土曜日に、以前ぼくが在籍していた劇団の公演を観てきた。原初的ミュージカルというキャッチフレーズだったが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』『空騒ぎ』『お気に召すまま』の三作品をかいつまんでひとつにまとめた『恋でいっぱいの森』という作品だ。
詳しくいうと、劇団東演の公演で、演出は福田善之、福原圭一。初演は恥ずかしながらぼくも出演していた。声をはっていえないのだが、ぼくはこの初演の落ちこぼれで、無様な演技をしたから、今回の元同僚たちのことを厳しくいえた身でないのだが、無責任にいうと、つまらない公演だった。
要素はいくつかある。まず演出、四方八方に手を出しすぎて何をやりたいのかがわからない。アイデアがあるのはいいのだが、思いつきの領域から進んでいない。これはぼくの意見。たいていの人は演出のバリエーションに驚くだろうと予想するが、ぼくはそこが落とし穴だと思っている。肝心なものが欠けている。和服と洋服のアンバランスも意図が分からないし、コスプレを楽しんでいるとしか思えない。最終の森の銃撃も唐突すぎるし、文脈のない飾りにすぎない。福田氏は作家ではあるが、ここではシェイクスピアを料理している。その料理の器用さが味を薄めている。そして自分の技術と野望だけで素材を理解していないような気がする。シェイクスピアにしても、俳優との共同作業についても。
根本的に間違いなのは、三作品とも外見と中身の乖離が問題なのに、外見ばかり作り出すことに精一杯で、中身の本質的な人間的な性質の追及はなされていない。役者まかせというのか?だいいち念入りなテキスト分析が全員に共有されていたのか?演出家自分ひとりが分かっていても仕方が無い。絵空事で踊り・歌われても伝わってくるものは何もない。
いったい何を問題として、この公演をしたのか?
今、ぼくは、書いていてかなり抑制している。大きな声では言えないのだが、言わずにはいられないから書いている。御大にたてつくのかといわれそうだが、つまらないものはつまらない。小手先の技術以上のものが見られないのだから。
今日はこれでやめておく。眠くなった。びくびくしながら書いているにしてはいい度胸だ。また思いついたら書く。福田氏のためにも、自分のためにも。
詳しくいうと、劇団東演の公演で、演出は福田善之、福原圭一。初演は恥ずかしながらぼくも出演していた。声をはっていえないのだが、ぼくはこの初演の落ちこぼれで、無様な演技をしたから、今回の元同僚たちのことを厳しくいえた身でないのだが、無責任にいうと、つまらない公演だった。
要素はいくつかある。まず演出、四方八方に手を出しすぎて何をやりたいのかがわからない。アイデアがあるのはいいのだが、思いつきの領域から進んでいない。これはぼくの意見。たいていの人は演出のバリエーションに驚くだろうと予想するが、ぼくはそこが落とし穴だと思っている。肝心なものが欠けている。和服と洋服のアンバランスも意図が分からないし、コスプレを楽しんでいるとしか思えない。最終の森の銃撃も唐突すぎるし、文脈のない飾りにすぎない。福田氏は作家ではあるが、ここではシェイクスピアを料理している。その料理の器用さが味を薄めている。そして自分の技術と野望だけで素材を理解していないような気がする。シェイクスピアにしても、俳優との共同作業についても。
根本的に間違いなのは、三作品とも外見と中身の乖離が問題なのに、外見ばかり作り出すことに精一杯で、中身の本質的な人間的な性質の追及はなされていない。役者まかせというのか?だいいち念入りなテキスト分析が全員に共有されていたのか?演出家自分ひとりが分かっていても仕方が無い。絵空事で踊り・歌われても伝わってくるものは何もない。
いったい何を問題として、この公演をしたのか?
今、ぼくは、書いていてかなり抑制している。大きな声では言えないのだが、言わずにはいられないから書いている。御大にたてつくのかといわれそうだが、つまらないものはつまらない。小手先の技術以上のものが見られないのだから。
今日はこれでやめておく。眠くなった。びくびくしながら書いているにしてはいい度胸だ。また思いついたら書く。福田氏のためにも、自分のためにも。
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