ハロルド・ピンターの『何も起こりはしなかった』(喜志哲雄編訳、集英社新書)を興味深く読んでいる。劇作家で、2005年のノーベル賞作家だが、そういった肩書きを説明する必要はあるまい。かなり刺激的な劇作品のいくつかを読んで、興味はもっていた。
そんな作家が、ノーベル賞の記念講演で述べたことは、世界情勢についてのかなりの危惧であることがおもしろい。彼の作品を読んで気づくパンチ力は、そういった認識を基本にして生まれることが分かった。
演劇や文学が、人生や真実や社会などへの問いかけから離れるとき、(ぼくのことば使いでいえば)お伽噺になるときに、それらの芸術は単なるショー、見世物になってしまう。そういった類の見世物を否定はしないが、そんなバラエティ番組が世の中にあふれてしまうのはいかがなものかと思う。
娯楽という概念が、何も危険物を含まない、身に優しいもので、表層を心地よくさせるものとして利用されるとき、ローマ帝国時代の享楽主義やバブル期の日本のように、怪物的な頽廃がはびこってしまう。
無残なリゾート地の廃墟やお化けのような化粧は、彼ら自身の前に鏡を置いてあげたいくらいだ。しかし、鏡をのぞく本人たちには鏡にうつる意味は理解できないのだが・・・
ピンターが目の敵にしているのは、アメリカ政府という怪物だ。彼はイギリス人なので、アメリカに追随するブレア首相をも非難している。そういえば、ブレアはイラク戦争の責任で退陣するのだったな、たとえ本人は認めていなくても。イラク攻撃のときは誰もが、攻撃の理由はおかしいのじゃないかと疑問に思ったと思うのだが、それがわからなかったのはアメリカに追随するいくつかの国の政府だった。(もちろん日本もな)。
ピンターも指摘するとおり、そんな理不尽な行動が、アメリカがすることだからと容認されてしまい、思考も正常な判断も放棄してしまう、全体主義が恐ろしいことなのだ。アメリカ政府のやりくちは見世物師的なところがあり、市民も感情的に扇動され、対外的には脅しや嫌味といった仕掛けで周りを取囲んでいく。
わたしたちが、生活レベルでも、社会のレベルでも、政治的なレベルでも、問題点を一過性の話題としてとらえることに慣れすぎると、重大な問題として捉えることを忘れてしまう。自分の問題意識を毎日のニュースのように入れ替わりさせてはいけない。殺人事件の詳細を興味本位と刺激だけでとらえることに慣れすぎてはいけない。
演劇も娯楽と称して、おもしろおかしいものを至上とすることをやめなければいけない。役者の単なる職業的満足を満たすだけの演目も再考しなければいけない。
ぼくたちの生きている人生・社会をもう一度見直す契機となる演劇、それが、今だからこそ必要なのではないだろうか?
「恐ろしいほどの障害がげんにありますが、私たちが市民として、自らの生活と自らの社会の真実を、ひるむことなく、ためらうことなく、知的決意を毅然として働かせてとらえようとすること。それが私たち全員に課せられている、決定的な義務なのだと、私は信じています。それは実は逃れようのない義務なのです。
そしてこういう決意が私たちの政治的ヴィジョンにおいていかされることがないなら、もはやほとんど失われかけているものを回復させる望みはありません。ほとんど失われかけているものとは、他でもない、人間の尊厳なのです。」 (H.ピンター) 〜喜志哲雄訳〜
そんな作家が、ノーベル賞の記念講演で述べたことは、世界情勢についてのかなりの危惧であることがおもしろい。彼の作品を読んで気づくパンチ力は、そういった認識を基本にして生まれることが分かった。
演劇や文学が、人生や真実や社会などへの問いかけから離れるとき、(ぼくのことば使いでいえば)お伽噺になるときに、それらの芸術は単なるショー、見世物になってしまう。そういった類の見世物を否定はしないが、そんなバラエティ番組が世の中にあふれてしまうのはいかがなものかと思う。
娯楽という概念が、何も危険物を含まない、身に優しいもので、表層を心地よくさせるものとして利用されるとき、ローマ帝国時代の享楽主義やバブル期の日本のように、怪物的な頽廃がはびこってしまう。
無残なリゾート地の廃墟やお化けのような化粧は、彼ら自身の前に鏡を置いてあげたいくらいだ。しかし、鏡をのぞく本人たちには鏡にうつる意味は理解できないのだが・・・
ピンターが目の敵にしているのは、アメリカ政府という怪物だ。彼はイギリス人なので、アメリカに追随するブレア首相をも非難している。そういえば、ブレアはイラク戦争の責任で退陣するのだったな、たとえ本人は認めていなくても。イラク攻撃のときは誰もが、攻撃の理由はおかしいのじゃないかと疑問に思ったと思うのだが、それがわからなかったのはアメリカに追随するいくつかの国の政府だった。(もちろん日本もな)。
ピンターも指摘するとおり、そんな理不尽な行動が、アメリカがすることだからと容認されてしまい、思考も正常な判断も放棄してしまう、全体主義が恐ろしいことなのだ。アメリカ政府のやりくちは見世物師的なところがあり、市民も感情的に扇動され、対外的には脅しや嫌味といった仕掛けで周りを取囲んでいく。
わたしたちが、生活レベルでも、社会のレベルでも、政治的なレベルでも、問題点を一過性の話題としてとらえることに慣れすぎると、重大な問題として捉えることを忘れてしまう。自分の問題意識を毎日のニュースのように入れ替わりさせてはいけない。殺人事件の詳細を興味本位と刺激だけでとらえることに慣れすぎてはいけない。
演劇も娯楽と称して、おもしろおかしいものを至上とすることをやめなければいけない。役者の単なる職業的満足を満たすだけの演目も再考しなければいけない。
ぼくたちの生きている人生・社会をもう一度見直す契機となる演劇、それが、今だからこそ必要なのではないだろうか?
「恐ろしいほどの障害がげんにありますが、私たちが市民として、自らの生活と自らの社会の真実を、ひるむことなく、ためらうことなく、知的決意を毅然として働かせてとらえようとすること。それが私たち全員に課せられている、決定的な義務なのだと、私は信じています。それは実は逃れようのない義務なのです。
そしてこういう決意が私たちの政治的ヴィジョンにおいていかされることがないなら、もはやほとんど失われかけているものを回復させる望みはありません。ほとんど失われかけているものとは、他でもない、人間の尊厳なのです。」 (H.ピンター) 〜喜志哲雄訳〜
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