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5月, 2008の投稿を表示しています

耳を傾けて

調べものをして文章を書く日が続いている。自分の知らないことばかりなのに、なぜかよく知っているかのように書くので、ときどきこそばゆいこともある。 それにしても、調べものをするというのは楽しいことだね。自分がまだまだ知らないことがあり、それに謙虚に取り組めるから。 外壁のことやら、巫女のことやら、塾のことやら… そういえば、ふと思いだしたのだけど、大学を卒業するときに恩師から、「君は大学院に入って研究するべきだ」と言われたな。研究の地道な努力と、積み重ねの大切さを教わった。卒業後の身の処し方が決まっていたので先生の助言には従えなかったけど。でも、今にして思うと、調べるというのも案外楽しいものだな。 今日は4回目の制作セミナーに行ってきた。ビデオを見たり、裏話を聞きながら、なんとかぼくも大きな公演を成し遂げたいと思ったな。やはり楽しんで仕事なり作業なりに取り組めるというのは素晴らしいことなのだな。 素晴らしいといえば、その制作セミナーの開催元である世田谷パブリックシアターもそうだな。正直、最近の演目は芸術監督の色と折り合いがつかなくて、ぼくは好きじゃないのだが、さまざまな取り組みには感心することが多い。 公共劇場ということもあるだろう。情報開示と積極的な社会活動は学ぶべきことが多い。その先頭を走っている劇場のひとつで応援していきたいし、ぼくもこれから何かをしたい。 今日は、講師の話に耳を傾け、家では調べものをして未知の知識に耳を傾ける。なかなか刺激的な生活ではある。車の騒音のなかで過ごしていたひと昔前とはまったく違った環境で、それなりに適応しているということか。 やるべき課題を大方済ませ、気分的にも楽なので、希望に満ち溢れた気分の夜でした。終わり。

権利とサービス

ここ最近話題になっている「モンスター」。「モンスター・ペアレント」や「モンスター・ハズバンド」。おそらく、市民意識の高まりが悪い方向に影響している一例だと思う。 たしかに、いろいろな権利を主張することや、また、公共機関でさえもサービスの要素はあることが、市民のなかに意識としてのぼっているのは進歩。警察官なんか特に最近丁重な態度をとっている。 しかし、それが転化して、暴力的に権利を主張するのはいかがなことであろう。 図書館のサービスや、教育のサービスだけでなく、民間のサービスにしても、過剰なサービスを期待するのは、さまざまな余剰の害をまき散らす。至れり尽くせりの過剰なサービスを施すのが期待された時代は過ぎたし、受ける側もそれを期待することはなくなった。 しかし、小さな部分、今までサービスという概念のなかった分野にサービスを求めるのを当然と思ってしまうのが、こうした「モンスター」の現れになるのだろうか。 一度そういった権利やサービスを受け取ってしまうと、それがどの分野でも、どの機会にも必要に思えてくるのは仕方がないことではある。セルフサービスのファーストフード店で、そういったサービスを期待するようなものだ。全自動洗濯機を使った後では、段階式の洗濯機を使うのに不満をもらすようなものだ。その足りない部分をなんとかしてほしい、お客なんだからサービスを受けて当然だという意識。あながち間違いではなく、社会がそれだけ細かいところにまで意識が浸透してきている、というふうに考えると、進歩ではある。 要は、その権利がはたしてその場所、その分野、その機会では、主張することが正しいのかを考えずに、やみくもに権利を暴力的に要求することなのだ。 例えば、主婦の自転車三人乗りも話題になっているが、三人乗りを禁止するなという主張はまっとうだと思う。そこに異存はない。が、三人乗りであったり、こども連れの自転車が、歩道をわがもの顔で歩行者を除けていくという光景によく出会うが、それはどうなのだろう。たとえ三人乗りで幼児を連れて大変な運転であろうが、その場その機会に照らして、どこまでそんな運転をわがままでないと言い切れるだろうか。 「モンスター・ハズバンド」の場合には、おそらく夫は初めて出産に立ち会うという状態において、自分が混乱せず優位に立てるように、自分の知っている権利やサービ

まとまりのない話

今日は何だか、とても気分がよかったのだか、自分から人に話しかけた。ま、普段から人に話しかけないわけではないが、嫌な人と一緒だと自分の世界に入ってしまうので。競輪新聞が入って来るのを待っているお客さんと、世間話みたいなこともしてしまった。自分に気負いがないからだろうか、お客さん相手なのにタメ口でばんばん話してしまうし、それを自然にしてしまうし。なんだか、今日は、口と言葉の周りにオイルを塗っているかのようだった。 電車の中では、台本に赤線を入れる作業に没頭してしまい、これもまた滑らかになんの障害もなく済んだ。 電車の中や駅の構内で、意識や視線を遠くへ向けると、こんなふうに小さなデコボコが気にならず、悠長に物事を見られる。隣でわさわさ動いている人も、混んだ電車の中でしきりに頭を揺らす人も、傘を振り回しながら歩く非常識な人も、みんな気にならなくなる。意識が小さいところ、近いところに無いからだと思う。 いわば科学者のような目でもって物事を見渡せるようになると、気分的にも楽になる。日常のささいな、煩わしいことを無視できるから。 こんな日が明日も来るかどうかは分からない。しかし、来ればいいなと思う。しかし、気温が暑すぎたり、寒すぎたりで、すぐに自分一人に意識がいってしまうのがぼくの悪い点だ。こんな日が続くかどうか。 ま、ここ最近は、自分から動かなければ成立しない生活になってきているから、落ち着いて行動できているのだと思う。誰かが何かをやってくれていたときは、ただただ動かされるままだったのだが、自分から動くには自分がしっかりしていないとダメだから、当然なんだけどね。順応というやつかな。適応かな。 よりいっそう、生活するための方法を見つけ出さなければならないし、生き方を学んでいかなければならない。 でも、話の脈絡はないけど、どうしてぼくの場合、本能的に、今僕が従事している世界や集団や業界を嫌っているのだろうか?嫌いというより距離を取りたがる。 フランスにいたとき、何か月もフランスが大嫌いだった。 演劇の業界人って、実はあんまり好きじゃないのかもとも思っている。 バイト先や会社の文句をいうのはお手のものだし。 混乱を恐れているのかもしれない。惑わさないでくれ、近寄らないでくれ。そういえばこの前のワークショップで、キャリアのある俳優さんが言っていたな。「

危機感をもって立ち上がれ

久しぶりにJリーグの試合を見て、技術や戦術などが徐々に発達しているな、なんて感じたものだ。Jリーグ以前の日本リーグ時代は、もっと肉弾戦的な要素があって、前に大きく蹴る、放りこむといった印象が残っている。危機感をもってJリーグを作り、システム作りをして、今や、ワールドカップは行くことが当たり前のように要求されるようなレベルになった。もちろん、世界のトップクラスと較べるとまだまだだとは思うが、過去との比較という観点で眺めると進歩している。 自転車レースでも同じような進歩があるみたいだ。過去にも日本選手が世界のレースに参加することはあっても、現在のように平均的レベルで、世界に近づいていたわけではない。 スポーツと比較するのがいいのかは分からないが、演劇や映画における俳優の演技というのは、いつになったら客観的基準や方法論に即して近代化するのであろうかと思うことがある。 トップクラスと呼ばれる俳優の演技をも、見ていられないくらいの失望を味わうことがあるのはどうしてだろう。駆け出しの人気俳優でなく、ベテランの俳優の演技に嘘くさいものを感じることがあるのだ。真実味がないというか。 すべての映画監督がいい映画を作るわけではないし、すべての演劇のカンパニーがいいまとまりを見せるわけでもない。すべてのベテラン俳優が常に最高の演技を見せるとも限らない。 肝心なのは質の問題で、演技に虚偽を感じてしまう。その嘘くささを俳優が喜々として演じて、またその演技を無批判に賞賛されることに、どうも、進歩というものがはたしてこの分野ではあるのかどうか疑問に思ってくる。 最近またブレイクし始めている、ある壮年の俳優の演技も、確かにひとつの性格的な演技で見ごたえもあるのだが、何かが足りない。それなりの努力も苦労もしているようなのだが、役が人間に見えないのだな。歌舞伎の役のように、型を見せられているような気がする。スターだから千変万化とはいかない事情はあるのだろうが、役所広司などのように、役の人間味を充分に見せてくれるわけではない。言って見れば、役の体温が感じられず、頭で作った役の性格をうまく演じているようにしか思えない。 こんな例が頻繁にあるとなると、演技の質についての批評性をもった基準というのが、この分野にはたしてあるのだろうかと不安になってくる。そういった基準がなく、監督や演出家や

世界の開化

15年ぶりになるだろうか、夏目漱石の「私の個人主義」を再読してみた。一読して思ったのは、内容が講演のためでもあろうが、非常に論理的で分かりやすい文章だということ。話に淀みもないし、比喩の対象も効果も明晰だし、何より簡潔な言葉を使って学生に話しかけている。そして話者である漱石の一番伝えたいことが明確で、漱石の精神・思想がうかがえるような内容になっている。ここまで論旨が明快な文章というのはなかなか見かけるものではない。 講演は聴衆が理解して初めて意味をもつ。漱石の好きな落語もそうだ。演劇も例外ではない。これらに共通するのは、その場にいる聴衆・お客さんに分かってもらうことが第一の基本にあることであろうか。後世に誰かが理解してくれようといった悠長な考えではいけないこと。 分かってもらうこと、こちらの考え・計画を理解してもらうことは、とても難しい。だいたいにして、自分がほかの人のことばの意味を受け取り、理解しているとは、必ずしもいえないのだから。聞き流すことのほうが多いだろうか。好意を持っている人のことばは、過剰に聞き入れようとしてかえって本意を理解しているとはいえない。家族などの身近な人のことばなんて、半分以上は聞き流しても想像がつく。 漱石のこの本を再読した後の感想は、何だか目の前の世界が開けたような気がしたのだが、人の言うこと・考え・意志をはっきりと理解できたときは、いつもこんな感想を持つな。つまり、明快に理解するということは、世界を開くことなのだろうか。逆な立場で言うと、世界を開かせるために、ことばを使い分かってもらおうとする。講演の講師も、落語家も、芸能の実演者も。 小難しい数式を解いたときもそんな「開化」を感じた。今まで苦闘していた俳優がいきなり変身し「開化」することが稽古の過程ではよくある。賞味1時間の漱石の講演で、自分の人生の一歩を踏み出した人間がいるであろう。そういった講演とは種類は違うが、演劇の公演だってひとりの人生を「開化」させるのに事足りないことなんてない。 願わくば多くの人を「開化」させたいと思い、練りに練り、簡潔であること、明快であること、率直なものであること、親しみやすいものにすることを心掛ける演劇も悪くはあるまい。単に娯楽でなく、もっと社会性を帯びたものが、もともとの演劇に必要とされていたものであるから。

とりとめもなく、まとめもなく・・・

金曜日の夜の電車は混んでいていやだ。また、酒に酔ッた人が大きい態度をしているので、とても殺伐とした光景になる。自分も酔っていれば、そんなの気にならないのだろうが、こちらは早く静かに帰りたいものだから嫌になる。まあ、酔った人はそれほど意地悪ではないから、扱い方・接し方次第で、どうにかなるんだけどね。 今日のお昼に自宅に珍しくそよ風が入ってきて、それがとても心地よく、なんだかノスタルジーを感じてしまい、東京を離れて高原にでも行きたいななんて、考えてしまった。考えるだけで実行には移せないのだけどね。 別に人間が嫌なわけじゃないけど、この時期、どうしてかいい人間だけとしか付き合いたくない気分なんだな。だから、大多数の得体の知れない通行人なんて無視してしまう。酔っぱらいなんて存在も消したいくらいだ。いろいろな人がいるなかで、あえて人の嫌な面を見たくないというのが実情か。良い面だけしか見たくない。だからだろうかね、高原に行きたいなんて、ふと思いついたのも。 そりゃ、人間いいとこばかりでなく、悪いところのほうが表面にあらわれやすく、指摘しやすい。あえて、その悪い面、平凡な面を見ないで、いいところを見ようと試みるのは間違ってはいないだろうか?というよりも、いい面しかみることができない状態に近いな。悪いところは完全無視。無意識に無視。 自分をふりかえると、ぼくは良いとこなんてあるのだろうかね?人に嫌われているんじゃないか?初対面でぼくが与える印象というものは、他人に聞くとまた別の答えが返ってくると思うが、ぼくのなかでは悪印象か無印象なんじゃないかと常に思う。自分でもいいと思わないんだよね。 というわけで、自分のことには疑心暗鬼になりながらも、世の中のいいものを吸収しようとなっている状態。いつまで続くだろうか。明日には終わっていたりしてな。それもまたおもしろいことだ。

教えを請う人

「いまどきの若い者は…」ということばはよく聞かれる言葉だが、年長者がそう思う気持も分かるし、かといってそれを肯定するわけにもいかない。 シーボルトと鳴滝塾の伝記を読んでいるが、シーボルト自身若いなかで、もっと若い人がシーボルトを師と慕って集まり勉強する姿に、とても美しいものを感じるのだ。 スタニフラフスキーも、後年は若い俳優と仕事をするのを好んだ。 ソクラテスも町の若い者をつかまえて、議論を吹きかけたものだ。 昨日の演劇の講座で、終了後、講師のもとに質問に行っていた女性3人がいたのだが、ちらちら聞こえてくるところによると、大学生で、今後の自分の進む道を模索しているようで、そういった趣旨でとても熱心に、また、尊敬のまなざしで講師に質問していた。 こんな光景を見るのはうれしいことだな。美しい。こういった熱心さを見受けられる世代といえば、ぼくの経験では、圧倒的に若い世代なのだ。しかも、10代後半から20代前半。もちろん70近くの方でもこんな方はいるが、圧倒的に多いのは「近頃の若い者」なのだ。 こういう光景、滅多に見られないとは言わないけど、それほど多く見られるわけでもないだろう。 こういう探究心と迷った心が素直に表れている人も一部分、とても奇抜な格好で人の気を引く人も一部分、悪い犯罪をする人も一部分であるなら、いちがいに、ひとくくりに、「若い者」ということばで定義・断定することにためらいを感じる。 少なくとも、熱心な、素直な姿で、大人と子どもの間をうろうろしながら生き方を探している「若い人」を見ると、この世代にしかない美しさ、特権のように思えてくる。 案外こんなとこにしか、停滞を打ち破るような革新的な萌芽というのはないのかもしれない。そこまで極端でなくとも、行き詰ったら、自分たちだけでなく、年長者にも若い人にも教えを請うのがいいのかもしれないな。 ある程度の経験を積んだ人にとって、威張ること、自足すること、正当化することは、自分の首を少ずつ絞めるもののように、ぼくには思える。 「教えを請う人」になり続けるのも悪くはないんじゃないか?

フィットネス

今日なんてとても涼しくて気持ちいいから、過ごしやすいなあ。あまり暑すぎるのも、逆に寒すぎるのもダメで、そんなこと考えると気持ちよく過ごせる日なんて、1年に10日あるかないかくらいだろうか?別にお肌がわがままなわけじゃない。周りの空気に体が心地よくフィットするといった感じだろうか?1日でも、気温の上下、湿度の上下、太陽の当たる当たらないで、そんな心地よさなんて変わってくるのだから難しい。 フィットするといえば、自分の体の具合というのも、どこかしら不具合があったり、気分が悪かったりで年中通して同じことなんてない。痩せ具合・太り具合にも波があって、自分が気持ちよく動けるという体の締まり具合は、なかなか見つけ出せるものじゃない。むかしから、体が軽く痩せていたほうが気分も体も軽やかになり心地よいのだが、食べるという誘惑はそんなときに悪魔のように襲って来て、だからこそ食もおいしくいただけて、ついでに量もとってしまい、体の重量バランスを崩してしまう。 土曜日から、自転車レースのジロ・デ・イタリアが始めるけど、急きょ1週間前に大会に参加を許されたアスタナチームの選手なんて、コンディションを整えるのが難しいだろうな。ビッグな大会だから、それを優先させるけど、体は別なペースで調整しようとしていたのだから。これが、一般の人なら徹夜で企画書、早出・残業で準備を整えるといったことが可能だが、スポーツ選手のしかも過酷なステージレースだから、眠らないでなんてことはできないし、調整の目標を変えなければいけない。言ってみれば、急きょパリコレに出ることになったから、ダイエットしてというものだろうな。 演劇のスタニフラフスキー。俳優の身支度ということばを使って、舞台に出るまでの、もしくは日常からの訓練として、いくつかの訓練をあげている。架空対象行動もそれで、たとえばコップが実際はないのに、あるかのようにコップをつかんで飲んだりする訓練。人に見せるわけでなく、自分の感覚・注意を確かめる意味で。いわばフィットネスの訓練。今日は調子がいいだろうかなどと確かめれるかもしれない。 朝、夢を見たのだが、夢のなかの自分はいつも重くて嫌だ。なぜかマラソンレースをしていて、ぼくとチームメイトのひとりが後ろをかなり引き離した。チームメイトは人間なのに体を地面に平行にして低空飛行していた!その後ろについて空気

マスメディアを論ずるはずだった・・・

うわあ。またgooにやられた。長々と良い気になってマスメディアのことを書いていたら、投稿するのにエラーが生じた。きちんと手続きを踏んだのに…1500字くらい書いたのに…時間と文字数でギャラを請求しようかな。 同じことを書くのは馬鹿らしいし。 とりあえず、今日受けたプロデューサーの仕事の講座が勉強になったことと、テレビスターが舞台にまで侵入していることを書いたのだな。壮大に書いたので、書けば書くほどその努力が報われず、徒労に終わってしまうのが皮肉でいいな。壮大に書いたのに、何一つ残らない。マスメディアを論ず!、何もなし。ざまあみろだ。 ふー。 ま、書いているうちに自分のなかでいろいろな考えをまとめられたので、自分のなかではよい体験だったとして慰めよう。

褒めること

今も開催されているんだっけ?ルノワール×ルノワール。まあ、それはどうでもいい。ジャンのほうのルノワールのインタビュー記事を読んだ。かなり長い分量だったが、気がついたことがある。 ジャン公は、人をよくほめあげる。映画の撮影で知り合った、スタッフであったり、俳優であったりを、とにかく褒める。後で落とすために褒めるのじゃなく、その人たちに尊敬と親近感を感じ、才能を称えているのだ。そんなことしか言っていないような気がする。 とにかく、機械的で大がかりなスケジュールや撮影を嫌ったジャンは、人間と接することでその人を好きになり、その人の長所とジャンの長所で、同盟を作っているかようだ。心地よい人間関係。 我々は、特定の役職や立場に就いていない限り、日常生活であまり似たような立場の人をほめることをしない。人を称える言葉というのも使用をためらわれるほどだ。改まって手紙に書いてみたり、別れのときになってはじめて口にしたり。 ほめることを必要とされないからだろうが、ほめられて嫌な思いになる人は少ないので、もっと褒める機会を増やせたら、その人にとっても、ほめる自分にとっても心地よいものになるだろう。 口では言わないが、ぼくも、多くの友達のなかの尊敬すべき長所や才能を称えたいでいる。口ベタだし、面と向かうと恥ずかしくなってしまうので、割引いて言ってしまう。ほんとはもっと声高に素晴らしいよといいたいのだが。ルノワールのように人を称えるのにも経験や技術がいるのかもしれないな。 けなすこともしつつ、褒めることもしようかな。

2つの刺激

今日は世田谷パブリックシアターのプロデューサーについてのセミナーに行ってきた。演出とはいえ、実際、プロデューサーの仕事もしているわけだから、知らぬ・興味ないじゃすまされず、勉強にいってきた。ぼくも考えていて、また、ある参加者もらしていたが、5,6人ぐらいしか集まらないのじゃないかと思っていたが、40人以上も集まって大盛況だった。 大学生の年代の若い人が多かったのが特徴で、みんな熱心に聞いていて、感心した。こういう情熱が大切だね。 まあ、話自体はちとまとまりがなかったのだけど、5回の講義なので、今後に期待。 ワークショップを企画しました。グルッポ・テアトロのホームページを見て参加してくださいね。 グルッポテアトロ〜橋ものがたり〜ワークショップvol.1 また、今日、かつての知り合いから絶縁状みたいなのがきた。むこうはかなりぼくを嫌悪しているようで、いろいろと恨み節を書いてきたが、ぼくのほうは何とも思ってなくて、自覚もないのだけど、前々からふたりの間には嫌な空気は漂っていたので、明らかになったことで、すっきりしている。 嫌われたり、陰口をたたかれたりは結構あったりするが、自分も同じことをしたりもするので、文句は言えまい。 ただし、こんな負の感情を持ち続けるのはいやなので、ぼくは本能的にすっかり忘れるものらしい。あっけらかんとしているのはそのためで、敵が何で怒っているのか分からないことが多々ある。明日には忘れるかな。 それにしても難しいのは人間関係だね。どうも、いろいろなことが習慣的になると、停滞してきて、陰口や嫌味や派閥ができてくる。集団に属しても、知らず知らずのうちに、小さいことで人を嫌ってしまったりもした。集団を抜けてから初めて、小さいことでくよくよしていたことが分かったことが何度あったか。 反対に、新しい刺激や精神に触れるというのは素晴らしいことだ。今日の制作セミナーなんて、どきどきするような新しい体験だった。年配の人も何人か来ていて、その挑戦と活力には尊敬さえする。こういった新たな挑戦をし続けることが、ぼくには必要なのかもな。 昔なら、今日の絶縁状がきたことで、精神的に参ってしまっただろうが、今は、そんなことはゴミ箱に捨てる勢いだ。でも、相手の言い分にも道理はあるわけで、不快感を与えたことは事実として認識しておかないと、ざらついた人

陰気な番頭さん

なぜだろうと思っていることがある。なぜという疑問というより、不便じゃないかなと同情したり、客商売にはふさわしくないのじゃないかなと、おかしいなと思っていることなのだが。 それは、芝居にいったときの受付。その受付のチケット販売員が座って発券していることが、今回の疑問点です。 大きな劇場では発券のためのチケットオフィスといったものがあり、そこでは、何かに仕切られた場所のなかで、一段高いところから椅子に座った係員がチケットを販売する。映画などでも同じ。そこには、何の疑問もわかない。 問題は、そこまで大きい劇場でなく、つまり、発券のための特別な場所があらかじめ設けている劇場でなく、入り口のところに机をならべて、ここで受付をしてくださいと決められているようなところ。つまり、紀伊国屋劇場のような中劇場も含めて多くの劇場でのことである。 多くの劇場は、チケットオフィスの場所を特別に設ける必要はないと考えているのだろう。そこには疑問はない。ま、どんな小さな劇場でも、あるにこしたことはない。しかし、仕切られた部屋のなかで発券するよりも、お客さんと面と向かって、同じ場所で発券するほうがよいんじゃないかと言われれば、それもありうるなとうなずくかもしれない。 問題はそこにはない。 入口に設けられた受付スペースで、予約のお客さんの確認をして、チケットを販売するのだが、その販売方法に不備があるのではないかというのだ。不備とまで言ったら失礼かもしれないが、係員が椅子に座って販売するのはいかがなものか? なんだ、先ほどはチケットオフィスの係員が壁越しに座って販売するのは問題ないと言ったじゃないか、と思うかもしれないが、その場合とこれとは違うのである。 新旧多くの劇場、映画館、またそれにとらわれず、多くのお店を覗いてみて感じることは、立って販売する・座って販売するには、それなりの法則というか、論理があるように思えるのだ。 おそらく商売や設計をしている人には自明なのだろうが、それを確認する資料にあたるのもちと面倒くさいので、ぼくが思ったままにそれを言うと… 「販売する側が優位に立てるような場所づくり」という大原則があるように思う。 販売が優位に、とは言っても、威張りくさって、サービスをしないというわけでなく、お金を扱う場所を一段高くして、お客さんを見下ろす構造を作り出す

芝居を観てきた

友人の芝居を見てきた。 今日は雨があがってむしむししていたせいか、気分がすぐれなかった。その悪い心を吹き飛ばすような芝居ではなかったので、むっつりしながら家路についたのだった。 思うに、あまりおもしろいと思えない芝居をみたときに、それに出演している友人にどう話しかけるか、どう対処するかは、今さらながら、重要なことに思える。その場をうまく切り抜けるというより、不快感や不満足をどのように処理して、気持ちよく別れられるか。誰も、不快のままいたいものではない。しかし、よくないものをよいともいえない。そんな葛藤がありながら、押し黙ることでしか表現できない。 赤の他人の芝居だったり、友達連れで観劇したりするのなら、おもいっきりその芝居をこきおろすか、話題を別に逸らすこともできる。こきおろすといっても、自分のなかで、観たものを整理して、こんな芝居など絶対やるまいという心のよりどころを作るだけで、別に、嫌みたらしく悪い宣伝を流すことでもない。そういう意地悪みたいなのをしたこともあったけど、どうせ誰もきくものじゃない。悪い口コミより、良いという口コミのほうが伝わるものだから。 芝居をみているなかで、印象を悪化させるさまざまな要因があるわけで、それがたまたま重なった公演だったと慰めようか。 今日は、むしむししていたし、心もどこか陰に入っていたし、公演会場の雰囲気・接客も気持ちいいものでもなかったし、なにより、後ろのお客さんがおしゃべりな業界人で、その態度に心がかき乱されていたのかもしれない。 そのお客さんは、20〜30代の女性の、演劇の主宰者か劇作家だと思う。顔は見ていない。話の内容からそう判断した。とりわけ不快になったわけでもないが、業界用語を奮発させて、鼻にかかった話し方というものは、ぼくには苦手らしい。話の雰囲気からして、話し相手の女性は困惑していたような声のトーンであったように思えた。 帰りの電車のなかでも偶然、演劇関係者がお話しをしているところにでくわした。こちらも、ぼくは後ろ向きで聞いているだけだったが、男性二人組は、声を張り上げるでもなしに、自分の身の周りのこと、演劇のことを話していた。その話しぶりは不快を与えるものではなかった。 さきほどの女性二人組との違いは、どうやら、話のトーンというか、話の対象が、拡散しているかそうでないかということのよ

但馬屋のお夏

『但馬屋のお夏』という作品を見た。NHKが過去に放送した作品で、近松門左衛門原作、秋元松代脚本、和田勉演出、大地喜和子主演のドラマだ。 真山青果の『お夏清十郎』とは違って、清十郎は出てこない作品で、近松に基づいた作品なので、西鶴に基づいたそれとは幾分筋立てや名前などが違う。 ま、ドラマといわけなので、細かい箇所に粗が見えるのは予測ができた。しかし、NHKだし、和田勉だし、と変に期待を抱いていたのも事実。 で、思ったのは、非常にうまく立ち回ったなという感想。ドラマの質の話でなく、そこに映される被写体、ここでは江戸前期の姫路なのだが、それをそれらしく映しきれていない。うまくやったというのは、映像が焦点を絞っているというのか、意地悪に言えば、現代の電信柱などが映らないように、人物のアップしかしていないということ。まあ、ドラマで製作費に限りがあるなかで、江戸時代の雰囲気を出すには、局所を映さざるをえないのだが… そして、局所や人物のアップをしなくてはいけないからと、そのように撮ると、作品が非常に狭いものとなる。正直、今回の作品はどこが舞台なのだか分からない、無機質な無特色な風景が背景となっていた。姫路であるというので姫路城の映像が映るのだが、何の脈絡もない姫路城だった。 人物のアップになれば、必ず露呈するのがインチキなのだが、この作品でインチキは目立たなかったが、カツラや小道具に粗が目立った。前にみたドラマ、これは大映の美術陣が美術を担当していた『女牢秘抄』という江戸時代の作品だったが、美術の仕事にぬかりはなく、アップに充分耐えられる考証や仕上がりだったと思う。 まあ、こんなとこに目がいくのは、ドラマにひとつ求心力が欠けているためだと思う。もしくは、ぼくがお夏清十郎の物語に深くかかわったからかも。いずれにせよ、ささいなところで物足りないところはあっても、充分に楽しんで見られた作品であったのは確かだ。と同時に、ここはまずいんじゃないか、ぼくだったらこうする、これはおもしろい処理だ、なんて考えながら見ることのできた作品だった。 これはすなわち、ぼくのなかでお夏清十郎の物語が確固たる地盤を築いたということで、何気にぼくは喜んでいる。こんなふうにして、演劇に育てられていくんだなと。