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1月, 2008の投稿を表示しています

血のめぐり

この月は部屋の片づけ月間と決めているので、毎日こつこつと部屋の整理・整頓をしている。油汚れやほこりの汚い所は清掃もして、かなり整ってきている。でもそう一足とびに作業を進められないのが、整理の難しいところなのだ。 そんなことをしながら気づくことがあって、それは、いわば血のめぐりみたいなことなのだが、はい、わからないね、きちんと説明します。 部屋が片付いていないときは、言って見れば、血が行き届いていないようなもので、その空間やその箱の中に何があるのかわからない。分かってはいても、乱雑としていて開けたくないということもある。 部屋を片付けたあとは、その空間にどういうかたちで、何を置いて、どうすれば便利になるかを考えて配置・整頓するので、すみずみにまでぼくの意識がめぐりわたっている。 そう、まるで冷凍していたのを解凍したかのようなものなんだね。そういった意識を張り巡らせることができるのが、整理・整頓のよいところだ。 思い起こせば、触れたくないことや面倒くさいから放置しておく物や事象というものがある。そこにメスをいれることが必要だとはわかっていても、怠惰からか、そのうちにやるよといって後回しになる。 人との交流もそのようなもので、今年は会おうと年賀状に何回書いたことか… 自分の家は自分の手に負えないほど巨大化して、乱雑になってしまう。というより、自分の手に負えない・目に見えない・意識にのぼらないように、日常生活の悪習がそうさせてしまうのだ。 指の先の一本一本にまで意識を働かせ、血のめぐりをよくして動きやすくし、快適さが全身にくるようにすること、それが必要なことが最近の再発見なのかな? パソコンの用語には的確なものがある。最適化。それ。それをしている最中というわけ。それをしたらから軽くなるんだ。軽くなるというのは気持ちがいいもんだ。快適なんだ。なにも新しいものを購入するわけでない。快適な暮らし、そんな単純なところに辿りついたというわけ。ようやく気付いたのか?

動き続けること

また更新が滞ってしまったね。これは困ったことだ。 さて、ここ数日は取り立てて特筆すべきことなどなかったのだが、それは自分の中で特筆すべきことがなかったためであり、そんな生活も悪くはないが、それがずっと続くとおもしろくないものだ。 今日は、部屋の片づけをした。部屋の片づけをしていると、どうしても、考えながらやってしまって、作業がはかどらないのだが、今日はその悪癖を直すため、とにかく考えないこと、常に動くことを肝にめいじた。 これはなにげに大切なことなのかもしれないと思いながら作業をした。 考える猶予を与えると、それに甘えてしまって、常にからだで動きながら作業をするということを忘れてしまう。俳優もそんなところがあって、何をするか考えたりするとなると、じっくり座って考えるといいことなど何もない。何かからだを動かすことによって解決をみつけようと、立ち上がり、動きつつ考えると、たいていは成功する。 文章を書くことをしないで熟考している小説家など聞いたことがない。たえず書きまくることによってアイデアなり、構成なりが生まれてくるとなると、手を動かすことは考えを生みだすための準備運動なのだと理解できる。 泳ぎがうまくなるには泳ぐしかない。ピアノも同じだ。 掃除をするには掃除をするしか方法はないのか?それをすることによって、いろいろなアイデアが生まれてくるのかもしれない。 というわけで、ぼくは今日から日課というものを決めました。詳しいことは内緒にしておくね。三日坊主に終わらないように、緩やかに決めておいたから、続けられるのじゃないかな? ちょいと、変ろうとしています。というより、いろんな技術を身につけるため、こつこつと日課を決めたのです。その成果は…

折鶴お千

昨日は溝口健二の『折鶴お千』を観たのだが、観るたびに感動するのは、話の筋や登場人物の行為でないところがおもしろい。もちろん、出来は悪くはないし、話の筋もよくできていておもしろいのだが、この映画の場合、特殊な観点があるのだ。 たとえば、寅さんの話なら寅の別れの場面であろうし、刑事ものであるなら解決する場面であろうし、『椿三十郎』なら血の吹き出るところだろうし、『タイタニック』なら船の舳先の場面だろうか? それらと同じように、または、もっと目立ちはしないが、鋭く感動させるひとコマがあって、それはお千が宗吉に折鶴を渡す場面にほかならない。その折鶴を手渡しするのでなくて、自分の手のひらからふっと息をふきかけ折鶴を飛ばすのだが、その折鶴の飛び方が超自然的でおもしろいのだ。 超自然的といえば、超人的な力を発揮するスーパーマンや西部劇のガンマン、時代劇の剣豪が容易に思い浮かぶ。また、知的に全知万能の刑事というものもいるし、ヒーロー・ヒロインはたいてい波瀾万丈すぎる生活を映画のなかで過ごす。ドラマで見る立ち回りはそんなに超人的には見えないのだが、それですら約束事として受け入れて見るものだ。 超自然的な怪奇や天変地異も映画で見ると、驚くどころか当然のこととして受け入れてしまうものだからおもしろい。天が割れ、洪水が地を割いてくることも、演出効果としてとらえる。 ここでの折鶴は、観ている人の想定外の映像が流れること、つまり映像が意外性があり、映画で描かれている現実を異化しているところに特質がある。あまり、こういった映像を見ることは少ない。練りに練った映画で、役者が意図していないところでつまづいて倒れるなどといったハプニングもたまにはある。映ってるべきでない人の顔が映っているなどといった怪奇な映像もあることはある。また、チャップリンの帽子のように、かぶろうとしたら急に帽子がとび跳ねたなどという意外性のあるギャグもある。 折鶴は女性がふっと息を吹きかけたその風力からすると、何十倍もの力で空を飛んでいった。なめらかに画面を横切って。明らかにスタッフが手で飛ばした勢いだったのだが、映像ではお千の吹いた息につながっていた。魔法というより、違和感のあるモンタージュなのだが、それをそのままの映画的な現実として受け取らせるのだからおもしろいものだ。まさしく映画的な瞬間であり、そんな場

ラ・マルセイエーズ

ジャン・ルノワールの、最高でないにせよ、面白い映画『ラ・マルセイエーズ』を観た。いわば歴史物であり、戦争物ともとれる題材ながら、歴史の再現を目指さないところが彼の映画らしい。フランス革命を扱い、実在の人物も登場してくるので、史実から離れることは許されないが、彼の映画を観ると、史実が映画から離れてひとり歩きを許されているかのように、今までのぼくが知っている限りのフランス革命がまるでこの映画そのものとしか考えられないくらいに、興味を引くものであった。 群像劇であり、主に焦点を当てているのがマルセイユ義勇軍の庶民兵士3人なのだが、描くのはそこにとどまらない。パリで起こっている政治と革命の動きもきちんと織り交ぜて、ルイ16世やマリー・アントワネット、パリ地区委員長も出てくる。大きくは、プロシアやオーストリアの動きも逐一描かれている。まあ、歴史劇だから、当然と言えば当然なのだが。感心するのは、主人公たち三人と国王を同時に描きながら、どちらも通俗の表現になってなく、性格がきちんと描写されていること。この両者が相まみえる瞬間があってもいいと思うのだが、それをしないで、最後まで両者の立場から見た革命を描いている。王妃も庶民の女たちも同等に個性的に描かれている。 どこかユーモラスな行動をしてしまうところをのがさないルノワールの視点もあげておこう。かえって、そういった事細かな生活に密着した行動がつねに画面にあふれてくることを信条としているかのようだ。あっけらかんとした人間があふれ出す。 ルイ16世の食事。マルセイユ義勇兵が歌に聞き惚れる。戦闘の最中に戦闘しないで女たちを見送る義勇兵。王の息子・娘たちのこどもらしさ。 歴史というものは要旨を抜粋したようなものなので、それを人間のドラマに置き換えると、今までに考えられた観念からいろいろはみ出してくるものがある。ハリウッド映画なら英雄主義的にはみ出すであろうし、日本の大河ドラマなら感情の引き延ばしという点ではみ出すだろう。ルノワールのこの映画は、人間がまるっきり人間らしく、意外性のあるはみ出しかたをするので、感情的な高まりをそこに求めても筋違いのような気がする。ああ、こんなこともありうるな、人間だから、といった考えを微笑ましく抱きながら見ることのできた、楽しい映画だったと思う。

磁石と情報

今興味あることに関連した偶然の出会いというものは、あるアンテナを張っているからそこで察知するわけで、何かしらの興味をもつものがなければいけないのは当然だし、そこから関連づける想像力も必要になってくる。自分のそういった経過があってはじめて、偶然にも同じ興味を持つ人を見つけたり、同じ時期にイベントを開いていたりすることを発見する。 真山青果の『八百屋お七』を読んだ同じ日に、テレビでお七の事件を取り上げたり、『唐人お吉』に興味があると、新国立オペラの『黒船』に出会うことになる。もともと自分の中に、そういった情報を吸い寄せるための磁力がなければいけないものなのかな、と考えると、自分の興味・努力次第でいくらでも偶然は引き寄せられる。 普段の生活では、そういった感受性というかアンテナをおろしてしまうものだからどうしようもない。ワイドショーで流れる情報そのままを流してしまって平気になってしまう。情報の少ない時代は、ひとつひとつの情報が更新されたり、別な話題に移るのに時間がかかったのであろう。だからこそ、お夏清十郎や唐人お吉の囃し歌なんてものが保存される。 ハイスピード化されて、乱費され、自動化される情報の氾濫の時代も悪くはないのだが、ひとつひとつの情報の価値が薄れていくのは否めない。また、受け手側の取捨選択にかかっているとはいえ、信頼のおける情報自体の基準が曖昧になっている。 それだからこそ、磁石棒を持ち歩いて必要なものだけ引き寄せることが必要かもな。いらない情報、怪しい情報もそれなりに真実なのだけど、そこを判断して捨てる技術も。 要は、地面に何か金品が落ちていないかと、下ばかり向いて歩いている人の行動にも真実はあるのだということ、これを言いたかった…のか?

あるテレビドラマ

久々にテレビドラマをじっくりと観たのだが、観られたものじゃないところはいっぱいあるにせよ、気になったところを書いていきたい。 といいながら、ドラマの題名はおぼえていなくて、幼稚園の運動会が今回のテーマだったろしく、観月ありさや佐々木蔵之助が出ていた作品。調べるのも面倒だからそのまま書きましょう。 まず、最後のクレジットで気になったのが、脚本が土田英生だということ。彼の作品は、名前が知れ出して、いろいろな劇団が上演をしだした頃から知っているのだが、今はテレビのシナリオまで手掛けているのだね。面白いんだけど、ただ面白いだけなのよね。よくできたお芝居という感じで。クスクスくすぐるんだけど、そんな刺激はすぐ飽きられるから、次々と新作をだして、趣向を凝らさなければいいけない。その意味で、売れっ子になるのは、彼にはいいことなのかもしれないね。 ドラマでの音楽の使い方も気になった。音楽の質も。どうしてこうも、芝居を邪魔するような質の弦楽曲をそのまま垂れ流しにするのかね。音の入るポイントも、役者の感情の説明であり、場面の葛藤や場面の特質をあらわすところではない。要するに、いらないところでいらない音楽が鳴っているというわけだ。 演出もおかしい。現実を見据えたというより、場の効果のために群衆を動かしている。そんなことしないだろうといような群衆の動きがありすぎる。わかりきった観念よりも、それを裏切るようなひとりひとりの人間の反応を見たいのになあ。このドラマでは赤か黒か、赤か白かの二種類の人間の典型しかみられない。脚本にも問題があるのかもしれない。 こんなに酷評するつもりはなかったのだがしてしまった。一時間もかけドラマを見たのは、ようはおもな登場人物ふたりの人間の関係がおもしろかったからで、またその二人の女優の演技がおもしろかったからで、それ以上でも何でもない。結局残るのは、スターだけだという、ドラマの習性だ。残るものがそれだけだというのは製作者としては成功なのかもしれないが、ま、ありふれた消費されるドラマだというわけだな。

ふたつの作品

さてさて、明日からふたつの仕事に復帰するが、今年の目標は、部屋をちらかさないこと。そして、戯曲やシナリオを読んで研究すること。 というわけで、立て続けにシナリオを読んでみたわけだが、やはり、橋本忍・黒澤明の『羅生門』は、おもしろく読めた。淀みがないというか、停滞がないというか。過去の回想を逆手にとった構成だから、報告という叙述方法をとるので、ことばだけの観念的なものになりがちだが、そうでなく、登場人物がとても行動的に描かれているために、生き生きと人物が見えてくる。前に一二度映画は見たことがあったが、それ以上のおもしろさかもしれない。 真山青果の戯曲『唐人お吉』もよかった。特に一幕から三幕までが、テンポよく流れていた。真山青果とはもう親しい間柄!?だから、どんな構成で、何を描きたいのか、そして登場人物の根幹になっている要素も手に取るようにすんなり入ってくる。真山青果の作家としての力がここにある。テーマが明快で、登場人物がきちんと輪郭づけされていて、二人三人の主要人物の葛藤を中心に描く。小手先の技術でなく、人間を真正面にとらえた作品。 昨日も青果の『敗北者』という小説を読んだが、すごいね、物事を淡々と語るには筆が似合わないけど、劇的な場面を作ることにかけては、まだ小説だけ書いて戯曲に手を染める以前から、その実力はもっていたことがわかる。 テーマや色合いは違うが、『唐人お吉』はいってみれば、大人になったお夏であり、お七である。お夏やお七が恋愛にわけもわからず突き進んでいく純真さがあるとすれば、お吉はその時期を超えて、自分のしていることと自分のすべきこととの葛藤に悩まされる。そのために、恋愛さえも犠牲にする。しかし、思っていること、主張することは、同じ作家の筆からか、とても似たようなものになっている。 これからも読んでいきます。

田宮のイメエジ

今日は戯曲を二本読んだ。 ひとつは岩松了の『恋愛御法度』。 もうひとつは、川口一郎の『田宮のイメエジ』。 前者についてはいうことはないが、後者の作品はなかなか味わいのある小品であったように思う。 かつて青春時代を過ごした場所を焼け跡として、ある夫婦が再見すると、かつてふたりに共通した友人の姿が思い浮かんでくるといったお話。 戦争の時代にその青春時代を送った夫婦には、ある消し去れない思い出がある。その思い出を振り切るには、戦争ということも振り切らなければならない。焼け跡を前にして、夫婦の葛藤は緩やかに変化していく。 未来に向かうために、焼け跡と田宮のイメエジに直面していく夫婦が描かれている佳作だと思う。 そうなの。振り切ることのできない過去というものはあるんだよね。そこを乗り越えていかなければいけない。そのために、今現在の自分にとって苦しい過去も、試練も耐えなければならない。 ぼくは高校時代・大学時代に、どうしても頭から離れられない、ある人のイメージがあって、それが夢にまで出てきて重圧を与えた。ある意味、その人を常に念頭におくことによって自分の励みにもなった。いわゆるトラウマという名で呼ばれるものかもしれないな。 一変してしまった風景というものもある。現在でも、天変地異のために起こらないとも限らない。年を経るにつれて、もう見えなくなってしまった光景というものもある。また、ほんの数か月で荒廃してしまう人のつながりというものもある。 そういう焼け野原を見て、また未来に進んでゆくのには、勇気や努力がいる。 以前の話だが、パソコンが壊れてホームページのデータが吹き飛んだくらいで、茫然自失になるようじゃ甘いのかな… 舞台は作っては壊すものだと、先輩の俳優から何度も呪文のように聞かされてきたが、そのとおりなのだな。楽日の数時間後には、舞台セットが跡形もなくなくなっているのを何度経験したことか。そして、そのときにささやかながら、また次の舞台に思いを馳せるであろう。 人との出会いも次々に更新されていく。 『田宮のイメエジ』。なかなか面白い作品だな。

バカ正月

ホームページを大幅に更新した。思えば、去年の正月もホームページの作成作業に追われていたな。まったく無知なところから、よく作ったサイトも、一旦は、パソコンの故障とともにデータがぶっ飛んだ。そこからよく再度サイトを作ったなとわれながら感心。今回の更新もかなり進んだ。 よかったら見てくださな。 グルッポ・テアトロ 実家に帰ってゆったりしていると、普段の忙しさや暇のなさが馬鹿らしく思えてくる。じっくりとやりたいことだけをやれるのが、こういった長期休暇の良いところだ。そういえば、大学時代の夏休みなんて、どれだけ長かったことか… 昨日ひそかに自分に課した課題、毎日戯曲やシナリオを読む、という日課は、早くも破られそうな勢いだ。だってこれから眠るのだもの。無理な計画はたてないにしても、早くも一日目で破られるのは、計画性や気力が無さすぎではないだろうか? まあいい。良い気がしてきた。こんな日は、やりたいことからやるべきだ。 フランスに行っていたころ、休暇になると、突如旅に出て行ったっけな。ある休みを最大限に利用する。普段の生活のスケジュールをたてるよりも、バカンスのスケジュールをたてるほうが楽しい。そうだ、楽しいことの計画をたてることだ。 ふと思ったが、今さらそんなことに気づくなよ! おバカな正月になってしまったらしい。 ふふふ。

スピードキング

また新しい年がやってきた。 何年こういう年を経てきたのだろうか?意味もなく年を越してまた新たな年に入ることはなかったにせよ、こんなにも新しい年を切望した年末もなかったかもしれない。 ハイスピードで駆け抜けた年末というものがなくて、どこか緩やかなところで落ち着いていたのが、普段の年末だったからかもしれない。 今年のように、全速力で駆け抜けていては、新しい年もその勢いでいかざるをえない。徐々に落ち着くだろうが、落ち着かせたくもない。 作家の書く作品にはテーマや、それを書かざるをえない動機が隠されているものだが、それを見つけ出すのがそれを演じる人たちの仕事であり、観賞する人の好奇心であったりする。テーマが簡潔で明快であればあるほど、作品は骨組がしっかりする。また、それをあぶりだす芸術家や学者や好事家の持っているテーマと合致すればするほど、より作品にたいする愛着がわく。 愛着が湧いてしまえば、あとは全力で惚れ込むか、遠回りして求愛していくものだ。その愛着をもつということが困難なのが、演劇なり映画なりの台本の選定というわけで、なかなか眼鏡にかなうような作品と出合えることも少ない。良質の作品であっても、なぜ、今、この作品と取り組むべきなのかの動機を信じ込めないと、見送りになってしまうものだ。「いい作品なんだけどね、今はいいよ」なんて。人間もそうだな。「いい人なんだけどね、遠慮しておくよ」 また新たな熱い出会いを待ち焦がれるには、自分自身、沸騰はしないにせよ、高い緊張感をもっていなければならない。冒頭に述べた、ハイスピードで走ったあとの余力。クールダウンも熱くやらなければならないのかもな。 新年、いつもこんな抱負を持って一年を見渡せたらいいのかもな。 どうせ、途中休憩がほしくなるものだから、熱いうちは熱いままに自分を働かせてみよう。