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6月, 2007の投稿を表示しています

ファルスタッフ

その瞬間、舞台と観客席は一体となって、ファルスタッフを河の中に落とした。まさしく共犯的な笑いを浮かべて、喜んで拍手喝采した。今夜の新国立劇場でのオペラ公演『ファルスタッフ』での出来事だ。
舞台の観劇が多くても、こういった瞬間は必ずしも多くないもので、だからこそ、今夜それと出会えたのが嬉しかった。

J.ミラーも、この作品を4度演出しているようで、作品を手馴れた扱いをしていたと思う。余裕をもって演出しているようで、その余裕がファルスタッフの体をきつい衣装に包まなかった。遊びがいたるところに散りばめられ、その小細工を思い出すだけでも楽しい気持ちになる。舞台が細部の楽しげな印象とともに記憶に残るのは、演劇の幸福な体験だ。感覚的に目に残像として残るだけでなく、語ってみたい気持ちになるほどのかわいさをもった舞台のきれはし。
それが見事にはまったのが、冒頭にあげたファルスタッフを河に投げ込む場面だ。

舞台美術もからくりのようでおもしろかった。ただし、最終幕の森の中の美術はおおざっぱすぎて機能を果たしていない気がするが。
特に、二幕のフォード邸の装置は、いろいろな仕掛けや場面が集約されていて空間がすんなりと意識に入ってくるほど秀逸だったと思う。

一幕の二場のアリーチェとナンネッタの二重唱はとても美しかった。ナンネッタ役中村恵理のソプラノはまるでハーモニーのように透き通って聞こえたから不思議だ。普通、ソプラノがキンキン高い音で耳障りにも自己主張する印象がぼくのなかにはあって、あまりソプラノを好きでないのだが、ここでの中村の歌は心の琴線を確かにとらえた。カーテンコールでもひときわ拍手が大きかったのが彼女だった。納得のいく話である。

ほんと良いものを見せてもらったという感じだ。ミラーの演出はくっきりと輪郭があって、豊富な発見の機会を提供してくれたし、オーケストラ・指揮も音楽で演出をしっかりしていたと思う。演技と音楽が表裏一体のように結びついていたのが驚きだった。ヴェルディのスコアやボイドの台本のできばえもあるのだろうが、ひとつひとつの行動に音楽が寄り添う印象があり、だからこそ、場面に輪郭がはっきり浮き出ていたのだろう。この公演は成功だと思う。

といって、不明瞭なところ、これはどうかと思ったところを書かないと、賛辞だけになってしまうので、言っておく。3幕のラスト、つまり劇全体の終わりの、…

高原の眠り

ふと思ったことがあって、それを書く。

眠りということ。今、目を閉じて今朝見た夢を思い出していたら、すーっと眠りに落ちそうになった。それが、過去の記憶で、高原や山の上で風に吹かれて心地よい眠りに落ちたときのような、それと同じような眠りだった。
こんな気持ちのいい眠りはあまりない。

そこで考えた。普段の眠りと高原での眠りとの違いはなんだろうか?アルファ波とかレム睡眠とかなんとかがかかわっているのだろうか?
高原での眠りは意識が空に拡散するかのような軽いもののような気がする。
普段の眠りはごつごつ固い塊のような気がする。
眠気からさめたあとの心地よさにも違いがある。高原での眠りのほうがさわやかだ。

眠っているときの周りの環境も影響するだろうな。風に吹かれて、快適に眠れる気温のときのほうが気持ちいいだろうし、雑音があまりないほうが気持ちいいだろう。普段の眠りは夜とはいえ、家の中だし、眠り自体に生活感があるから。短い眠りが気持ちいいのかもな。それと、なんのしがらみも、不安もない眠り。そう、ふと居眠りしたときのような。

ここからはなんの結論も導きださない。決着をつけたがる悪い癖があるから、なんにでも答えを出そうとしてしまうが、ここは辛抱。
つかの間に、意識の拡散するような高原での眠りを、高原に行かないで体験できたことを幸せとしなければいけない。こんなときだな、眠ることが楽しく思えるのは。

歴史の悪趣味

数日前に観た劇団東演の『恋でいっぱいの森』のパンフレットに、福田善之氏の文章で、芥川比呂志がヴェトナムで枯葉剤をまかれるマクベスの劇をやりたい、と書かれていた。劇の最後の場面はその演出かと思ったのだが、それは別にして、枯葉剤ということばがずっと気にかかっていた。

ピンターの本には、アメリカ政府が自分の膝元の中米の国々を侵略してきた経緯が書かれていて、アメリカに反対する勢力の対抗勢力に武装援助をしてきた歴史が書かれている。
今日はミラン・クンデラの『カーテン』(集英社)のなかで、チェコという国がソ連にいわば併合された歴史を語っている。
大国の横暴なやりくちが気にかかっていた。

昨日だったか、自転車で街を走りながら、ふと思った。もしかして頭上からぼくを狙撃する人間がいたら、ぼくは逃げられるだろうかと。ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』でないけど、あんなふうにいきなりぼくを襲うものがあったとしたらどうしようと。少しの時間ではあったが、気になった。

そして今日の夕方、テレビのニュースで知ったのだった。コロンビアとエクアドルの国境近くに、コロンビアの麻薬組織のアジトがあり、それを狙うために、コロンビア政府とアメリカ政府で、空中から枯葉剤を散布しているのだ。しかも2000年から。枯葉剤が地上から高い位置で散布されるため、また、高濃度であるために、風邪にのってエクアドルの住民がそれをまともに浴びている。農産物だけでなく、人間にも浴びせかけているのだ、しかもそれが麻薬撲滅といった大義の名目で。

まさかと思うことが平気に行われている。
核兵器だって使われないとは言い切れない。
クンデラに言わせれば「歴史の悪趣味」か。
特攻隊だって復活するかもしれない。

かっと目を開いて、世界を監視しなければいけないな、わたしたちひとりひとりが。

cf. 恋でいっぱい(?)の森
ハロルド・ピンターはこう語った

異化について

以前、ぼくは詩を作っていた時期がある。今から、10年くらい前だ。そのときは何かひらめくとすぐにメモをとり、その言葉や意味を記憶させようとしていた。たいていそんなひらめきは使い物にはならなく、後々見かえしても何を意味しているのか分からない理解不能な単語も登場する。書き連ねている瞬間だけに通用する興奮をともなったひらめき。

詩を作っているときは特に考えたのは、日常的な感情や考えの単純さをどうやって輪郭づけして際立たせるかということ。普段なら自動的に連想してしまうイメージを遮断して、別の象徴的なイメージに結びつけるかということ。何気に難しいんだ。人間、何の気なしに、無意識に自分の経験や過去のイメージを保存しているようで、そこにたどり着くのを安心し、安住してしまう。言葉遣いもマニュアル化してしまう。そこをいかに断ち切るかにかかっている。

なんでこんな話を持ち出したかというと、異化ということばに引っかかっているからだ。演劇の世界では異化といえばブレヒトにいきつき、そのブレヒトの異化理論というものの有効性を確かめたい。
異化、つまり特殊化。強調。距離を置くこと。非日常化。

インターネットで時折音つきのサイトがあり、そこを開いたときに、はっとする。それも異化というべきか。
和やかな談笑の場に、深刻な顔をした人が入ってきて、ある人の亡くなったことを告げる。そんなときも日常的な次元から急速にある次元に飛んでいく気がする。これも異化だな。
通勤途中に見たのだが、急な坂を上っていた自転車がいきなり、ぐにゃ、と崩れ落ちる。荷重がかかりすぎてフレームが折れたのだ。これもびっくり。これはアクシデントか?
溝口健二の『祗園の姉妹』だったけな、最後に主人公が激しく慟哭しながら世の中に抗議をするときに、カメラが、ぬっと、一歩前にでる。そこにカメラの非自動化がある。
最近のテレビや映画ではすこぶる低調だが、サンシャイン劇場で『どん底』をやったときの仲代達也のサーチンが、酒を飲み込むしぐさ。手をひらひらひらひらさせながら喉元からお腹まで下ろしていく。これぞ異化だ、素晴らしいと思ったなあ。
夏目漱石の『それから』で代助が勘当されて電車に乗って赤いものに極度に敏感になり、増殖していったのも、異化といえるだろうか?

結局、結論はでないものだ。さまざまな例を感じ取りながら、この難しい問題をもっと考えていこうと…

夜への讃歌

日曜日の夜はセンチメンタルになるのはぼくだけだろうか?ひどく静かな夜で、近所からの話し声やテレビの音も聞こえない。いったい隣り近所は何をしているのだろう?
そんな夜に限って、聞きたい音楽も静かなものになる。ジョー・パスやチェット・ベイカーなんてものに手が伸びる。
周囲が静かであればあるほど、音楽も心にしみるし、ぼくの想像もいろんなところに飛んでいく。今日あった出来事というよりも、もっと過去にあったいろいろな思い出をふとした調子に思い起こしてしまう。
なんて感傷的な夜なんだろう。こんな夜なら、何もかも微笑ましく、許せてしまう。
物悲しいとでもいうべきか、なんだか心に穴があいたようで、しかし空虚とは違う、まるで宇宙に吸い込まれるような気分。そうだ!夜空の星でも眺めてみようか?といってベランダに出たら曇り空。
星でも見てみようか、しかも東京でそんなことを考えるのは、日曜の夜だけかもな・・・
虚しいわけでもない。忙しい身のはずだが、ちっとも忙しく思わない。
そうそう、こういう夜は人と話してみたくなるんだよな。さっき、両親と電話で話をしたのもそんなものなのかな?
最近、暑かったせいか、周囲も自分も、心がざらざらして攻撃的になっていたな。昼には昼の論理があるように、日曜の夜にはそれなりの状況があるのだろう、こんな静かな夜には自我を通そうとも思えず、なにか不思議と人のことを思う、つまり他人を感じようとする。
ほんと不思議と感性がはっきりとしている気がする。ひとつひとつの物事やひとりひとりの人間の輪郭をはっきりと受け入れられるような気がする。きっと気のせい、単なる思い込みには違いないのだが、嬉しい。
こんな夜を迎えられたのが嬉しい。嬉しい、嬉しい。
しつこいな・・・
ま、でも、すべての日曜の夜にそんなことを感じ取れるわけではないので、今夜の幸せはありがたく受けとらなければな。
これはぼくなりの夜への讃歌だ。おやすみ。


ハロルド・ピンターはこう語った

ハロルド・ピンターの『何も起こりはしなかった』(喜志哲雄編訳、集英社新書)を興味深く読んでいる。劇作家で、2005年のノーベル賞作家だが、そういった肩書きを説明する必要はあるまい。かなり刺激的な劇作品のいくつかを読んで、興味はもっていた。
そんな作家が、ノーベル賞の記念講演で述べたことは、世界情勢についてのかなりの危惧であることがおもしろい。彼の作品を読んで気づくパンチ力は、そういった認識を基本にして生まれることが分かった。

演劇や文学が、人生や真実や社会などへの問いかけから離れるとき、(ぼくのことば使いでいえば)お伽噺になるときに、それらの芸術は単なるショー、見世物になってしまう。そういった類の見世物を否定はしないが、そんなバラエティ番組が世の中にあふれてしまうのはいかがなものかと思う。
娯楽という概念が、何も危険物を含まない、身に優しいもので、表層を心地よくさせるものとして利用されるとき、ローマ帝国時代の享楽主義やバブル期の日本のように、怪物的な頽廃がはびこってしまう。
無残なリゾート地の廃墟やお化けのような化粧は、彼ら自身の前に鏡を置いてあげたいくらいだ。しかし、鏡をのぞく本人たちには鏡にうつる意味は理解できないのだが・・・

ピンターが目の敵にしているのは、アメリカ政府という怪物だ。彼はイギリス人なので、アメリカに追随するブレア首相をも非難している。そういえば、ブレアはイラク戦争の責任で退陣するのだったな、たとえ本人は認めていなくても。イラク攻撃のときは誰もが、攻撃の理由はおかしいのじゃないかと疑問に思ったと思うのだが、それがわからなかったのはアメリカに追随するいくつかの国の政府だった。(もちろん日本もな)。
ピンターも指摘するとおり、そんな理不尽な行動が、アメリカがすることだからと容認されてしまい、思考も正常な判断も放棄してしまう、全体主義が恐ろしいことなのだ。アメリカ政府のやりくちは見世物師的なところがあり、市民も感情的に扇動され、対外的には脅しや嫌味といった仕掛けで周りを取囲んでいく。

わたしたちが、生活レベルでも、社会のレベルでも、政治的なレベルでも、問題点を一過性の話題としてとらえることに慣れすぎると、重大な問題として捉えることを忘れてしまう。自分の問題意識を毎日のニュースのように入れ替わりさせてはいけない。殺人事件の詳細を興味本位と刺激だけでとら…

ばらの騎士

昨日の話だが、新国立劇場でオペラ『ばらの騎士』を観た。仕事帰りだったせいか、三幕中一幕目は眠ってしまった。オーケストラをバックに居眠りできるのは贅沢というものだ。しかも演出はジョナサン・ミラーだというのに。

というわけですべて観たと胸をはっては言えないのだが、なかなかおもしろい公演だったと思う。三幕の人物たちの仕掛けは見事に有機的だったし、廊下の見える舞台装置は部屋の中外での連続性と差異、ドアの存在が鍵となってスリルをもたらすものだった。

ミラーも演出ノートに書いてある通り、オペラの因習的なジェスチャー大会はこの公演では目立たなかった。陳腐な慣習を排除するという点において鋭角だった分、歌手が棒立ち、もしくは椅子に座って顔だけ客席に向けるといった単調さに陥ってしまったのではないだろうか?場面の葛藤や事件が明確に分かるときと、単調に歌・会話をしているときとはっきりと分かれてしまい、後者は退屈だった。

主だった登場人物が単独で部屋に入ってくるときの目的性や存在感はしっかり出ていて、歌うために入ってくるような陳腐さは感じられなかったのは見事。群集の動きもひとりひとりに目が行き届いていて、廊下で起こっていることの現実性がきちんと出ていた。ひとりひとりをないがしろにしない演出だなと思った。
三幕の喜劇的な場面も、そのせいか、しっかり場面が作られていた。ひとりひとりが躍動していた。手を抜かないで注意を持続すれば、有機的に豊かな場面が作れるいい見本だ。

ツィトコワという歌手は素晴らしかった。歌はまあ並かなという印象を受けたが、演技と立ち姿は役をしっかり体現していたと思う。ふと思ったのだが、この人こそアヌイの『ひばり』にふさわしいのじゃないか?松たかこでなく。
ただし、台本上しかたがないのだろうが、キスシーンは現実は女性歌手の女同士だという先入観を拭い去るような高まりはなく、気持ち悪いとういうより、居心地が悪いものになってしまった。

時代の置き換え、時代の波の押し寄せといった演出意図は感じ取れなかった。きちんとした時代考証を経ての決断だろうが、観るこちら側に何の予備知識もなく、その違いが黒白はっきりするものでなかった性質上、この演出はぼくにはディレッタンティズムのように思えてしかたがないのだが、いかがなものか?実験性は買うが、微妙な差異を感じ取れないのは、ぼくが貴族というものを知ら…

怒り心頭

今日は4回、車関係のいざこざがあった。
まず、朝にお酒か何かの配送のトラックが無理に右折してきて、直進のぼくの自転車を無視したこと。次に、夕方、タクシーが無理な追い抜きをしたあとにぼくの自転車の進路を妨害して割り込み急ブレーキをかけせたこと。夜に、相互通行の道で交通誘導の親父が反対から来る車にばかり気をとられ道の真ん中で棒をふりまわしていたこと。最後に、タクシーが信号待ちしているぼくをクラクションでどかそうとしたこと。
最後の件は、ぼくも意地を張っていたから、タクシーばかりを責められないが、すべての事例に共通するのが、車の権力をふりかざすことに無感覚になっている者たちのお粗末な行動だ。

なぜか武器を持っているからといって、優遇されるのも間違いだし、上から目線というのも大間違いだ。車に乗っているのは恥ずべきことかもしれない。地球温暖化の防止の名目なら、その論理は成立する。だいたい自転車が行き場がない道路も悪いし、歩行者の通る道が狭いのも悪いし、車の運行を優先する思考方法自体大間違いなのだ。歩行者の邪魔にならないよう、ひっそりと道路を使わせてもらっているのだぞ車は。こんなふうに極端に、逆説的に考えなければ惰性になってしまう。

歩行者や自転車に気を使って走っている車は、一目でわかる。その思想が運転に表れるのだ。そんな紳士を求む。野蛮な怪獣はもういらない。

恋でいっぱい(?)の森

土曜日に、以前ぼくが在籍していた劇団の公演を観てきた。原初的ミュージカルというキャッチフレーズだったが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』『空騒ぎ』『お気に召すまま』の三作品をかいつまんでひとつにまとめた『恋でいっぱいの森』という作品だ。
詳しくいうと、劇団東演の公演で、演出は福田善之、福原圭一。初演は恥ずかしながらぼくも出演していた。声をはっていえないのだが、ぼくはこの初演の落ちこぼれで、無様な演技をしたから、今回の元同僚たちのことを厳しくいえた身でないのだが、無責任にいうと、つまらない公演だった。

要素はいくつかある。まず演出、四方八方に手を出しすぎて何をやりたいのかがわからない。アイデアがあるのはいいのだが、思いつきの領域から進んでいない。これはぼくの意見。たいていの人は演出のバリエーションに驚くだろうと予想するが、ぼくはそこが落とし穴だと思っている。肝心なものが欠けている。和服と洋服のアンバランスも意図が分からないし、コスプレを楽しんでいるとしか思えない。最終の森の銃撃も唐突すぎるし、文脈のない飾りにすぎない。福田氏は作家ではあるが、ここではシェイクスピアを料理している。その料理の器用さが味を薄めている。そして自分の技術と野望だけで素材を理解していないような気がする。シェイクスピアにしても、俳優との共同作業についても。

根本的に間違いなのは、三作品とも外見と中身の乖離が問題なのに、外見ばかり作り出すことに精一杯で、中身の本質的な人間的な性質の追及はなされていない。役者まかせというのか?だいいち念入りなテキスト分析が全員に共有されていたのか?演出家自分ひとりが分かっていても仕方が無い。絵空事で踊り・歌われても伝わってくるものは何もない。
いったい何を問題として、この公演をしたのか?

今、ぼくは、書いていてかなり抑制している。大きな声では言えないのだが、言わずにはいられないから書いている。御大にたてつくのかといわれそうだが、つまらないものはつまらない。小手先の技術以上のものが見られないのだから。

今日はこれでやめておく。眠くなった。びくびくしながら書いているにしてはいい度胸だ。また思いついたら書く。福田氏のためにも、自分のためにも。

継続すること

いやあ、しばらく何も書かないと書くことに億劫になってしまう。以前から、日記というものは苦手で、毎日書き続けることは大変な苦労になる。だから、それができる人を感心してしまう。
自転車のロードレースのジロ・デ・イタリアも終わりそうだが、自転車も乗り続けることしか上達の道はない。毎日続けることは、競技のためでなくても、相当つらい。毎日の往復1時間40分の生活を2年続け、今は往復1時間20分とメッセンジャーの仕事8〜10時間、これだけ自転車に乗り続けるのも苦労なのだ。
家計簿をつけようとしたことがあるが、つけ始めたその日でストップしたこともあったな。

継続することに尊厳がある。長年演劇に携わっていた人が言っていたことだ。その人自体を尊敬はできなかったが、その言葉には経験に裏打ちされた大切な意味が含まれている。道半ばにして、別な職業に移る人も多い芸能の世界。

皆勤賞も馬鹿にはできない。さぼりの得意なぼくには目も眩む存在だ。こうしてみると朝の通勤列車に揺られて、無表情で、汗臭いおっさんたちも、苦労を抱え込みながら、毎日、そう、毎日通勤していることは敢闘賞ものなのだな。
一週間働いているからこそ、土日の休みが尊いものにもなる。

要するに、ぼくは自分にムチをうっているのだ。ブログを更新しろと。
この意気込みも一日で終わってしまわないようにしなければ。
以前は、楽しみから入っていった自転車乗りも、体脂肪を落とすためや、仕事のため、半ば義務的に、またはロードレースへの憧れなど、いろいろな要素を巡りながら、また結局は自転車に乗ることを楽しむことに戻っていく。
このささやかなブログも、毎日書けないにしても、毎日書く意志はもたないとな。書くことが楽しみでもあり、書くことでいろいろな発見もできるし、自分の生活者としての視線も鋭くなるような気がする。
吐いて捨てるような文章を書き続けることで、ちっぽけな栄養にはなるのではないか?何歳になっても自分で自分を養わなければな。よしよし。