昨日の話だが、新国立劇場でオペラ『ばらの騎士』を観た。仕事帰りだったせいか、三幕中一幕目は眠ってしまった。オーケストラをバックに居眠りできるのは贅沢というものだ。しかも演出はジョナサン・ミラーだというのに。
というわけですべて観たと胸をはっては言えないのだが、なかなかおもしろい公演だったと思う。三幕の人物たちの仕掛けは見事に有機的だったし、廊下の見える舞台装置は部屋の中外での連続性と差異、ドアの存在が鍵となってスリルをもたらすものだった。
ミラーも演出ノートに書いてある通り、オペラの因習的なジェスチャー大会はこの公演では目立たなかった。陳腐な慣習を排除するという点において鋭角だった分、歌手が棒立ち、もしくは椅子に座って顔だけ客席に向けるといった単調さに陥ってしまったのではないだろうか?場面の葛藤や事件が明確に分かるときと、単調に歌・会話をしているときとはっきりと分かれてしまい、後者は退屈だった。
主だった登場人物が単独で部屋に入ってくるときの目的性や存在感はしっかり出ていて、歌うために入ってくるような陳腐さは感じられなかったのは見事。群集の動きもひとりひとりに目が行き届いていて、廊下で起こっていることの現実性がきちんと出ていた。ひとりひとりをないがしろにしない演出だなと思った。
三幕の喜劇的な場面も、そのせいか、しっかり場面が作られていた。ひとりひとりが躍動していた。手を抜かないで注意を持続すれば、有機的に豊かな場面が作れるいい見本だ。
ツィトコワという歌手は素晴らしかった。歌はまあ並かなという印象を受けたが、演技と立ち姿は役をしっかり体現していたと思う。ふと思ったのだが、この人こそアヌイの『ひばり』にふさわしいのじゃないか?松たかこでなく。
ただし、台本上しかたがないのだろうが、キスシーンは現実は女性歌手の女同士だという先入観を拭い去るような高まりはなく、気持ち悪いとういうより、居心地が悪いものになってしまった。
時代の置き換え、時代の波の押し寄せといった演出意図は感じ取れなかった。きちんとした時代考証を経ての決断だろうが、観るこちら側に何の予備知識もなく、その違いが黒白はっきりするものでなかった性質上、この演出はぼくにはディレッタンティズムのように思えてしかたがないのだが、いかがなものか?実験性は買うが、微妙な差異を感じ取れないのは、ぼくが貴族というものを知らないからだろうか?
今回の総括をすると、良かった点は、戯画化されていない、誇張されすぎていない、人間の真実味ある姿が見られたこと。これは、いわゆる悪役が、きちんと同情もすべき人間に描かれていたことにも表れている。悪かった点は、会話の場面が単調すぎてなんの感慨も湧かなかったこと。棒立ちで歌だけ歌われても、こちらは戸惑うだけだ。葛藤の可視的な面の追及が甘かったことだろうか?
カーテンコールは良かった。初日ということもあってか、観客も暖かった。役者たちの嬉しそうな姿が、なによりも感動を倍加させた。人間的な共同作業の結果として、その最終の仕上げで観客をも共犯者にさせるのがカーテンコールというものだろう。劇の内容はともあれ、締めくくりに舞台上の気まずい関係性は見たくないものだ。
というわけですべて観たと胸をはっては言えないのだが、なかなかおもしろい公演だったと思う。三幕の人物たちの仕掛けは見事に有機的だったし、廊下の見える舞台装置は部屋の中外での連続性と差異、ドアの存在が鍵となってスリルをもたらすものだった。
ミラーも演出ノートに書いてある通り、オペラの因習的なジェスチャー大会はこの公演では目立たなかった。陳腐な慣習を排除するという点において鋭角だった分、歌手が棒立ち、もしくは椅子に座って顔だけ客席に向けるといった単調さに陥ってしまったのではないだろうか?場面の葛藤や事件が明確に分かるときと、単調に歌・会話をしているときとはっきりと分かれてしまい、後者は退屈だった。
主だった登場人物が単独で部屋に入ってくるときの目的性や存在感はしっかり出ていて、歌うために入ってくるような陳腐さは感じられなかったのは見事。群集の動きもひとりひとりに目が行き届いていて、廊下で起こっていることの現実性がきちんと出ていた。ひとりひとりをないがしろにしない演出だなと思った。
三幕の喜劇的な場面も、そのせいか、しっかり場面が作られていた。ひとりひとりが躍動していた。手を抜かないで注意を持続すれば、有機的に豊かな場面が作れるいい見本だ。
ツィトコワという歌手は素晴らしかった。歌はまあ並かなという印象を受けたが、演技と立ち姿は役をしっかり体現していたと思う。ふと思ったのだが、この人こそアヌイの『ひばり』にふさわしいのじゃないか?松たかこでなく。
ただし、台本上しかたがないのだろうが、キスシーンは現実は女性歌手の女同士だという先入観を拭い去るような高まりはなく、気持ち悪いとういうより、居心地が悪いものになってしまった。
時代の置き換え、時代の波の押し寄せといった演出意図は感じ取れなかった。きちんとした時代考証を経ての決断だろうが、観るこちら側に何の予備知識もなく、その違いが黒白はっきりするものでなかった性質上、この演出はぼくにはディレッタンティズムのように思えてしかたがないのだが、いかがなものか?実験性は買うが、微妙な差異を感じ取れないのは、ぼくが貴族というものを知らないからだろうか?
今回の総括をすると、良かった点は、戯画化されていない、誇張されすぎていない、人間の真実味ある姿が見られたこと。これは、いわゆる悪役が、きちんと同情もすべき人間に描かれていたことにも表れている。悪かった点は、会話の場面が単調すぎてなんの感慨も湧かなかったこと。棒立ちで歌だけ歌われても、こちらは戸惑うだけだ。葛藤の可視的な面の追及が甘かったことだろうか?
カーテンコールは良かった。初日ということもあってか、観客も暖かった。役者たちの嬉しそうな姿が、なによりも感動を倍加させた。人間的な共同作業の結果として、その最終の仕上げで観客をも共犯者にさせるのがカーテンコールというものだろう。劇の内容はともあれ、締めくくりに舞台上の気まずい関係性は見たくないものだ。
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