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葛尾村に墓参り

きょうは祖母の墓参りに行ってきました。原発から25キロ離れた、計画的避難区域の村のひとつ葛尾村。山間部にある村です。地震のために多くの墓が倒れて、その後新しく作った墓にみんなで花をやりに。前にも数十回ここは訪れたことがあります。 全村民いないのですが出入りしている人はちらほら。パトロールしている村民や警察の車とすれ違うことのほうが多いくらい。 途中ネコと出会いました。餌やりに来ているボランティアや村民の話は情報に入ってきています。 葛尾村は20キロ圏内の部分も含み、またちょうど風の通り道だったのか、一部の地区は異常に線量が高いのです。 サーベイメーター持っていきました。 お墓の近く仲ノ内地区は0.5〜0.69µSv/h。 村役場のある落合地区は0.5〜0.7µSv/h。 ちなみに12月28日の線量(11時〜12時)単位はµSv/h 東京都(新宿区)0.05 水戸市 0.07 福島市 0.91 環境放射能水準調査結果(都道府県別)(平成23年12月28日(水曜日)14時00分版) モニタリングポストでは12月28日の線量(11時〜12時)単位はµSv/h 福島市・佐原 0.32 いわき市・大久 0.27 飯館村・村役場 1.86 葛尾村・柏原 6.33 双葉町・石熊 13.77 ( 可搬型モニタリングポストによる福島県における空間線量率(1m高さ) )PFDファイル とりあえず道路が封鎖されて入れないところまで行くことにしました。 柏原地区といって、そこは原発から23キロ地点。 浪江町へ抜ける道路。県内に設置されているモニタリングポストでは常に2番目に高い数値です。役場からは2〜3キロしか離れていません。 福島県出身の駅伝・柏原選手が走っているちょうど同じ時間に、たまたま柏原地区へ行ったことになりますね。 そこへ視察に行く途中の山道を車で走っているときから、線量計はどんどん上昇。 役場近くの外で0.5〜0.7 µSv/h。 車内で数分間走っただけで、1.2→2.0→最終的には3.0 µSv/hまで上昇。バージョンアップじゃないんだから… 柏原地区の道路が封鎖されている分岐点で撮影。外に3〜4分ほどいましたが、値は5.5〜7.0 µSv/h。結構高い数値のようですね。 車内でまた測ると、...

うざいと言われても干渉を

寒さも本格的になった。この寂しさが好きでもあるな。 昨日は何かといらいらしていたと反省。土曜日の新宿は、人々みなゆったりモードで、そんな中にせかせかしたぼくが紛れ込むと、いらいらするだろうな。 そんな日は繁華街に行くのが間違いだな。行かざるを得なかったんだけど。 金曜日だったか、駅で二人の男性がもめていた。しかも無言で、暴力というより、一人がもう一人を押さえつけているようであった。だから、通り過ぎる人も二人はじゃれあっているようにしか見えなかったのだろう。 その二人のもめごとがエスカレートして、とうとう駅の売店のほうへもつれて行った。そして売店の簡易棚を倒して落してしまった。 買い物をしていたおじさんが、どすの効いた声で「こらあ」と言ったのには驚いた。そのおじさんも二人の成り行きは気になっていたようで、とうとう周囲に被害を与えたのを見かねて、注意したのだろう。 ええ、とかく世間は、見ていても見ぬふりというか、係り合いになるのを避けようとするが、そんななかで、こうした叱責というのは尊いものだ。 干渉すればいいというわけでもないが、相手の領域への入り込み方というのは難しいものだ。 先日、小さい自分の子供相手に、大人に対する喧嘩のように怒り・怒鳴りまくっている父親を見かけた。子供は泣きじゃくっていた。親の子供に対する接し方の一線を超えた、子どもと対等に喧嘩する態度だった。大人げないとは思いながらも、親を注意するわけにはいくまい。 駅のホームで喧嘩している高校生もいた。取っ組み合いになった途端に、周囲で見ていた50代の女性が「馬鹿者!やめなさい」と注意したのをきっかけとして、周囲の男性たちが仲裁に入ったこともあった。 周りに何らかの被害を与えない限り、人に干渉することは難しいのであろうか。 しかし、こんな例もある。 中国に行ったとき、二人の人が口論を始めた途端に、周囲の人が野次馬のように集まってきて、成り行きを見守るのである。これは、ほんとに野次馬なんだろうな。何が起こるんだというのを、間近で見たいという欲求。こうなると喧嘩の二人は暴力をできなくなる。したがって、二人は口論というかたちでエスカレートせざるを得ない。 なかなか理にかなった社会のシステムだと思う。 喧嘩の二人は、周囲から放っておかれることで、増長して手を出さざるをえな...

戦争と暴力

また夏が来た。 この時期になると、テレビでも新聞でも、また舞台でも、太平洋戦争をふりかえった特番をやる。これは、大事なことではあるね。報道はニュース性の強いものだけでなく、記憶を忘却から救いだす類いの記事が必要だからね。 人間忘れやすいから。 ぼくが前にいた劇団も、この時期に戦争の演劇をやる。 ぼくは、その作者と作品が嫌いだから、見るのを逃れることのほうが多い。それ以外の集団でも、この時期は、戦争を扱った作品が多いものだ。ま、正直、あまり変わり映えしない内容なのだけどね。演劇でも、社会の責任の一端を担っているので、いい試みではある。 今日、ふと思ったことがあって、それは「暴力」のこと。政治的な暴力でなくて、ちっぽけな個人がもつ「暴力」。肉体的な暴力に至らない意味での、微妙な「暴力」。 思えば、今は夏だからか、街で出会う人ひとりひとりが自分のことにしか意識がいっていないような気がする。 「すさんだ」という言葉遣いが適当であるかのような、人間の風化。 それは、女性も、こどもも、老人も含め、一様に乱暴な姿勢が目立つのだな。 また、今の世の中は「権利社会」でもあり、「モンスター」の出現も珍しくない社会でもある。 なんだか、胸を張りすぎている人が多いような気もする。少なくとも、5年前と比べても、人間の立つ角度が1%反り返り、顎が5度上がっているであろう。「お前、後ろに歩いた方が楽だろう!」と思えるようにのけぞった男性を見かけたことがある。 戦争が、人を人と思わず、戦略と全体主義に支配されるものだとするなら、そんなものに反抗するには、意識的な人間主義の立場にたつことが必要だろう。 しかし、そんな立場に立つ人間が「乱暴」な「すさんだ」人間であったりもする。 戦争に関するあれだけの教育や報道や演劇が、一概にセンチメンタルな視点を持つことも不思議である。 結果、涙を流せば成功のような錯覚に陥るもの。 現代の人間が、また戦争に突き進んでそれを「権利」だという言い張ることがあるかもしれない。また、扇動するほうも、されるほうも、無意識に共同することもあるだろう。知らぬ間に、偏見を植え付けられることもある。 戦争を題材にするのはいいのだけど、今現在のわたしたちの「暴力」や「全体主義」も同等に問題にしないと、片手落ちのように思える。 今進みつつある...

クレーム

バイト先で、接客クレームの件で上司からお咎めを受けた。先週のお客さんがお客さま相談室に問い合わせしたのでしょう。はっきりと覚えているので、謝ったけどね。謝るのは下手ではない。しかも気持ちよく謝るのをモットーとしているところがあって、爽やかに、高原にそよ風が吹くように謝るのが好きだ。 だから、あんまり怒られはしないのだよ。時間的にも短く、事の重大性も軽くする。お咎めを受ける側が深刻になると、お咎めする側もきつく叱らなければいけない。受ける側が軽く爽やかにすると、叱る側も気が軽くなるものだ。お互いにとって良いことだ。 ときには「反省していない」などと、かえってきつく叱る人もいるが、反省はしているんだ。反省を重くすることが嫌いなだけだ。 何度かこんなことしている。するたびに反省はするけど、現場ではつい我慢できないのだな。 はっきりと覚えている。商品を袋に入れず、レシートを渡さなかった罪だ。たいていのお客さんが、どちらも要求しないし、品物的に袋に入れる必要のないものと判断した。勝手に判断するなというのは会社的な立場だろう。それも分かる。でもレジ袋の濫用もよくない。たいていのお客さんはきちんとそれを理解している。誰もが理解するのじゃないものなのだな。 袋が欲しければ「袋に入れて」と頼めば済むもの。それで気持ちよくやりとりできるのだが、この「袋に入れて」という言葉をかけないで、袋に入れてもらうまでずっと待っているお客さんがいる。こちらも何かを察して袋を用意するのだが、忙しくほかのお客さんに意識が行っているときは言われるまで放っておく。するとお客さんも黙っている。それが我慢ならないのだな。何か無性に腹立つ。「何で袋に入れないの」などと高飛車な態度に出られるとカチンとくる。 どうして「袋に入れて」とひとこと言えないの? というか、言葉のやりとりで人に物を頼むというのが、結構、現代の人間に共通して弱くなっている気がする。「早くしろよ」とせかされるのも腹立つが、そういった竹を割ったような性格は分かりやすい。 しかし、相手が何を考えているかが分からないときほど、不気味なものはないだろう。「キレやすい」などといった問題も、そういったコミュニケーション不全が原因でもある。 物を頼むということは、お願いすることで人を動かすものなので、それなりのコミュニケーションとな...

権利とサービス

ここ最近話題になっている「モンスター」。「モンスター・ペアレント」や「モンスター・ハズバンド」。おそらく、市民意識の高まりが悪い方向に影響している一例だと思う。 たしかに、いろいろな権利を主張することや、また、公共機関でさえもサービスの要素はあることが、市民のなかに意識としてのぼっているのは進歩。警察官なんか特に最近丁重な態度をとっている。 しかし、それが転化して、暴力的に権利を主張するのはいかがなことであろう。 図書館のサービスや、教育のサービスだけでなく、民間のサービスにしても、過剰なサービスを期待するのは、さまざまな余剰の害をまき散らす。至れり尽くせりの過剰なサービスを施すのが期待された時代は過ぎたし、受ける側もそれを期待することはなくなった。 しかし、小さな部分、今までサービスという概念のなかった分野にサービスを求めるのを当然と思ってしまうのが、こうした「モンスター」の現れになるのだろうか。 一度そういった権利やサービスを受け取ってしまうと、それがどの分野でも、どの機会にも必要に思えてくるのは仕方がないことではある。セルフサービスのファーストフード店で、そういったサービスを期待するようなものだ。全自動洗濯機を使った後では、段階式の洗濯機を使うのに不満をもらすようなものだ。その足りない部分をなんとかしてほしい、お客なんだからサービスを受けて当然だという意識。あながち間違いではなく、社会がそれだけ細かいところにまで意識が浸透してきている、というふうに考えると、進歩ではある。 要は、その権利がはたしてその場所、その分野、その機会では、主張することが正しいのかを考えずに、やみくもに権利を暴力的に要求することなのだ。 例えば、主婦の自転車三人乗りも話題になっているが、三人乗りを禁止するなという主張はまっとうだと思う。そこに異存はない。が、三人乗りであったり、こども連れの自転車が、歩道をわがもの顔で歩行者を除けていくという光景によく出会うが、それはどうなのだろう。たとえ三人乗りで幼児を連れて大変な運転であろうが、その場その機会に照らして、どこまでそんな運転をわがままでないと言い切れるだろうか。 「モンスター・ハズバンド」の場合には、おそらく夫は初めて出産に立ち会うという状態において、自分が混乱せず優位に立てるように、自分の知っている権利やサービ...

高野長英

かつて、鎖国をした日本にも、海外からの知識や情報は入らざるをえず、また、明らかにそれらの知識の方が優れているときに、当時の知識人たちは日本と諸外国の違いに驚いた。黒船が実力行使で乱入するまでもなく、開国をすることは必然であったろう。 オランダからの書物は入手できたから、その洋本に接することのできた人間は、鎖国をする日本がもどかしかったに違いない。 高野長英もそんな中の一人で、彼はずばぬけた語学力があったようで、書物の翻訳に関しては一番であったらしい。現代のように情報があふれる世の中ではない。しかも鎖国中の日本である。接することのできる海外からの書物は限られるし、自分たちの未知の情報であるために、それを吸収するために理解力は大きく役立ったに違いない。 現代の風潮というまでもなく、いつの時代にも、どこの場所でも、ナショナリズムというものは発生するようだ。 鎖国をしていた幕府はもちろん、移民排斥の気運が高まったときの欧州も、最近の聖火リレーでの中国の国民感情もそうだ。 どうも、ナショナリズムというのは、自分らを持ち上げ擁護するだけでは物足りないらしく、他を排撃することも含まれているようだ。サッカーの試合で何も戦わなくってもいいし、戦争まで始めてしまう国もあるみたいだ。 高野長英は傲慢で攻撃的な人のようであったらしいが、彼の洋学にたいする尊敬と服従は確かなものであり、それは日本という枠組みを超えざるをえなかった。自分の国にかんする危機感から、彼の想像力は外へ向かっていった。保身をして身構えるのでなく、胸を開いて入ってくるものをとことん吸収しようとした。 また、アランが言っていたことだが、二流のピアニストが300人集まりくだらないおしゃべりと虚栄心があふれる会場に、ひとりの巨匠が入ってきただけで、熱狂的に賞賛する会場に様変わりするといったように、われわれは賞賛する機会を求めているだけなのかもしれない。 広く国際的に交流し理解し合うのをモットーとしている五輪が、かえって、ナショナリズムの発露と政治的なものの争いの場になってしまっているのは皮肉なことだが、底辺レベルでは、技術の吸収や多人種混合は当たり前のようになっている。野球やサッカーに限らず自転車レースも。 非常に暴力的な、非常に利己的なものを見るたびに思う。どんなところにもナショナリズムの萌芽は...

技術とプロと

今日は床屋に行ってきたのだけど、いつもの親爺さんの愛想の好さがなく、どうもぎこちない様子だった。しかも、櫛を3,4度も落としたりして、いつもとは違うように思えた。彼の中に何があったのかは分からないが、おそらく精神的に何か負担になるようなことを抱えていたには違いない。 そんな様子ではあったが、ハサミさばきの技術はしっかりしたもので、そこに対しては不安を覚えることはなかった。身につけた技術の質は、そんなに簡単に落とせるものではない。 自転車に乗る技術、都心でうまく走る技術というものもあるので、どんなに気分がすぐれなくて流しながら都心を走っていても、一定の時間以上にかかることはない。これも随分と乗りなれた経験からだろう。 チベット問題の聖火リレーの妨害も問題となったが、マスメディアに映るぐらいの行動に出る人は、やはりそれなりの技術があるのだということも推測がつく。熱い思いで国を憂う人が映し出される場合と、妨害の先頭に立つ人の場合では、まったく別なことをしているようにしか思えない。市民運動の盛んな英仏の市民のデモと、そこで繰り返される一部の策略・行動は別種のものだ。どう見ても、火を盗もうとした人は、プロとは言わないまでも、ある一定の技術は持っている。 日本の調査捕鯨船の妨害と、この聖火リレーの妨害は同種のものであると思うのだが、どうであろうか?一方は、海賊船に乗り自らを名乗り出ていて、一方は市民に紛れている。どちらも、ある過激派の行動と言える。 オーストラリアの市民に捕鯨への批判が多いにしても、彼等は調査船を妨害することまではしないのだ。 豪では日本政府に対する風当たりも強いことは、中国政府にたいする世界の風当たりと同じ。 聖火リレーを妨害する側も、それを防ごうとする「青シャツ」も、チベット問題を拡大化しようとする諜報組織も、問題をなかったことにする中国政府も、すべて専門家による一種の諜略と捉えるのなら、ある意味で、民衆はいいように利用され、置き去りにされているように見えなくもない。聖火ランナーの一様に困惑した顔がとても印象的だ。 話はかわって、テレビで活躍するタレントにすら技術があり、たとえ海外でどれだけのエンターティナーであったとしても、日本のテレビに引っ張り出されると、ある一種の違和感を感じるものである。テレビ慣れしたスポーツ選手や弁護士など...

タブー

少し前の事件だが、音楽家のダニエル・バレンボイムが2001年7月イスラエルで、R・ワーグナーの曲を初めて演奏したことで、論議を呼んだことがあった。イスラエルの国会はボイコットを促したという。ワーグナーはヒトラーの好んだ作曲家だったので、迫害を受けたユダヤ人の国家イスラエルとしては許せないということだろう。ちなみにバレンボイムの国籍はイスラエルである。 バレンボイム自体がイスラエル政府批判をしていることもあってか、この演奏行為も政治的なものと見るむきもあるのだが、そこに横たわる問題はそんな単純なものではない。 そもそも、ワーグナーの政治思想でワーグナーの音楽すべてを語ることは誤りだし、それをある特定の政治的なものに結びつけるのも誤りだという認識がある。 ナポレオン崇拝のベートーヴェンの音楽という捉え方など不可能だし、ナチス問題とフェルトヴェングラーの関連は彼の人生には密接でも、彼の芸術とはそんなに大きな関連がない。 そういったとしても、現にイスラエルではワーグナーの音楽は、一般には流通していても、公共の場での演奏はタブーとされていたらしい。 このタブーということが問題なのである。 日本にもさまざまなタブーがあり、それを侵犯すると色々な害悪が加えられる。言ってはいけないことというものが厳然と存在しているわけだ。それは、歴史的な禁忌であったり、経済的な損失の恐れから口をつぐんだり、または、危害を加えられることを恐れることでもある。 また、タブーがタブーとして一般化しすぎて、人の認識の上で問題視されなくなってしまうこともある。今さら語るに値しないという訳だ。 「タブー」 1、神聖(不浄)なものとして禁制されること。 2、その事に言及するとよくないということが、その社会や席で暗黙のうちに認められていること。 (新明解国語辞典より) 最近話題の映画も、そういったタブーに触れた理由で大騒動になっている。ほかにも、花になぞらえたさまざまな禁忌があり、それを避けるかのように報道がなされている。 何もタブーを破ることが勇気あるというわけでもないが、事実を隠ぺいするような蓋の役割をそれが持っているのなら、そのことによって多かれ少なかれ盲目にさせられているわけで、これは不利益になることだ。 同じように、ワーグナー作曲というだけで、素晴らしい曲を聞くこ...

変わりゆく世界

今、中国のチベット問題が話題になっているが、少数民族の自立・独立は潜在的な問題なので、何かの拍子にふと湧き出て、沸騰する事態になることは、容易に想像できる。 欧米でのリレー妨害は、突端の過激な妨害をしたのは過激な活動家で、いわば、その道のプロであり、穏健な民衆とは種類が違う。 思えば、世界中でこういった問題を抱えていない場所はなく、日本でさえも、映画「靖国」をめぐる混乱においては、腫れものにふたをするような歴史が浮き彫りになった。 ときおりテレビで流されるどうでもいい映像、天皇一家のこと、なんて、非常に気持ち悪い統制のように思えて仕方がない。 冷戦後、世界の盟主的な立場になり、過激な国・組織を「懲罰」してきた、アメリカ合衆国でさえも、懐疑的、というより反省的な姿勢になっている。 少し前の枠組みや思考方法さえも、変転していくもので、思えばここ10年に限っても、普段よく見る外国人の態度などに変化が見られる。 さまざまな問題をかかえ、変化していく世界。その変化を敏感に感じ取ること。 真山青果の『玄朴と長英』は江戸後期の、そういった世界の中で格闘した人間の物語に思える。突如この作品に触れたのには訳があるが、今は言わない。 変動する世界で人間どう生きていくか、これは昔も今も変わらない。 そういった視点で、物語を読むという方法もある。 変わっていく世界と向き合う現代的なもの、それを追及したい。

日本というもの

演劇に取り組む人がおそらく必ずぶち当たる壁、大げさに壁とは言わないまでも、障害というものは、日本の作家が日本語で書いた戯曲と海外の戯曲の間に横たわる差異であろう。 これがテレビドラマであったり、日本映画であったりしたら、日本人の役者が「ハロルド」とか、「マクベス」とか名乗るのを聞けば、即座に違和感を覚えるであろう。 演劇では同じ役者が、ロシア人にも、中国人にも、古代ローマ人になっても、その条件性を受け入れることは難しいことではない。 だが、たとえある俳優がカナダ人になったとしても、どこまでカナダ人としての人間性を表現できるかは疑問だ。ある意味ほぼ不可能かもしれない。カナダ人を表現するというよりも、人間一般、ある国の特殊な人間でなく人間性そのものを表現するともいえる。かといって、カナダ人の生活や風習や歴史・文化を知らないうちに、安易にカナダ人役ができるとも思えない。 トリュフォーの映画にも、「おかしな日本人」が出てくるが、その場面は、日本人の観客には失笑の種だ。 中国人らしい人が日本人として出演している映画もよくあるが、あれも違和感を感じる。 日本のドラマでも、人種の違った人間を外国人一般でひとくくりにすることがあるが、日本人のわれわれには奇妙でなくとも、当事国の人間にはおかしく思えるだろう。 こうなると幻滅するくらいの限定された範囲でしか、演劇も映画もできないように思える。 そこで、日本語で書かれた、日本人を演ずる戯曲に取り組まなければならない、といった使命感みたいなものが出てくる。これは役者や演出家、必ず多かれ少なかれ通るものであろうと思う。 日本人と日本を綿密に表現したいという欲望。 だいいち、役者の演技が褒められるのは、外国人を演じるときよりも日本人を演じるときのほうが多いのだから、役者もそれを悟るのだ。 そしていつまでもそこを住処に、日本人を演じるという意識もなく自然と、身近な人間を演じることになる。 最初に「壁」と書いたが、その、外国人を演じることへの抵抗・障害を、どこまで乗り越えられるか、これもまた大事なことではないだろうか? 最近の日本のメディアや市民も、どこかナショナリズムなものを感じるのはぼくだけであろうか?大げさな「j」「〜ジャパン」、ある特定の国への偏見。 演劇や戯曲と、ナショナリズムとを結びつけるのはあまり...

陸上のイージス艦

ちまたにニュースがあふれているが、メディアの側の取捨選択だけを頼りにすることは、一般の生活者だとしても怠惰と言わざるをえない。事件なり話題なりが生活に密着していようといまいと、ニュースから飛躍して、想像して、また生活に関連づけるような試みをしていかないと、メディアに飼いならされるのが落ちかもしれない。 イージス艦の衝突事故の問題。 事故の原因究明・防衛省の体質などが争点になっているが、その追及はもっともなもので不足はない。しかし、いったんその話題がお茶の間に乱入してきたときに、私たちが事故の事件性や自衛隊の問題としてだけとらえてしまうと、この事件は一過性のものとして忘れ去られていく。私たちの問題ではありながら、批判し、客観視することで、よそものとなっていく。 忘れ去られる危険性はそんな客観視した姿勢にあると、ぼくは思う。想像をしてみれば容易に身近な問題、人間の問題であって、単なる事件や官僚の問題でない。権力と横暴は身近にあると思うのだが。そこまで、自分の問題として、生活のレベルとして考えることをしないと、一過性の事件として多くのニュースに埋もれるにまかせるままになる。 要は、イージス艦が海上で行った不注意と意図しない横暴は、たとえば、陸上で日常茶飯事に行われている、自動車の横暴にほかならないと言いたいのだ。 横断歩道を猛スピードで、止まりもせずに突っ切る車。狭い生活道路をそこのけとばかりにクラクションを鳴らす車。一方通行だからと優先権を持ったかのように走る車。 そう、だれでもイージス艦になる可能性を持っているのだ。 どんなに善良な人間も、自動車に乗ると、歩行者を邪魔者扱いする事例を何度か見てきた。後方から別な車が煽るから急がざるをえず、車同士での論理でもって、乱暴に歩行者・自転車を押しのけていく。 小さい船がどけるだろうからというおごりは、見事に自動車にもあるのだ。確かに小回りの利かない車が堂々と横断歩道や道の真ん中にいたら、それを移動しろとはなかなかいえず、嫌々、歩行者が遠回りしたりよけたりする。 親切なドライバー、きちんと通行者の感受性を察して運転するドライバーもきちんといる。そういう運転手の存在の有無・多少を問うているのではない。 イージス艦の事件を海上の問題、大きな国家の問題として、生活者の視点から放り投げてしまう危険性が問題で...

かけおち

複雑な事件が起こった。といって、なにも事件自体が複雑なのではない。いたって単純な事件だ。それを受け止めるぼくの心が複雑なだけだ。 ご存知だろうか?兵庫県の男性(24歳)が女性(13歳)を連れ回したというタイトルでニュースになった事件である。連れ回したというが、実際は女性の家出とともに、ふたりで一緒に暮らすために東京に出てきていたところを補導されたというわけだ。男性は逮捕である。犯罪はといえば、未成年の女性を連れ回したかららしい。言葉使いの不自然さは置いておくにしても、ふたりは結婚を反対されたらしく、いわばかけおちのかたちで故郷を飛び出して行ったのだ。 なんでぼくがその事件を複雑に思うかというと、ま、グルッポ・テアトロで公演をやるために、『お夏清十郎』に取り組んでいるのだが、その話はまさしくかけおちの話。お夏と清十郎がかけおちをして、捕まって、清十郎が処刑されるのだ。そんな話にかかりきりだから、かけおちという言葉に敏感になる。そして今回の事件もひとりが捕まった、お夏清十郎の物語と同じ、女性をかどわかした罪によって。そして、同じ兵庫県から抜け出してきたということにも偶然を感じた。 いってみれば、この事件をニュースで見たときに、偶然の出会いに喜んだのだ。現代でもかけおちは確かにあるのだと。 しかし、今回の事件でふたりが捕まって、男性が逮捕されたということに腑が落ちないので、複雑な気持ちになるのだ。くわしい事情は知らない、二人の人物像も知らない、しかし、かけおちが現代でもひとつの犯罪の名を着せられて、処罰されるところにいい気持ちはしないのだ。 現代ではさまざまなかたちの犯罪があり、殺人やら、暴力やら、詐欺、窃盗、横領、性犯罪など、事件が多く勃発している。これらの犯罪に並べられて、この事件が、同じ夕方のニュースに出るところに、何か恐ろしい道徳心の押し付けを感じるのはぼくだけだろうか?少なくとも、この二人は同意のかけおちなのだ。そこに単なる家出以上の愛情が混ざっていることも、気がかりのひとつなのだ。まあ、逮捕という事実を伝えたのかもしれないが、このニュースを人々がどう受け取るかが問題だと思う。ぼくは、少なくともこのふたりは、人間とその心に傷をつける行為はしていない限り、たとえゲームセンターで遊んでいるところを補導されたとしても、一般の犯罪と同列にしてはいけないと...

隠れてサッカー

このニュースが勃発したときから釈然としないまま、ずっと傍観してきたのだけど、やはり、言ったほうがいいかなと思って言ってみる。今、ニュースを賑わしている騒動だ。朝青龍の事件。 結論からいえば、こんな大騒ぎすることのないこと。協会の処分は妥当だろうし、朝青龍の言い分というか行動は、わからないことはない。問題なのは、国民あげて大騒ぎすること。もしくは大騒ぎするように扇動させられていること。 たかがスポーツじゃないか、普段放り投げておくくせに、問題が起こったときだけ、良い人ぶって訓示をたれる必要はないのじゃないか?ぼくも常習犯だが、さぼりと虚偽の報告は人間の弱さから、もしくは本心から起こりうること。そうなったら処罰するならすればいい。自転車ロードレースのツール・ド・フランスでのある選手、ラボバンクのラスムッセンのチームからの追放も居場所の虚偽の報告からであった。ラスムッセンはチームから解雇され、必然的に最高位にいながらレースから追放されることになった。あとくされはない。次の日から、ラスムッセンは申し立てをし、一方レースは新たなチャンピオンが誕生する。ラスムッセンの行動をつべこべ何時間もニュースにしてテレビに流す必要はないのだ。 普段から大相撲を愛する人にとっては、この事件は許せないのかもしれないが、こういう騒動が勃発したときだけ、妙に道徳心を発揮したり、訳のわからぬ愛国心を発揮したりする人のほうが断然多く、声も大きく朝青龍を非難しているようだ。骨折していたのに、サッカーを楽しそうにやっているなんてお茶目じゃないか。中学生の仮病みたいだ!ぼくは、別に被害を被らないし、朝青龍が骨折しようがサッカーしようがどちらでもいい。だから、道徳心を用いて朝青龍を正そうとするつもりはない。知らないことに口は挟まない。しかし、今、ちまたは大騒ぎだ、スポーツ紙も芸能ニュースも。ただ踊らされているだけなのだ。そこであえて口を滑らして良い子ちゃんしてしまっているだけ。 世界にはもっともっと深刻な重大な、そして、もっと熟考してから言葉を発しなければいけないことがある。そんなことを沈黙し、または無視するようなお調子者になってはいけないな、とつくずく思う。 でも朝青龍のサッカーの映像みると、あの試合はスターをたたせるための遠慮の入った試合のようで、興行的でぼくは好きでない。朝青龍は隠れ...

大脱走

今さらながらだが、浅田彰の『逃走論』を読んで楽しんでいる。いったい誰に語っているのかわからない口調の文もあれば、難しい概念の文もある。二元論的にばっさりと切り捨てるところが、いさぎよい。しかし、それが落とし穴というか、論理のまやかしに通じるかもしれない。が、おもしろい本だ。 パラノ人間(偏執型)とスキゾ人間(分裂型)。前者は定住、蓄積。後者は脱走、ギャンブル。過去を背負いしがみつく姿勢が前者で、後者は過去をゼロに戻しとんでもない方向に走っていく。 思えば、どれだけわたしたちは伝統や格式や規則を当然のことのように受け入れているだろうか?穏便な社会生活を送る上では、そのことが必要とされるのかもしれないが、ときには冒険のひとつやふたつしたくなるのが人情というものだ。そんな冒険にまで、日常の規範を導入しなくてもいいわけで、そのところに祭りなどでの馬鹿騒ぎの理由が見いだされそうではあるが、その非日常の祭りまで年中行事としてスケジュール化してしまう波がおしよせる。こうなったら、逃げるしかないのか?どこに? はみだしたい、日常を忘れたいという欲望も、たいていはつっぱりや酔っ払いなどの人間界の風物詩となってしまう。音楽よりも姿格好のほうに気力を傾けている自称ロッカーに会ったことがあるが、見ているのが気の毒なほど俗的に典型化していた。 ブレヒトが異化ということばを使い、シクロフスキーも別な分野で異化ということばを使い、浅田がスキゾフレニーということばを使っているのも、現実の重みのために思考や感性が自動機械化してしまうことに対する警告なのかもしれない。現在においては戦わなければいけない。判断や感性が鈍くなるというより、過去の判断の積み重ねの重さが強度を増すのだ。 若いときに嫌悪していたことが、年を重ねると許せるようになるのは、人間が成長したことかもしれないが、同時に、若いときの嫌悪も絶対的に真なのだという真理を持ち続けていかないと、すべてをにこやかに許す愚鈍な感性になってしまう。 そうならないためにも、ひとつの事象にぶちあたったら必ずゼロから出発する固い意志が必要になってくる。ひとりの人間を前に、若者だとか、学生だとか、外国人だとかいう枠組みの中でのレッテルを貼らないで、不可思議なひとりの人間という認識から出発しなければいけない。 歴史は繰り返すというが、ひ...

歴史の悪趣味

数日前に観た劇団東演の『恋でいっぱいの森』のパンフレットに、福田善之氏の文章で、芥川比呂志がヴェトナムで枯葉剤をまかれるマクベスの劇をやりたい、と書かれていた。劇の最後の場面はその演出かと思ったのだが、それは別にして、枯葉剤ということばがずっと気にかかっていた。 ピンターの本には、アメリカ政府が自分の膝元の中米の国々を侵略してきた経緯が書かれていて、アメリカに反対する勢力の対抗勢力に武装援助をしてきた歴史が書かれている。 今日はミラン・クンデラの『カーテン』(集英社)のなかで、チェコという国がソ連にいわば併合された歴史を語っている。 大国の横暴なやりくちが気にかかっていた。 昨日だったか、自転車で街を走りながら、ふと思った。もしかして頭上からぼくを狙撃する人間がいたら、ぼくは逃げられるだろうかと。ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』でないけど、あんなふうにいきなりぼくを襲うものがあったとしたらどうしようと。少しの時間ではあったが、気になった。 そして今日の夕方、テレビのニュースで知ったのだった。コロンビアとエクアドルの国境近くに、コロンビアの麻薬組織のアジトがあり、それを狙うために、コロンビア政府とアメリカ政府で、空中から枯葉剤を散布しているのだ。しかも2000年から。枯葉剤が地上から高い位置で散布されるため、また、高濃度であるために、風邪にのってエクアドルの住民がそれをまともに浴びている。農産物だけでなく、人間にも浴びせかけているのだ、しかもそれが麻薬撲滅といった大義の名目で。 まさかと思うことが平気に行われている。 核兵器だって使われないとは言い切れない。 クンデラに言わせれば「歴史の悪趣味」か。 特攻隊だって復活するかもしれない。 かっと目を開いて、世界を監視しなければいけないな、わたしたちひとりひとりが。 cf.  恋でいっぱい(?)の森 ハロルド・ピンターはこう語った

ハロルド・ピンターはこう語った

ハロルド・ピンターの『何も起こりはしなかった』(喜志哲雄編訳、集英社新書)を興味深く読んでいる。劇作家で、2005年のノーベル賞作家だが、そういった肩書きを説明する必要はあるまい。かなり刺激的な劇作品のいくつかを読んで、興味はもっていた。 そんな作家が、ノーベル賞の記念講演で述べたことは、世界情勢についてのかなりの危惧であることがおもしろい。彼の作品を読んで気づくパンチ力は、そういった認識を基本にして生まれることが分かった。 演劇や文学が、人生や真実や社会などへの問いかけから離れるとき、(ぼくのことば使いでいえば)お伽噺になるときに、それらの芸術は単なるショー、見世物になってしまう。そういった類の見世物を否定はしないが、そんなバラエティ番組が世の中にあふれてしまうのはいかがなものかと思う。 娯楽という概念が、何も危険物を含まない、身に優しいもので、表層を心地よくさせるものとして利用されるとき、ローマ帝国時代の享楽主義やバブル期の日本のように、怪物的な頽廃がはびこってしまう。 無残なリゾート地の廃墟やお化けのような化粧は、彼ら自身の前に鏡を置いてあげたいくらいだ。しかし、鏡をのぞく本人たちには鏡にうつる意味は理解できないのだが・・・ ピンターが目の敵にしているのは、アメリカ政府という怪物だ。彼はイギリス人なので、アメリカに追随するブレア首相をも非難している。そういえば、ブレアはイラク戦争の責任で退陣するのだったな、たとえ本人は認めていなくても。イラク攻撃のときは誰もが、攻撃の理由はおかしいのじゃないかと疑問に思ったと思うのだが、それがわからなかったのはアメリカに追随するいくつかの国の政府だった。(もちろん日本もな)。 ピンターも指摘するとおり、そんな理不尽な行動が、アメリカがすることだからと容認されてしまい、思考も正常な判断も放棄してしまう、全体主義が恐ろしいことなのだ。アメリカ政府のやりくちは見世物師的なところがあり、市民も感情的に扇動され、対外的には脅しや嫌味といった仕掛けで周りを取囲んでいく。 わたしたちが、生活レベルでも、社会のレベルでも、政治的なレベルでも、問題点を一過性の話題としてとらえることに慣れすぎると、重大な問題として捉えることを忘れてしまう。自分の問題意識を毎日のニュースのように入れ替わりさせてはいけない。殺人事件の詳細を興味本...

怒り心頭

今日は4回、車関係のいざこざがあった。 まず、朝にお酒か何かの配送のトラックが無理に右折してきて、直進のぼくの自転車を無視したこと。次に、夕方、タクシーが無理な追い抜きをしたあとにぼくの自転車の進路を妨害して割り込み急ブレーキをかけせたこと。夜に、相互通行の道で交通誘導の親父が反対から来る車にばかり気をとられ道の真ん中で棒をふりまわしていたこと。最後に、タクシーが信号待ちしているぼくをクラクションでどかそうとしたこと。 最後の件は、ぼくも意地を張っていたから、タクシーばかりを責められないが、すべての事例に共通するのが、車の権力をふりかざすことに無感覚になっている者たちのお粗末な行動だ。 なぜか武器を持っているからといって、優遇されるのも間違いだし、上から目線というのも大間違いだ。車に乗っているのは恥ずべきことかもしれない。地球温暖化の防止の名目なら、その論理は成立する。だいたい自転車が行き場がない道路も悪いし、歩行者の通る道が狭いのも悪いし、車の運行を優先する思考方法自体大間違いなのだ。歩行者の邪魔にならないよう、ひっそりと道路を使わせてもらっているのだぞ車は。こんなふうに極端に、逆説的に考えなければ惰性になってしまう。 歩行者や自転車に気を使って走っている車は、一目でわかる。その思想が運転に表れるのだ。そんな紳士を求む。野蛮な怪獣はもういらない。

不満だらけさ

今日、仕事で自転車に乗っているときに、ハイヤーのタクシーにひかれそうになった。怒ってどなって睨んだら、無視された。人をひこうとして何の謝りもないのだからな。おかしなことだ。 車に乗っている者は車同士には、合図をだしたり謝ったり譲ったりするが、歩行者や自転車に対しては、なんのコンタクトもしない。たかが車の力で加速しているに過ぎないのに、鼻高々なのだ。走る凶器が歯をむきだしにして怪我をさせなかったからといって、おとがめなしなのはいかがなものか? たしか法律では、歩行者をびっくりさせただけで違反のひとつになるんじゃなかったっけ? 車のクラクションもいらない。というか、歩行者や自転車に対してクラクションを鳴らしたら罰則にしようじゃないか。歩行者たちが抗議したいとき、大声で怒鳴るか、バンパーを叩くかしか方法がない。過激かもしれないが、抗議の形として、傷がつかない程度に車の側面に蹴りを入れるのを合法にしようじゃないか?交通弱者の声は車の中の人間に聞こえないのだから。 要するに、人間が機械を使って自分のキャパシティー以上のものをあやつるときに、慎重になれということ。謙虚になれということ。できないのなら、法律を大胆に変えること。車の通れない道を作ればいい。都内を大渋滞にさせてしまえばいいのだ。 表参道の交差点も車のスペースを狭くする計画があるらしい。だいたい、あんなに歩行者の多いところを今まで車優先にしてきたことのほうがおかしい。歩行者信号の時間も増やせ。青山通りを一車線ずつ歩行者と自転車にあけわたせ。 いい加減、車を優先する考えをやめなさい。交通のガードマンも車に気を使って、歩行者の足を止めるんだから、何を考えているのやら。 なんだか今日は愚痴大会になってしまった。しかし、これはいつも思っていること。そして多くの人が耐え忍んでいることだと思うがどうだろうか?

結論からはじめるのか

結論は初めからはない。 それを分かっていても、最初に結論ありきという事はよくあることだ。 事態が、芸術の創造の場に起こると、それは致命的な頽廃につながると思う。 出来レースという言葉もあるように、オーディションの現場では結論が決まっていることはよくあるようだ。最近話題になったタウンミーティングがその最たる例で、導き出す結論はもう決まっていて、いかにそこにうまく行き着けるかということに腐心する。大衆を扇動するためのやらせやからくりも数え上げればきりがない。 議論する場では、論者は確信があって立場を動揺させないにしても、議論のなかで見つけ出せた中庸点を議論の結論とするのではなく、あくまで自分の論点に固執することは、生産的な議論とはいえない。 小説を読むにしても、戯曲をあたるにしても、批評家やメディアの意見や感想は大きく参考にするものである。演劇や映画も、評判や口コミや批評を参考にして自分でも観にいこうと考えることも少なくない。 だからといって、まるっきりその評判を鵜呑みにする人も多いとはいえないと思う。批評は批評、評判は評判、自分の目で確かめてというのが健全だ。 インターネットの発達で、信頼のおけるメディアの論評よりも、多数の人が同じ意見を持っているということに信頼をおいていたとしても、手で触って確かめてという過程は、主婦であろうが学生であろうが忘れることはない。 しかしだ。いざ自分が物を創造しようとしたときに、結論から入っていってしまう例にぶち当たるのはなぜだろうか? 戦争を扱った作品にそれが多い。また、殺人などの倫理的に結論が揺るぎないような事例にも多い。現在、戦争をしようなどと声高にいう人はいない。偽善的に有事のため、万が一のためと称して、政治的な改悪をする政府もあり、戦争をセンチメンタルに美化する風潮もある。いっぽう、戦争反対のための映画や小説も多くあり見るに耐えない。両者とも、結論からスタートしているから、最初の事件や契機のあとは、単なる論証にすぎないのだな。 微妙な問題をはらむのが特攻隊の問題で、今夜友人の出演している舞台をみてきたて、おもしろかったし情熱的に芝居に取り組んでいるのでいい舞台ではあったのだが、特攻隊員をどう捉えるかについての新しい発見や示唆は無かったので、情緒的には揺すぶられても、大満足というわけにはいかなかった。...

新しい人

大江健三郎はその著書『「新しい人」の方へ』の最終章で「新しい人」を定義づけている。新約聖書のパウロの手紙で使われていたらしい。難しい対立のなかにある二つの間に、本当に和解をもたらす人として思い描いている。敵意を滅ぼし、和解を達成する人。 『ロミオとジュリエット』もそんな新しい人の出現と死によって、いがみあうふたつの世界が和解することになる。 この世界は放っておくと憎しみや敵意が正当化され、権利化され、当然視される。境界線を越えて侵入してきた者は、銃撃することが当たり前とされる。人間の心の境界線の場合も踏み越えて入って来られることに恐れを抱く。 境界線といえば、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の雪山を思い浮かべる。雪に覆われた国境を脱走兵が越えるのだが、警備兵は雪で見えない国境線を越えた途端に銃撃をやめる。越境したからだ。見えない国境線を越える前までは銃を向け、見えない国境線を越えた後は銃を下げる。その境界線は大いなる幻影というわけだ。何を根拠に敵意や攻撃をするのかは、まったくの曖昧なものだということ。 ルノワールの越境(フランス文学者の野崎歓が丁寧にルノワールの越境性を論じている)、ロミオとジュリエットの恋の越境、大江健三郎の「新しい人」、これらすべて、人間のちっぽけなエゴイズムや敵意を友愛の手で変革しようとする試みなのかもしれない。 新しい世界をもとめなければいけない。 真山青果の『お夏清十郎』のお夏も、清十郎も、与茂七も、お亀も、みな新しい世界を夢見たり、希望したり、託したり、踏み出したりしたのだ。いつまでも古い世界の古い人であることに居心地の良さを見出していてはいけない。 新しい人にならなければ。 ブレヒトも、戯曲を読むときに、新しいものと古いものを探せという詩を残している。 こうしてみると、世界を読み解く鍵が、その辺りに潜んでいるような気がしてきた。そしてつねにその鍵は無力ながらも、友愛にあふれ、平和的なものである。暴力や敵意やエゴイズムや領土欲を肯定する思想には、十分気をつけなければならないな。