友人の芝居を見てきた。
今日は雨があがってむしむししていたせいか、気分がすぐれなかった。その悪い心を吹き飛ばすような芝居ではなかったので、むっつりしながら家路についたのだった。
思うに、あまりおもしろいと思えない芝居をみたときに、それに出演している友人にどう話しかけるか、どう対処するかは、今さらながら、重要なことに思える。その場をうまく切り抜けるというより、不快感や不満足をどのように処理して、気持ちよく別れられるか。誰も、不快のままいたいものではない。しかし、よくないものをよいともいえない。そんな葛藤がありながら、押し黙ることでしか表現できない。
赤の他人の芝居だったり、友達連れで観劇したりするのなら、おもいっきりその芝居をこきおろすか、話題を別に逸らすこともできる。こきおろすといっても、自分のなかで、観たものを整理して、こんな芝居など絶対やるまいという心のよりどころを作るだけで、別に、嫌みたらしく悪い宣伝を流すことでもない。そういう意地悪みたいなのをしたこともあったけど、どうせ誰もきくものじゃない。悪い口コミより、良いという口コミのほうが伝わるものだから。
芝居をみているなかで、印象を悪化させるさまざまな要因があるわけで、それがたまたま重なった公演だったと慰めようか。
今日は、むしむししていたし、心もどこか陰に入っていたし、公演会場の雰囲気・接客も気持ちいいものでもなかったし、なにより、後ろのお客さんがおしゃべりな業界人で、その態度に心がかき乱されていたのかもしれない。
そのお客さんは、20〜30代の女性の、演劇の主宰者か劇作家だと思う。顔は見ていない。話の内容からそう判断した。とりわけ不快になったわけでもないが、業界用語を奮発させて、鼻にかかった話し方というものは、ぼくには苦手らしい。話の雰囲気からして、話し相手の女性は困惑していたような声のトーンであったように思えた。
帰りの電車のなかでも偶然、演劇関係者がお話しをしているところにでくわした。こちらも、ぼくは後ろ向きで聞いているだけだったが、男性二人組は、声を張り上げるでもなしに、自分の身の周りのこと、演劇のことを話していた。その話しぶりは不快を与えるものではなかった。
さきほどの女性二人組との違いは、どうやら、話のトーンというか、話の対象が、拡散しているかそうでないかということのようだ。別に意図的というわけではないだろうが、女性二人組のうちの一人の女性は、話をしている意識が話し相手でなく、周辺の2〜3メートルにいってしまったのだろう。人に聞かせるかのような話しぶり。その話しの内容も、自慢話というか、私はここを知っているのよといった宣言のようなものであった。それだから、受け手のもう一人の女性は、困惑しているように、ぼくには思えたのだろう。そりゃそうだな、二人で話をしているのに、話し相手は自分以外の人にも意識を拡大させているのだから。
ま、こんな要素もからみながら、芝居を観てしまったというわけだ。
そこで、今日はそんなエピソードからの教訓。
「話しかける対象をしっかりもて」
俳優の技術の基本だね。俳優の技術というものは、日常生活そのものだということだな。いいかえれば、芝居をやることは、日常生活をもう一度問い直すいい機会だということ。
今日は雨があがってむしむししていたせいか、気分がすぐれなかった。その悪い心を吹き飛ばすような芝居ではなかったので、むっつりしながら家路についたのだった。
思うに、あまりおもしろいと思えない芝居をみたときに、それに出演している友人にどう話しかけるか、どう対処するかは、今さらながら、重要なことに思える。その場をうまく切り抜けるというより、不快感や不満足をどのように処理して、気持ちよく別れられるか。誰も、不快のままいたいものではない。しかし、よくないものをよいともいえない。そんな葛藤がありながら、押し黙ることでしか表現できない。
赤の他人の芝居だったり、友達連れで観劇したりするのなら、おもいっきりその芝居をこきおろすか、話題を別に逸らすこともできる。こきおろすといっても、自分のなかで、観たものを整理して、こんな芝居など絶対やるまいという心のよりどころを作るだけで、別に、嫌みたらしく悪い宣伝を流すことでもない。そういう意地悪みたいなのをしたこともあったけど、どうせ誰もきくものじゃない。悪い口コミより、良いという口コミのほうが伝わるものだから。
芝居をみているなかで、印象を悪化させるさまざまな要因があるわけで、それがたまたま重なった公演だったと慰めようか。
今日は、むしむししていたし、心もどこか陰に入っていたし、公演会場の雰囲気・接客も気持ちいいものでもなかったし、なにより、後ろのお客さんがおしゃべりな業界人で、その態度に心がかき乱されていたのかもしれない。
そのお客さんは、20〜30代の女性の、演劇の主宰者か劇作家だと思う。顔は見ていない。話の内容からそう判断した。とりわけ不快になったわけでもないが、業界用語を奮発させて、鼻にかかった話し方というものは、ぼくには苦手らしい。話の雰囲気からして、話し相手の女性は困惑していたような声のトーンであったように思えた。
帰りの電車のなかでも偶然、演劇関係者がお話しをしているところにでくわした。こちらも、ぼくは後ろ向きで聞いているだけだったが、男性二人組は、声を張り上げるでもなしに、自分の身の周りのこと、演劇のことを話していた。その話しぶりは不快を与えるものではなかった。
さきほどの女性二人組との違いは、どうやら、話のトーンというか、話の対象が、拡散しているかそうでないかということのようだ。別に意図的というわけではないだろうが、女性二人組のうちの一人の女性は、話をしている意識が話し相手でなく、周辺の2〜3メートルにいってしまったのだろう。人に聞かせるかのような話しぶり。その話しの内容も、自慢話というか、私はここを知っているのよといった宣言のようなものであった。それだから、受け手のもう一人の女性は、困惑しているように、ぼくには思えたのだろう。そりゃそうだな、二人で話をしているのに、話し相手は自分以外の人にも意識を拡大させているのだから。
ま、こんな要素もからみながら、芝居を観てしまったというわけだ。
そこで、今日はそんなエピソードからの教訓。
「話しかける対象をしっかりもて」
俳優の技術の基本だね。俳優の技術というものは、日常生活そのものだということだな。いいかえれば、芝居をやることは、日常生活をもう一度問い直すいい機会だということ。
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