スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(グルッポ・テアトロ)が付いた投稿を表示しています

お〜い、生きていたかぁ〜

おっと…久しぶりの投稿ですね。 これだけ間を空かすとなるとねえ。どうですかねえ。 今はグルッポ・テアトロでチェーホフ作「三人姉妹」に取り組んでいます。読んでいるぶんには面白い作品なのですが、いざ上演するとなると、しかもこの現代の問題意識に照らしあわせて上演するとなると、いろいろやらなければいけないことが多いんですよね。 でも、役者と協力してうまく進んでいます。老若男女、強力なメンバーです。 三人姉妹ブログのほうも開設しています。 グルッポ・テアトロ「三人姉妹」 ぼくも書いていますし、役者さんも書いてくれますね。ぼくが書くとどうしても堅苦しくて…困ったもんです。 このブログも復活しましょうね、はい。 また、堅苦しいこと書きましょう!ヾ(゚д゚;)スマソ

舞台『宮城野』への出演

これまた久しぶりに更新することになったものだ。前回書いた舞台「カズオ」への出演は3月末には終わったので、1ヶ月近くも何も更新しなかったことになる。反省も含めて書き進めるが、また告知というかたちになってしまった。 6月に舞台への出演が決まった。劇作家・矢代静一の作品で、『宮城野』という題名の戯曲である。矢代静一の作品はとてもなじみがある。前に『黄昏のメルヘン』という彼の作品に取り組んで、共演者・仲間の情熱と、作品の清らかさのおかげで忘れられない公演となっている。今回この出演の話が来たときは、ふたつ返事で承諾したものだ。 作家は人生をかけてひとつのテーマを追求しているのだなあと思わせるような矢代静一の『宮城野』。矢代の他作品にも共通する「清らかさ」「愛」「信仰心」、逆に「人間くささ」「貧しさ」なども随所に見え隠れする。 『宮城野』は江戸後期の浮世絵師・東洲斎写楽らしき人物が関係する。写楽自体は劇には出てこない。宮城野と矢太郎という男女2人のふたり芝居である。写楽という名で描かれた浮世絵は超一流の作品なのに、人物像は謎に包まれていて、江戸時代から今日にいたるまで多くの研究家が追求している。 この作品は矢代の想像が多くの部分を占めているにせよ、さすがは劇作家、時代背景も地理もことばも人間関係も正確な裏づけがされているので、作品について調べれば調べるほど新たなヒントが出てくる。作家に限らず、演劇をする人にとって調べ物をすることは半ば必須で、ぼくにもそんな傾向が多大にあるので、知らないことを調査しヒントを導き出していく過程は、推理する探偵のようであり、この上なく楽しい。 さて、矢太郎という人物をどう演じられるか。楽しみだ。「公演は6月に」ということだけ決まっていて、正確な期日はまだ決まっていない。今後またお知らせすることになりそうだ。期待してください。

舞台“カズオ”に出演

「カズオ」という作品に出演することが決まった。2月の半ばに、以前お世話になった友人の招きで、出演してみないかとの話があった。話は急展開で進み、稽古の途中から参加することになったのだった。主催は“ユニット由”。「カズオ」は、永井愛が84年に執筆した劇作品。演出は、しままなぶ氏。2009年3月26日〜29日。池袋GEKIBAに於いて。 稽古に参加したのは、ある程度進んでからだった。はじめての稽古は台本の内容も把握していないなかでだったが、今ではだいぶ台本を理解できるようになった。自分が演出した作品でも途中参加の俳優には気をつかったものだった。 共演者は藤本しの、山縣よう子。藤本さんとは初顔合わせ。山縣さんは、ぼくが以前所属していた劇団の先輩だった方。山縣さんから声をかけてもらい、今回の公演に参加することになったわけだ。演出の“しま”さんとも初顔合わせ。 永井愛の「カズオ」は、女優2人がさまざまな役を演じながら話が進んでいく。時代背景は1983年あたりと推測される。永井氏の初期の代表作。氏の筆づかいはこのときから達者で、しかも、その当時の社会背景を色濃く描写しており、ふたりの役者によって演じられる人たちの喜び・悲しみ・欲望・習慣などが的確に描写されている。 今回の上演は朗読劇というかたちをとるが、台本とにらめっこするような舞台ではない。適度にうごき回りながら、人間模様を演じていく。ぼくの役は、いわゆる“ト書き”を語る人、司会進行役。少し意味合いは違うが“みのもんた”や“大沢悠里”がおこなっていることか。 役者として舞台にあがることはないと思っていたなかでの、まさかの舞台出演。苦しみながらも楽しんでいる。演劇へかかわる方法はいくらでもある。役者という、以前と同じ方向からの接し方だが、接近の仕方は変化していて、その変化も楽しんでいる。いい舞台をつくりたい。

玄朴と長英 終了

公演は終了いたしました。 応援くださった方、ありがとうございます。 思っていたよりも、お客さんの数が多くなりました。 役者・スタッフと、お客さんにも支えられているのだと実感できたよい週間でした。 それと、いつも、公演の終わりには、もの寂しいなにかが残るのはぼくだけかな? 一番最後にさよならを言った後に、自分一人だけになる時間。 日常の生活よりもいろいろなイメージが頭をよぎる瞬間です。 公演終わりは、いつもいつもそんな時間があるのです。 そして何気に感傷的なので、自分では気にいっているのですが、生活的には何もしないで怠惰になっている状態といえるでしょう。 なので、あらかじめそれを見越して、公演の後始末のスケジュール以外にも、仕事をいくつかいれておきました。そうでもしないと、いつまでも長期休暇をとってしまうのがぼくの悪い癖。 心地よい朝の夢の反芻と同じことでしょうな。 さて、また日常のリズムに戻るのだけど、去年の暮れより虚脱感はない。 というわけで旅に出よう。出られるかな?きっと無理だろうな。何かしらの予定が入りそうだからな。

ささやきは何になるのだ!?

いやはや、ささやきは遠音になるどころか、「ささやきは無音になる」とか、「ささやきは途絶えて」といった感じですな。ここまで放置すると、雑草が覆い尽くしそうだよ。 ええ、公演の稽古で、とういのは言い訳に近いね。 ま、でも、また紹介しておきます。 グルッポ・テアトロ公演 「玄朴と長英」 2008年9月19日〜21日 於:中板橋新生館スタジオ 料金:予約・前売2200円、当日2500円、ほかいろいろと割引がありますよ。 グルッポ・テアトロの 「玄朴と長英」特集ページ はこちら そして、 チケットご予約 はこちら ちなみに、演劇です、念のため。 また、公演のためのブログもやっていて、その記事作成もあって、こちらの「ささやき」は「風に消されて」しまっているのです、きっと。 公演ブログの更新も、実は、ゆったりとしたペースなのですけどね。 自分にムチ打って、書きましょうね。安易な休息は取らない。はい。 公演ブログ 玄朴と長英 〜愛しくも、憎らしく〜 お待ちしておりま〜す。

グルッポ・モバイル(携帯グルッポ)

久々の更新ですな。どちらへ行かれていたのかな? まず、グルッポ・テアトロのことを書いておこう。 携帯電話用のホームページを作りました 名称:グルッポ・テアトロ モバイル 愛称:グルッポ・モバイル もしくは携帯グルッポ 左記のQRコードで、バーコードを読み取ってください。 URLを手動で入力される方は http://www.gruppoteatro.net/を入力してください。ちなみに 携帯ページ もパソコンで見られますが、見づらいです。 玄朴と長英のブログ にもその情報を掲載しました。そちらのほうが詳しいな。 ホームページ にはもちろん掲載しましたよ。 携帯用のHPの売りは、ニュース配信。 ニュースなんてあるのかと、出演者に言われましたが、ニュースは作るもの。結構、ネタがあるんだな、注目してみると。 はい。今日はここまで。 しかし、ブログやって1年3か月くらいで、初めての画像の出現ですね。 絵文字も極力使わずに、文章だけの堅苦しいブログ。しかもはじめての画像が機械的なQRコードというのも、馬鹿にしてるのかと怒られそうだけど。 とりあえず、初画像!!

と・も・だ・ち

一日一日が過ぎて行く。当然のことだが。 風邪をひいてから完全には回復していなくて、万全というわけではない。 身の回りのことも、劇的ではないが、微妙に変化してきている。いい兆候かもしれない。 忙しい日々も徐々にやってきて、その忙しさが快感なのかもしれない。 意識もいろいろなところに拡散していて、その慌ただしさが良かったりする。 睡眠時間も徐々に規則的になってきている。 なんだろうな。 ひとりの人間が分からなくなるときがある。普段から会っている人もそうだし、一年に一度しか会わない人もそうだし。その人と自分がどんな関係なのかななんて考えたりする。 三年に一度しか会わなくても、気持ちよく会える人もいる。毎日顔を合わせていても、微妙な距離感を保って接する人もいる。深く話し合えばそれが解消するかというとそうでもない。かえって、何だこの感覚は!と思うほど、すんなり打ち解けられる人もいる。 人を分かろうとする努力をどこまですればいいのか、なんても考える。結構ぼくなんかは、分かろうとしないように見えるらしいし、実際、付き合いがうんざりするときもある。話し合えば分かるというのでもない。話の表面に出てくる浅薄な言動なんていくら交わしても深く知ることにはならない。 あえ距離を取りながら、深くその人を尊敬するということもある。距離が近くなって、おもしろくないところを見たくはないのだ。 友達っておもしろいね。 あと2年も過ぎれば、今の混沌も整理されて、人を少しは深く知ることができる。そのかわり、また新たな混沌がやって来るのだろうが。 玄朴と長英。ふたりは、実際は取り立てて仲の良い人ではなかったらしい。その接点も見出しにくいのかもしれない。 しかし、いざ二人を同じ土俵に乗せてみると、おもしろい対比とともに、共通するものが見いだせる。人生への確固たる指標だ。 玄朴と長英の稽古も続けながらいろいろ考えた。それは俳優をやっていたときからそうだった。自分が今取り組んでいる戯曲の主要なテーマや出来事が、自分の人生を考えるいい契機になっているなと。つまり、自分が取り組んでいる戯曲に、少しではあるかもしれないけど、影響されているのだなと。 そんな影響というものがなければつまらないよな。同じように、お客さんも、観に来た演劇にそれを求めているのかもしれないと思うと、うか...

歴史探訪

暑い… ふう… そんななか、グルッポ・テアトロの「玄朴と長英ツアー」として、東京都心を練り歩いた。宮川知久さんと栗栖正二さんと三人で。 前の「お夏清十郎」のときも姫路に旅行したが、今回は舞台が江戸ということで、東京に見るべきところがあるので東京都心を見て回った。この暑さから、姫路に行った時を思い出した。あれは8月10日くらいだったかな。暑い中歩くことが必要らしいな。 詳しくは 公演ブログ に書いておきました。ご覧ください。 前に、あるプロデューサーに研究旅行の話をしたら、「じゃあ、竹取物語をやるときは、月まで行くの?」なんて嫌味を言われたが、きっと暑い中、月まで行くんだろうな、わたしたちは。行ってやる。というか、まったくの創作芝居でない限り、実地調査はするべきだろうな。芝居をつくるのに、即席で作っているわけじゃないのだから、取材は必要なわけだ。取材しない記者なんて聞いたことないだろ。 真山青果が綿密に史実を調べ上げ書いた戯曲「玄朴と長英」を、芝居の範囲だけで処理するのは作家に失礼。最善を尽くすのにさまざまな方法を使うのは、戯曲を上演させてもらう人の良心でしょ。どんな忙しくても取材をする、作家や演出者や俳優などを、ぼくは尊敬する。作品にそれが表れるから不思議だ。 それにしても暑かった。秋葉原や表参道など、人通りの多いところも汗だくになりながら練り歩いた。疲れました。でも楽しかったな。 いくつかのいいヒントも発見したし。よしよし。

アタック

今日は蒸し暑いなか稽古に出かけた。 あっ、そういえば、稽古もう始まった。 玄朴と長英 (ホームページ) 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜 (ブログ) 稽古のやり方も、毎回趣向を変えてやっているのだけど、おもしろいね。いろいろなことが分かってくる。 出演者のひとりと、稽古方法のことですれ違いがあって、議論になった。 前回の「お夏清十郎」も、こんな感じで反発を受けた。理解してもらえていると思っていた人からも反発を受けたし。それは仕方ないことだ。いろいろなところで演技をしている人がいて、いろいろな方法論があるのだから。 しかし、確信犯だから、方法を変えはしない。そこらへんが頑固。でも、一番必要なのは、お客さんが見て、納得できるような人間らしい演技なわけで、役者の機嫌をとることではない。強引過ぎるとは思わないのだが、摩擦を生じさせることにかけては、ぼくは達者なようだ。 でも、結構、こちらもへこむもんなのだな。無傷で平気なわけではない。 方法が変わりすぎているわけでもないのにな… 説明が下手なのだろうか。人望がないのだろうか。 嫌われることも多いから、そうに違いない! サッカーの欧州選手権も見て思ったが、スペインの優勝だけでなく、戦術面つまりは訓練の仕方というのが、少し前とだいぶ変わったな。ああ、こうして進歩していくのだな。日本のサッカーも進歩している。 自転車のサイクルロードレース。これも、本質は変わりないにせよ、戦術やチームの国籍編成がだいぶ様変わりした。多国籍になり、多様な価値観の共存が求められる。 世界の演劇シーンも変わっている。テーマの扱い方がより先鋭的になってきた。50年前のシュイクスピア上演と、今のとでは、今の方が切り口は鋭い。おもしろいかどうかは、さまざまだが。 ぼくもできる限りの進歩はしたいと願っている。現代性をつかみたいから。そのために少し強引でも、最良と思える方法で進行してもいいんじゃないか。まだまだ未熟なのは知っているけど、安全な位置を取って、守りの演劇はしたくない。スペインのサッカーも、自転車ロードレースのセッラも、世界の演劇も、攻撃を仕掛けているのだから。 自滅する時は自滅する。それは能力に乏しいか、努力が足りないんだろう。攻撃しなければ勝てない、だから飛びだす。 こんなことを言って、自分を慰めているの...

お夏清十郎のDVD

体調が復調してきた。ここ2週間、風邪をひいてからずっと、マイナスの部分をうろうろしていたみたいだが、昨日からは、ゼロのあたりをうろうろしているようだ。普段の快調な生活を+5とすると、ゼロに近づいただけよしとしなければならぬ。よし! 昨日、「お夏清十郎」の公演のDVDを観た。あと少し編集してもらって、はじめて公開して、販売できそう。よかった。 久しぶりに観る「お夏清十郎」も良かった。そりゃ、もちろん、?と思うところもあるが、おおむね良いんじゃないかしら。俳優さんみんな生き生きしているし。あ、あんなこともしてたんだね、って。 ぼくは、忘れやすいというか、無頓着なところがあるから、少し前の公演を作る過程でどんなことがあったか、あえておぼえておこうとしないので、改めてDVDを見ると、わくわくするところが多い。しかも、もちろんだが、全員友達が出ているわけだ、興味は尽きることがない。 批判的な目で見てもらうのは、これから公開するとき。そのときは、どんな意見も参考にしなければな。 まったく自分の中だけでしかないけど、人脈っていいな、なんて思う。人にどう思われているかは知らないが、知りあって、何かしら一緒の道を歩んだ人には、特別な思いはある。つねにそんなことを考えているわけではないけど、ふとした時に夢に出てくる人もいておもしろい。あえて人脈を広げようともしていないし、そんな友達関係では、憎まれることや、不快感を与えることも多いけど、ぼくのなかではこんなふうに思っているわけだ。 明日から、「玄朴と長英」の稽古も始まる。かなりこじんまりとしたカンパニーにはなるが、戯曲の性質上仕方ない。小さい分だけ、小回りが利くのが利点で、実験的ないろいろな手法を試すこともできる。また、それに応えてくれる俳優も素敵だ。 公演ブログは こちら グルッポのホームページは こちら 最近、体調はよくなったにもかかわらず、睡眠の時間が不規則になって直らない。早めに眠ることができることを祈って、今日はここで終わる。

玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜

「いつのまにこんなになっていたか…」 ふと、こんな思いになるときがある。 おそらく、誕生日や自分の歳を振り返るときが一番こんな思いになるであろう。 自分の部屋にたまった塵や本やCDなどもそうであろうか。 自分の履歴書を書く時の経歴の多さもそれであろう。 今回、ぼくがこんな気持になったのは、このブログを含めて、5年前には触ることさえためらわれたパソコンを使っての用事が多くなったことである。 知っている人にとっては自明だが、ぼくは精密機械を操るような柄ではなかったのだ。しかも、意地を張って、触ろうともしなかったし。 携帯も前は持たなくても不便でなかったため、持っていなかった。 それが今では… 携帯は、なくてもそれほど不便を感じないが、パソコンは自分が運営するHPやらブログやらで、なければ話にならないほどになってきた。 これは、必要から迫られたことが、必要不可欠にまでなったことの、ひとつの過程でもある。 グルッポ・テアトロのためがほとんどではあるが、今では、PCで仕事もするようになったのだから。 で、振り返ってみたわけである。 このブログだろ。 グルッポ・テアトロのホームページだろ。 『お夏清十郎』のブログだろ。 mixiだろ。 それと、陰でこそこそ書いて、今は放置状態の、誰にも知らせていない、シナリオのブログだろ。 作成途中で、性質上完成しなければ告知しない、グルッポ・テアトロの携帯ホームページだろ。 演劇のサイトに登録して、記事を投稿したこともあったっけな。 で、今度追加されたのが、『玄朴と長英』の公演ブログ。 それの紹介をしますわ。 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜  (公演のブログです。) ふう。挙げてみるときりがない。 いつから、こんな子になったの…? いいんです。 どんなに悪に(?)手を染めても、染まりきらないから。 このネットでのいろいろな手法なども徐々におぼえてきているし。 でも、もともとが細密なネット構造に疎い人間だから、自分流の使いかたをしているにすぎないけどな。 あ、それと、 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜 は、玄朴と長英の公演の稽古などについて書いていきます。 この、「ささやきは遠音となって」はまったく私的なささやきというスタンスを貫き(?)、稽古場での愚痴でも書いてや...

『玄朴と長英』の音楽

『玄朴と長英』の公演のための打ち合わせをしてきた。音楽作曲を担当する若柳吉三郎さんとの最初の打ち合わせだった。吉三郎さんとは、『お夏清十郎』のときに初めて仕事をしたわけで、今回で2回目となる。 思えばぼくも幸せだ。公演の度に、というよりも、作品の度に、そこに内在する音楽を作曲してもらえるのだから。もともと、出来あいの曲にはその制作過程があり、それぞれの曲には曲自体の個性がある。だから、どんなに雰囲気が戯曲とあっていようが、楽曲は楽曲なりの世界を持っている。松任谷由美の曲が戯曲にふさわしくても、バッハのピアノ曲がふさわしくても、ワーグナーのタンホイザーがふさわしくても、似通っているというだけで、戯曲そのものの楽曲とは言えない。 黒澤明がビゼーの有名曲を作曲家に提示しても、その曲そのものを映画に使いたいのではなく、作曲家から音楽を引き出したいのだ。 出来あいの曲が演劇にふさわしいことはある。でも、作曲家が公演ごとに戯曲と向き合い、作曲するというのが、一番良いことであることは変わらない。そういった意味でぼくが、またしても、作曲家と『玄朴と長英』のための音楽を紡ぎだせるというのは、幸せにほかならないのだ。 2度目とあって、最初に仕事をしたときとは違って、一歩も二歩も進んだところからスタートをきれたのが嬉しい。チームを作るというメリットはこういうところにあるのね。初期段階の細々とした誤解や不理解というものを飛び越えて、より創造的な段階に近いところから始められる。共同作業の良さである。 また、吉三郎さんも、ぼくも進化しているように思えた。意見や戯曲の印象も一致する点が多く、何かが生まれやすい土壌づくりができたと自負している。思えば、『お夏清十郎』のときは、コミュニケーションも苦労した。共通言語を持っていなかったためだ。今回は違う。前の仕事がお互いの認識にある。これはやりやすい。また、仕事はじめとしてはかなり刺激し合えたとも思っている。 『お夏清十郎』の曲も素晴らしかった。少なくともぼくは愛している。『玄朴と長英』の曲もそういったものにしたい。 こんな仕事を続けていきたいと思っている。 若柳吉三郎さんは、ジプシーギターで数々のライブもやっている。そんな達者な、そして、かなり洞察力にも優れた音楽家に胸を借りられることを誇りとしたい。 リンクを貼ってお...

2つの刺激

今日は世田谷パブリックシアターのプロデューサーについてのセミナーに行ってきた。演出とはいえ、実際、プロデューサーの仕事もしているわけだから、知らぬ・興味ないじゃすまされず、勉強にいってきた。ぼくも考えていて、また、ある参加者もらしていたが、5,6人ぐらいしか集まらないのじゃないかと思っていたが、40人以上も集まって大盛況だった。 大学生の年代の若い人が多かったのが特徴で、みんな熱心に聞いていて、感心した。こういう情熱が大切だね。 まあ、話自体はちとまとまりがなかったのだけど、5回の講義なので、今後に期待。 ワークショップを企画しました。グルッポ・テアトロのホームページを見て参加してくださいね。 グルッポテアトロ〜橋ものがたり〜ワークショップvol.1 また、今日、かつての知り合いから絶縁状みたいなのがきた。むこうはかなりぼくを嫌悪しているようで、いろいろと恨み節を書いてきたが、ぼくのほうは何とも思ってなくて、自覚もないのだけど、前々からふたりの間には嫌な空気は漂っていたので、明らかになったことで、すっきりしている。 嫌われたり、陰口をたたかれたりは結構あったりするが、自分も同じことをしたりもするので、文句は言えまい。 ただし、こんな負の感情を持ち続けるのはいやなので、ぼくは本能的にすっかり忘れるものらしい。あっけらかんとしているのはそのためで、敵が何で怒っているのか分からないことが多々ある。明日には忘れるかな。 それにしても難しいのは人間関係だね。どうも、いろいろなことが習慣的になると、停滞してきて、陰口や嫌味や派閥ができてくる。集団に属しても、知らず知らずのうちに、小さいことで人を嫌ってしまったりもした。集団を抜けてから初めて、小さいことでくよくよしていたことが分かったことが何度あったか。 反対に、新しい刺激や精神に触れるというのは素晴らしいことだ。今日の制作セミナーなんて、どきどきするような新しい体験だった。年配の人も何人か来ていて、その挑戦と活力には尊敬さえする。こういった新たな挑戦をし続けることが、ぼくには必要なのかもな。 昔なら、今日の絶縁状がきたことで、精神的に参ってしまっただろうが、今は、そんなことはゴミ箱に捨てる勢いだ。でも、相手の言い分にも道理はあるわけで、不快感を与えたことは事実として認識しておかないと、ざらついた人...

バカ正月

ホームページを大幅に更新した。思えば、去年の正月もホームページの作成作業に追われていたな。まったく無知なところから、よく作ったサイトも、一旦は、パソコンの故障とともにデータがぶっ飛んだ。そこからよく再度サイトを作ったなとわれながら感心。今回の更新もかなり進んだ。 よかったら見てくださな。 グルッポ・テアトロ 実家に帰ってゆったりしていると、普段の忙しさや暇のなさが馬鹿らしく思えてくる。じっくりとやりたいことだけをやれるのが、こういった長期休暇の良いところだ。そういえば、大学時代の夏休みなんて、どれだけ長かったことか… 昨日ひそかに自分に課した課題、毎日戯曲やシナリオを読む、という日課は、早くも破られそうな勢いだ。だってこれから眠るのだもの。無理な計画はたてないにしても、早くも一日目で破られるのは、計画性や気力が無さすぎではないだろうか? まあいい。良い気がしてきた。こんな日は、やりたいことからやるべきだ。 フランスに行っていたころ、休暇になると、突如旅に出て行ったっけな。ある休みを最大限に利用する。普段の生活のスケジュールをたてるよりも、バカンスのスケジュールをたてるほうが楽しい。そうだ、楽しいことの計画をたてることだ。 ふと思ったが、今さらそんなことに気づくなよ! おバカな正月になってしまったらしい。 ふふふ。

お夏清十郎 終了

公演が終わりました。 ご来場まことにありがとうございました。 また、ご来場できなくても、応援してくれた皆様に感謝! どうもありがとう。 また、このブログを書きつづる日々が来るかと思うと、楽しくもあり、逆に、演劇に忙しいくらいの日々がよいのかもと思ったりの、複雑な気持ちです。 ほんと楽しかった。 そして、いい仲間といいお客様に恵まれて、ますます躍進していきます。 また、スタートをきります。 よしっ!

お夏清十郎

公演に入りました。 今日は、その宣伝ということで。 グルッポ・テアトロ 『お夏清十郎』 12月19日(水)19時開演 終了 20日(木)19時開演 終了 21日(金)19時開演 終了 22日(土)14時開演 終了 22日(土)19時開演 終了 23日(日)14時開演 終了 23日(日)19時開演 終了 24日(祝)14時開演 終了 ぜひぜひ観にいらしてください。 場所:東演パラータ 世田谷区代田1−30−13 下北沢駅より15分 お申し込みはこのgooのわたし宛のメールか、 グルッポ・テアトロ のホームページをご覧ください。 お待ちしております

気持ちのよいこと

今日は稽古がオフの日。しかし、やることはいっぱいあってオフにはならない状態ではあります。裏では舞台の生活が続いているわけ。 しかし、休みというのは気持ちのゆとりができていいですな。 ひとの誕生日が立て続けにあって、お花を買ったりするのだが、やはり花はいいなと思う。花屋で囲まれているだけで、心が癒されるようだ。昔、花市場でアルバイトをしたことがあったが、そのときは重い花を運んだりしていたのだが、それでさえも、花を扱っているだけあって、気分が悪いといったことはなかった。 音響の効果音を選択するために状況を想像するのだが、気持ちのいいものではある。たとえば、もうすぐクリスマスだが、ロシアの雪で覆われた野原から、犬ぞりで鈴をならして人が暖かい家にやってくると考えるだけで、情緒が感じ取れるのだな。 子供のころ、夜更けに、貨物列車が通り過ぎる音が遠くから響いてくるだけで、気持ちが落ち着いた。 『お夏清十郎』の物語も鏑木清方の絵を通して想像がふくらむし、思いをはせるだけで気持ちのよいものだ。そういえば、兵庫県の室津の港はとても静かで気持ちのよいところだった。 今日は暖かいし、休みなので、久々にここに文章を書く余裕が生まれた。気持のよいということから連想して、つれづれに書き綴りました。 公演、ぜひ観にいらしてください。 12月19日〜24日 東京・下北沢で 演劇『お夏清十郎』、真山青果の作品の上演であります。 詳しくは グルッポ・テアトロ ホームページ 向い通るは清十郎じゃないか (公演ブログ) お待ちしております

稽古・稽古・稽古

お夏清十郎の稽古も、順調に進んでいて、役者の考えてくるエチュードも発展してきて、いわゆるインスピレーションの領域に達しているものもある。荒削りではあるが、考えてきたこと、想像してきたこと、共同で話し合ったことが、活発に動き出したのである。やはり、インスピレーションが湧くには、燃料のたくわえが必要であり、役者の努力による積み重ねによるしかない。こういうエチュードが出てくると、ぼくも、他の仲間も刺激され、一段高いものに到達しようとする。 共同作業のよさである。 何度も言っていることだが、どうしても個人主義的に生活することに慣れてしまいながら、演劇の場でそういったチームワークの仕事に出会うと、普段の生活が物足りなく、なんと味気なく生きているものだろうと感じてしまう。 ちっぽけな自尊心や、ちっぽけな知識を打ち砕くような、チームの力、個々の努力と協調による創造を求めていきたい。そして、その輪をもっと広げて、もっと緊密にしていきたい。個々人に要求すること、ぼくの努力も、もっとハードルを高くしていきたい。 いやあ、また、似たような文章を書いてしまった。 こんな能天気な文章だが、今は具体的な作業に直面しているときで、正直、課題や作業量はまだまだ山積みだ。満足はしていない。満足する要素があることに、可能性を見出しているわけで、それはいくぶんぼくの楽天的な思想の顕れでもある。やるべきことをしなかったために後悔はしたくない。だから、今からでもいいからやる。役者にやってもらう。 ふう! つまらんことを書いている。 よし! 寝る! 向かい通るは清十郎じゃないか お夏清十郎の公演

チームワーク

少し前に何度も何度もかみしめて読んだ本がある。 橋本忍の『複眼の映像』。黒澤明の映画での共同執筆について、橋本が振り返った好著だ。 橋本はとくに、『羅生門』『生きる』『七人の侍』について詳しく書いている。 ライター先行型の共同脚本という執筆方法。先行ライターが叩き台となる第一稿を書き、第二稿に修正し、それを複数のライターが同じ場面を用意ドンで書き始めるのだ。一番よくできたライターの稿や、よくできた部分を混合し、決定稿ができあがる。 手間と時間がかかるが、本当の意味での共同作業、チームワークのたまものなのだ。脚本は映画の根本であり、そこにかける時間と労力を惜しんではいけない。 自転車のロードレースもチームでの仕事だ。コースの脚質にあった選手を勝たせるべく、風除けになったり、引っ張ったり、戦術的に先を走ったり、水分の入ったボトルを取りにいったり。 はじめからチームのスポーツであり、選手の勝利はチームの勝利でもある。 ラファエロやミケランジェロなどの天井や建物に描いた絵画も、もちろんチームの仕事であり、名が残るのはラファエロであっても、そこには多くの弟子たちの作業と喜びが隠されているであろう。 稽古をはじめて、チームワークの必要さが、前にも増して感じられるようになった。15人くらいの眼が、心が、頭が集まれば、かなりの可能性が生まれる。個人の認識の範囲をまたたくまに超えていくのだ。いわば集団としての観察であり、思考であり、感受である。毎日が驚きの連続である。ちっぽけな限度を破られる快感だろうか? そして、まだまだその可能性を広げることができる。チームワークとは、ひとりひとりがそれぞれ手を抜かず、自分なりのやり方で、周囲を気遣いながら、上へ上へと目指すものだろう。芸術の創造過程で遠慮はいらない。激しくぶつかりあうくらいのエネルギーをもったやりとりが、そこで交わされたとき、真のチームワークが生まれるから。 頑張ります。 向かい通るは清十郎じゃないか (お夏清十郎公演ブログ)

お夏清十郎の病

芝居の稽古をしている。 公演のために稽古をするということは、一種、ある熱狂状態に陥るかのようであって、楽しいのはもちろんだが、一方では、ある感覚が麻痺することでもある。その感覚とは、日常生活のリズム感とでもいおうか、芝居以外の生活習慣を忘れてしまい、すべて芝居に従属させてしまう。そんなふうになると、稽古以外の時間も稽古のための準備になってしまい、テレビを見ても、人と会っても、ひとりでいても、劇の状況を思いだしたり、劇に結び付けて考えたり、情報の収集を無意識に劇の要素だけにしたり、ようするに熱狂・恋だ。 今度の劇が、恋が中心の物語であることあり、二重に恋の状態に陥っているかのようだ。こうした演劇病は、それでもやはり、バランスを欠いている状態にほかならない。もしくは、ある別次元の均衡を見つけ出しているのか?だからこそ、熱が収まったときの心の揺れが激しいのだ。役者の卵だけの病気かと思っていたら、これは一生続くのね・・・ 自分がそこまで一生懸命になれて、あるものに打ち込めることに驚き、感動する。自分を再発見することでもある。 こんなことを綴らざるをえないぐらいの状態なんだな、今は。いつまで続くか、途中で息切れするかもな。もしくは、もっと高熱になるかもしれない。 今はこんな文章しか書けないな・・・ あとで読み返すと恥ずかしいかも。 だってこれは、「演劇に恋をしています」と白状して、それがもろに表情・しぐさに表れているようなものなんだから。 一緒に作り上げる仲間、スタッフも含め、そんな恋をする状況にあると思うのは、ぼくだけか?いやいや、みんなそんな兆候が表われているように見受けられるが・・・昨日稽古にいらっしゃった、音楽の若柳吉三郎さんに夕方に会ってきたのだが、吉さんも昨日の稽古風景を楽しく反芻して語ってくれていた。 もう伝染病の類だな。 がんばろっと!!! 向かい通るは清十郎じゃないか (今回の公演用のブログね!)