昨日は溝口健二の『折鶴お千』を観たのだが、観るたびに感動するのは、話の筋や登場人物の行為でないところがおもしろい。もちろん、出来は悪くはないし、話の筋もよくできていておもしろいのだが、この映画の場合、特殊な観点があるのだ。
たとえば、寅さんの話なら寅の別れの場面であろうし、刑事ものであるなら解決する場面であろうし、『椿三十郎』なら血の吹き出るところだろうし、『タイタニック』なら船の舳先の場面だろうか?
それらと同じように、または、もっと目立ちはしないが、鋭く感動させるひとコマがあって、それはお千が宗吉に折鶴を渡す場面にほかならない。その折鶴を手渡しするのでなくて、自分の手のひらからふっと息をふきかけ折鶴を飛ばすのだが、その折鶴の飛び方が超自然的でおもしろいのだ。
超自然的といえば、超人的な力を発揮するスーパーマンや西部劇のガンマン、時代劇の剣豪が容易に思い浮かぶ。また、知的に全知万能の刑事というものもいるし、ヒーロー・ヒロインはたいてい波瀾万丈すぎる生活を映画のなかで過ごす。ドラマで見る立ち回りはそんなに超人的には見えないのだが、それですら約束事として受け入れて見るものだ。
超自然的な怪奇や天変地異も映画で見ると、驚くどころか当然のこととして受け入れてしまうものだからおもしろい。天が割れ、洪水が地を割いてくることも、演出効果としてとらえる。
ここでの折鶴は、観ている人の想定外の映像が流れること、つまり映像が意外性があり、映画で描かれている現実を異化しているところに特質がある。あまり、こういった映像を見ることは少ない。練りに練った映画で、役者が意図していないところでつまづいて倒れるなどといったハプニングもたまにはある。映ってるべきでない人の顔が映っているなどといった怪奇な映像もあることはある。また、チャップリンの帽子のように、かぶろうとしたら急に帽子がとび跳ねたなどという意外性のあるギャグもある。
折鶴は女性がふっと息を吹きかけたその風力からすると、何十倍もの力で空を飛んでいった。なめらかに画面を横切って。明らかにスタッフが手で飛ばした勢いだったのだが、映像ではお千の吹いた息につながっていた。魔法というより、違和感のあるモンタージュなのだが、それをそのままの映画的な現実として受け取らせるのだからおもしろいものだ。まさしく映画的な瞬間であり、そんな場面こそ待ち望んでいるものなのだ。そして、この折鶴の瞬間はテーマがくっきりと浮き出ているので、溝口はこの超自然的な異化でもって、テーマの開示という難問を軽く飛び越えてしまったかのようだ。
ありえない解決法、それがときとして最良の最適の、それしかありえない解決になることもある。この折鶴の場面をみるためだけに、この映画を観るだけの価値があると、ぼくは思っている。傍らで、溝口はほくそ笑んでいるだろうが…
たとえば、寅さんの話なら寅の別れの場面であろうし、刑事ものであるなら解決する場面であろうし、『椿三十郎』なら血の吹き出るところだろうし、『タイタニック』なら船の舳先の場面だろうか?
それらと同じように、または、もっと目立ちはしないが、鋭く感動させるひとコマがあって、それはお千が宗吉に折鶴を渡す場面にほかならない。その折鶴を手渡しするのでなくて、自分の手のひらからふっと息をふきかけ折鶴を飛ばすのだが、その折鶴の飛び方が超自然的でおもしろいのだ。
超自然的といえば、超人的な力を発揮するスーパーマンや西部劇のガンマン、時代劇の剣豪が容易に思い浮かぶ。また、知的に全知万能の刑事というものもいるし、ヒーロー・ヒロインはたいてい波瀾万丈すぎる生活を映画のなかで過ごす。ドラマで見る立ち回りはそんなに超人的には見えないのだが、それですら約束事として受け入れて見るものだ。
超自然的な怪奇や天変地異も映画で見ると、驚くどころか当然のこととして受け入れてしまうものだからおもしろい。天が割れ、洪水が地を割いてくることも、演出効果としてとらえる。
ここでの折鶴は、観ている人の想定外の映像が流れること、つまり映像が意外性があり、映画で描かれている現実を異化しているところに特質がある。あまり、こういった映像を見ることは少ない。練りに練った映画で、役者が意図していないところでつまづいて倒れるなどといったハプニングもたまにはある。映ってるべきでない人の顔が映っているなどといった怪奇な映像もあることはある。また、チャップリンの帽子のように、かぶろうとしたら急に帽子がとび跳ねたなどという意外性のあるギャグもある。
折鶴は女性がふっと息を吹きかけたその風力からすると、何十倍もの力で空を飛んでいった。なめらかに画面を横切って。明らかにスタッフが手で飛ばした勢いだったのだが、映像ではお千の吹いた息につながっていた。魔法というより、違和感のあるモンタージュなのだが、それをそのままの映画的な現実として受け取らせるのだからおもしろいものだ。まさしく映画的な瞬間であり、そんな場面こそ待ち望んでいるものなのだ。そして、この折鶴の瞬間はテーマがくっきりと浮き出ているので、溝口はこの超自然的な異化でもって、テーマの開示という難問を軽く飛び越えてしまったかのようだ。
ありえない解決法、それがときとして最良の最適の、それしかありえない解決になることもある。この折鶴の場面をみるためだけに、この映画を観るだけの価値があると、ぼくは思っている。傍らで、溝口はほくそ笑んでいるだろうが…
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