領内の山に行かされる機会から、安寿は厨子王を逃亡させる。厨子王はここで改心して、その同僚を背負い山向こうの国分寺に駆け込み、山椒大夫のもとでの隷属状態を中央に訴えようとする。安寿は厨子王を逃がすため時間稼ぎをして、みずからは入水自殺をする。厨子王はそれを知らない。 開放された厨子王は時の政権の有力者に直訴するが、不審者としてつかまってしまう。が、そこで警備の者に没収された、父親の形見の観音像のおかげで、素性を知ってもらえ、丹後の国の国司の地位が空いていたので、国司となる。このあたりの環境のめまぐるしさは不自然なのだが、劇的なテンポによる誇張と解釈できる。実際なら、そんなに簡単に早く国司になるというわけにはいくまい。 国司になった厨子王は、山椒大夫をつぶし、安寿を助けにいく。山椒大夫をつぶすということは、中央の有力な政治家に喧嘩をうることで、自分の国司の地位はすぐにはずされることを意味する。しかし、厨子王にとっては国司の地位など問題でなく、ただただ、山椒大夫をつぶし、安寿をはじめとする奴隷を解放することが重要なのだ。結局、...

山椒大夫(3)

溝口健二の『山椒大夫』を語って3日目になる。 昨日は、山椒大夫について書いたので、もうひとつの鍵となる「引き離された家族」のテーマについて考えてみる。 厨子王や安寿の父親である平正氏は武士が台頭してきた時期に、領民を守るための理想主義によって筑紫に左遷される。ここでひとつの離散。 そして筑紫に向かって、母子3人と乳母を連れた無謀で非力な旅が始まる。その途中、越後で人買いに捕まり、母子は別れ別れになる。母は佐渡の遊女宿へ、兄妹は丹後の山椒大夫の荘園に、そして乳母は越後の海に沈む。この距離的な遠さと、ぬかりなく行き先の決まっている犯罪は、人身売買の組織網の広さを物語っている。 山椒大夫のもとで月日を送った安寿と厨子王は、新入りの奴隷の歌う歌で母の存在に思いをはせたことで逃亡を企て、厨子王を逃がすため、安寿は時間稼ぎをして、兄妹は離れ離れになる。厨子王は生きて中央の政治家に請願するが、安寿は別れた後に入水する。 ひとりまたひとりと家族は別れていき、まだつながっているものに望みをかけるかのように、物語の重心は、引き離されていない者たちに移っていくのだが、最終的には家族四人ばらばらになる。 幸運だったのは、たとえ四人が離散しても、それを引き止めるかのように、家族を求心的に引き寄せる強い力が作用していたとうことだ。それは、陸奥から筑紫までの無茶な旅にはじまり、父親の残した言葉、母が遠くで呼び続けた歌、いち早く山椒大夫を倒して妹を救いにくる厨子王の行動、父と妹の死を知った厨子王が母を訪ねる行動に表れている。とりわけ、父親の言葉と、母の呼び声のモチーフは反復されて、安寿や厨子王を目覚めさせる働きもしている。 実際、越後の浜辺近くでの枝折の場面で、母の心配する呼び声は子供たちにも届いており、その呼び声の聞こえる範囲内でしか、安寿と厨子王は行動しない。直後の夜の場面では、二人はすっかり母のもとに戻って安心している。その呼び声が時空を超えただけの話で、離れ離れになった二人の耳に、母の声は他人の歌声を借りて再び伝達する。逃亡の場面では、安寿の幻聴という手段で伝達する。最後の佐渡での厨子王の途方にくれた耳には、すぐ近くにいるのに声といった伝達というよりも、存在の伝達という手段で居場所を告げている。逆説的に、厨子王が言葉でいくら母に境遇を語っても、母はなぶりものにされるのを恐...

山椒大夫(2)

山椒大夫とはいったい何者なのか?現代の山椒大夫は? こういった問いを抱えながら、溝口はこの映画『山椒大夫』をとったに違いない。実際、当時の映画俳優がかけもちの仕事ばかりして、自分の映画に専念してもらえないのを嘆いて、プロモーターを山椒大夫になぞらえていた。 山椒大夫とは? 有力な政治家に庇護された資本家。狡猾な人間、それも中央の政治家たちの間でも手出しのできかねる知恵者。自分の荘園では奴隷をこきつかう。周囲に手下をもっていて、自分の手をなるべく汚さないで事をすすめる。残虐な刑罰の実行。奴隷の監視。人身売買の行き着く場所、つまり奴隷の労働力を買うところ。お金の出入りに対してうるさい。接待、賄賂、へつらい、それらによって見返りと自身の安全を期待する。法律と公的な規制を物ともしない、つまり、裏に有力な政治家がいるので、地方の国司が手出しをできないことを承知で権力をふりかざす。 まだまだいっぱい要素をあげられるだろう。こうして見てくると、現代にも山椒大夫が存在しはびこっているのが分かるだろう。そして、現代の山椒大夫はもっと狡猾に、もっと論理を巧妙に、また、もっと大規模に組織を作り上げて協力して複数で犯罪を行っている。そして、労働力が奴隷という名をはずされて、契約という名目で行われているから、民衆の隷属化がより自覚しにくい。 現代の山椒大夫ならどんな武器を使うのだろうか? まず、賄賂・へつらい・根回しによる身の保全は同じく欠かさない。また、資本力を増殖させることに対して手段を選ばないことは同じだろう。法律の間をくぐりぬけるために、現代では弁護士などの法律家を後ろに待機させ、公的な装いを見せる。組織を巨大化し仕事を分担することで、責任を分散させる。つまり企業化、ビジネス。マスメディアの力を利用すること、つまりは現代で山椒大夫が味方につけようと考えているのは、有力な政治家だけでなく、巨大な宣伝力と影響力をもつメディアとその周辺の有力者たち。20世紀の産業機械だけでなく、現代では全世界的なネットワークと標準化による戦略。石油などの利権。目に見えないところでの搾取。労働力の巧みな利用と、無責任な保障。また、より明確に、武器をもつ、武装する。それは理論武装にとどまらない、ミサイルをもつ。しかも、軍事産業というビジネスとして。 こうした山椒大夫が現代にも生きているか...

山椒大夫

溝口健二の『山椒大夫』を観た。今回は物語に圧倒されることはなく、落ち着いて構造を確かめられた。ただ単純に主題的に観たというべきか? 今日観たこの映画は、人間の奴隷化への執拗な抵抗に思えた。厨子王、山椒大夫の息子の太郎、安寿に代表される抵抗の行動。厨子王は感情的に仕返しをする。 また、山椒大夫がのさばる荘園は、右大臣の権力の庇護の下であり、山椒大夫個人の横暴というだけでなく、中央の政治の権力争いの先端という構図。 溝口がこの映画で語る中心にこれがある。 また、引き裂かれた家族、失われた平和・幸福・希望の問題。山椒大夫の荘園で働かされている奴隷は、人身売買のネットワークに引っかかった被害者で、みな身寄りのない者で、個人の歴史すら消されている。次々と新参の者が入ってくるところをみると、かなり大きく堅固なネットワークが張り巡らされている。その取引の実行犯も、経済的な利益を得るために、善人の装いをしている。いや、普段は悪事を働く人でないのかもしれない。 たとえ家族が離れ離れになっても、家族への思いは時空を超える。 母親の玉木の歌う安寿と厨子王の歌は、少なくとも玉木の周囲から佐渡の全土に広まり、そして丹後の国にまで広まるのだ、しかも他人ののどを介して。 厨子王の逃亡への決意のきっかけは、母子で旅をしていたときの、安寿との枝折の記憶と反復。ここで安寿はその幼い時期の旅で、心配する母親の呼び声を時空を超えて聞く。おそらく厨子王にも聞こえている。 最後に佐渡を訪ねる厨子王が、風を聞いたかのように母親の居場所に向かっていく。誰かが教えてくれたわけではない。 思いだけではなく、観音像、ことばというものが、家族の離散を食い止める。 言ってみれば、政治的・社会的に容認されている犯罪によって家族が引き離され、その悪の制度を感情的になってまでつぶそうとする戦いの映画なのかもしれない。 人身売買は現在も国際問題であるし、人身売買に似た搾取はいたるところにある。ひとりひとりの命や人格がぼろぼろに崩壊させられても、家族が、ふたりきりであっても、再会できたことに幸せがある。 この映画は主題的にも大きな問題をはらんでいて、いつ観ても新しい感情や意見が沸いて出てくる。溝口の映画が古くても、題材がもっと古くても、現代の問題に深く切り込んでいる。つねに新しい溝口。 うーむ、やる...