「いまどきの若い者は…」ということばはよく聞かれる言葉だが、年長者がそう思う気持も分かるし、かといってそれを肯定するわけにもいかない。
シーボルトと鳴滝塾の伝記を読んでいるが、シーボルト自身若いなかで、もっと若い人がシーボルトを師と慕って集まり勉強する姿に、とても美しいものを感じるのだ。
スタニフラフスキーも、後年は若い俳優と仕事をするのを好んだ。
ソクラテスも町の若い者をつかまえて、議論を吹きかけたものだ。
昨日の演劇の講座で、終了後、講師のもとに質問に行っていた女性3人がいたのだが、ちらちら聞こえてくるところによると、大学生で、今後の自分の進む道を模索しているようで、そういった趣旨でとても熱心に、また、尊敬のまなざしで講師に質問していた。
こんな光景を見るのはうれしいことだな。美しい。こういった熱心さを見受けられる世代といえば、ぼくの経験では、圧倒的に若い世代なのだ。しかも、10代後半から20代前半。もちろん70近くの方でもこんな方はいるが、圧倒的に多いのは「近頃の若い者」なのだ。
こういう光景、滅多に見られないとは言わないけど、それほど多く見られるわけでもないだろう。
こういう探究心と迷った心が素直に表れている人も一部分、とても奇抜な格好で人の気を引く人も一部分、悪い犯罪をする人も一部分であるなら、いちがいに、ひとくくりに、「若い者」ということばで定義・断定することにためらいを感じる。
少なくとも、熱心な、素直な姿で、大人と子どもの間をうろうろしながら生き方を探している「若い人」を見ると、この世代にしかない美しさ、特権のように思えてくる。
案外こんなとこにしか、停滞を打ち破るような革新的な萌芽というのはないのかもしれない。そこまで極端でなくとも、行き詰ったら、自分たちだけでなく、年長者にも若い人にも教えを請うのがいいのかもしれないな。
ある程度の経験を積んだ人にとって、威張ること、自足すること、正当化することは、自分の首を少ずつ絞めるもののように、ぼくには思える。
「教えを請う人」になり続けるのも悪くはないんじゃないか?
シーボルトと鳴滝塾の伝記を読んでいるが、シーボルト自身若いなかで、もっと若い人がシーボルトを師と慕って集まり勉強する姿に、とても美しいものを感じるのだ。
スタニフラフスキーも、後年は若い俳優と仕事をするのを好んだ。
ソクラテスも町の若い者をつかまえて、議論を吹きかけたものだ。
昨日の演劇の講座で、終了後、講師のもとに質問に行っていた女性3人がいたのだが、ちらちら聞こえてくるところによると、大学生で、今後の自分の進む道を模索しているようで、そういった趣旨でとても熱心に、また、尊敬のまなざしで講師に質問していた。
こんな光景を見るのはうれしいことだな。美しい。こういった熱心さを見受けられる世代といえば、ぼくの経験では、圧倒的に若い世代なのだ。しかも、10代後半から20代前半。もちろん70近くの方でもこんな方はいるが、圧倒的に多いのは「近頃の若い者」なのだ。
こういう光景、滅多に見られないとは言わないけど、それほど多く見られるわけでもないだろう。
こういう探究心と迷った心が素直に表れている人も一部分、とても奇抜な格好で人の気を引く人も一部分、悪い犯罪をする人も一部分であるなら、いちがいに、ひとくくりに、「若い者」ということばで定義・断定することにためらいを感じる。
少なくとも、熱心な、素直な姿で、大人と子どもの間をうろうろしながら生き方を探している「若い人」を見ると、この世代にしかない美しさ、特権のように思えてくる。
案外こんなとこにしか、停滞を打ち破るような革新的な萌芽というのはないのかもしれない。そこまで極端でなくとも、行き詰ったら、自分たちだけでなく、年長者にも若い人にも教えを請うのがいいのかもしれないな。
ある程度の経験を積んだ人にとって、威張ること、自足すること、正当化することは、自分の首を少ずつ絞めるもののように、ぼくには思える。
「教えを請う人」になり続けるのも悪くはないんじゃないか?
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