結論は初めからはない。
それを分かっていても、最初に結論ありきという事はよくあることだ。
事態が、芸術の創造の場に起こると、それは致命的な頽廃につながると思う。
出来レースという言葉もあるように、オーディションの現場では結論が決まっていることはよくあるようだ。最近話題になったタウンミーティングがその最たる例で、導き出す結論はもう決まっていて、いかにそこにうまく行き着けるかということに腐心する。大衆を扇動するためのやらせやからくりも数え上げればきりがない。
議論する場では、論者は確信があって立場を動揺させないにしても、議論のなかで見つけ出せた中庸点を議論の結論とするのではなく、あくまで自分の論点に固執することは、生産的な議論とはいえない。
小説を読むにしても、戯曲をあたるにしても、批評家やメディアの意見や感想は大きく参考にするものである。演劇や映画も、評判や口コミや批評を参考にして自分でも観にいこうと考えることも少なくない。
だからといって、まるっきりその評判を鵜呑みにする人も多いとはいえないと思う。批評は批評、評判は評判、自分の目で確かめてというのが健全だ。
インターネットの発達で、信頼のおけるメディアの論評よりも、多数の人が同じ意見を持っているということに信頼をおいていたとしても、手で触って確かめてという過程は、主婦であろうが学生であろうが忘れることはない。
しかしだ。いざ自分が物を創造しようとしたときに、結論から入っていってしまう例にぶち当たるのはなぜだろうか?
戦争を扱った作品にそれが多い。また、殺人などの倫理的に結論が揺るぎないような事例にも多い。現在、戦争をしようなどと声高にいう人はいない。偽善的に有事のため、万が一のためと称して、政治的な改悪をする政府もあり、戦争をセンチメンタルに美化する風潮もある。いっぽう、戦争反対のための映画や小説も多くあり見るに耐えない。両者とも、結論からスタートしているから、最初の事件や契機のあとは、単なる論証にすぎないのだな。
微妙な問題をはらむのが特攻隊の問題で、今夜友人の出演している舞台をみてきたて、おもしろかったし情熱的に芝居に取り組んでいるのでいい舞台ではあったのだが、特攻隊員をどう捉えるかについての新しい発見や示唆は無かったので、情緒的には揺すぶられても、大満足というわけにはいかなかった。
以前ぼくも劇団に所属していたときに、特攻の話を舞台でやって知覧にも行ったのだが、その芝居は軍隊経験者からも平和主義者からも、似たような賛美を聞かされ、複雑な思いをした。どちらにでもとれると。特攻の美化にも、戦争の愚かしさの認識にも。両面価値的にどちらにでもとれるというのは、結局は、観る側は始めからある結論を導き出そうとしていて、演じる側ははっきりとした問題の追及をしていなかったためでもある。
ぼくの意見はこうである。特攻隊員の逸話は前途に未来のあった若者の物語なので、その死を惜しむ感傷は避けられない。人間の物語・ドラマは胸を打つものである。しかし、無謀な特攻隊の存在は人間軽視の最たるものであって、そこを怒りをもって追及すること無しには済ませられない。やむなくでもあれ、自爆することを受け入れてしまった隊員は、戦争の機構に挟まった犠牲者であり加害者でもあるということ。見えない巨大な装置の存在を描かないことにはいられない。単なる一個人の人間のドラマとして話を語るのは間違いだということ。
イスラム原理主義の自爆テロと特攻隊員の違いは何なのだ?遠く離れたアラブの人間だとその行為の是非も冷静に判断できるのか?両者を間違いだと言えることは当然すべきことだが、どちらも単なる個人的な意志の問題でないことも確かだ。
結論からはじめるのか?といった自分が、結論から始めて論証するのも変な矛盾だが、やはり出来レースの小説・戯曲・芝居・映画はつまらないのだ。新たな発見とともに思いもしなかった結論が導き出されるものに出会いたい。新たな人間との出会いは発見と変化にあふれるのが常だから。それを芸術作品に求めて悪いことはあるまい。
それを分かっていても、最初に結論ありきという事はよくあることだ。
事態が、芸術の創造の場に起こると、それは致命的な頽廃につながると思う。
出来レースという言葉もあるように、オーディションの現場では結論が決まっていることはよくあるようだ。最近話題になったタウンミーティングがその最たる例で、導き出す結論はもう決まっていて、いかにそこにうまく行き着けるかということに腐心する。大衆を扇動するためのやらせやからくりも数え上げればきりがない。
議論する場では、論者は確信があって立場を動揺させないにしても、議論のなかで見つけ出せた中庸点を議論の結論とするのではなく、あくまで自分の論点に固執することは、生産的な議論とはいえない。
小説を読むにしても、戯曲をあたるにしても、批評家やメディアの意見や感想は大きく参考にするものである。演劇や映画も、評判や口コミや批評を参考にして自分でも観にいこうと考えることも少なくない。
だからといって、まるっきりその評判を鵜呑みにする人も多いとはいえないと思う。批評は批評、評判は評判、自分の目で確かめてというのが健全だ。
インターネットの発達で、信頼のおけるメディアの論評よりも、多数の人が同じ意見を持っているということに信頼をおいていたとしても、手で触って確かめてという過程は、主婦であろうが学生であろうが忘れることはない。
しかしだ。いざ自分が物を創造しようとしたときに、結論から入っていってしまう例にぶち当たるのはなぜだろうか?
戦争を扱った作品にそれが多い。また、殺人などの倫理的に結論が揺るぎないような事例にも多い。現在、戦争をしようなどと声高にいう人はいない。偽善的に有事のため、万が一のためと称して、政治的な改悪をする政府もあり、戦争をセンチメンタルに美化する風潮もある。いっぽう、戦争反対のための映画や小説も多くあり見るに耐えない。両者とも、結論からスタートしているから、最初の事件や契機のあとは、単なる論証にすぎないのだな。
微妙な問題をはらむのが特攻隊の問題で、今夜友人の出演している舞台をみてきたて、おもしろかったし情熱的に芝居に取り組んでいるのでいい舞台ではあったのだが、特攻隊員をどう捉えるかについての新しい発見や示唆は無かったので、情緒的には揺すぶられても、大満足というわけにはいかなかった。
以前ぼくも劇団に所属していたときに、特攻の話を舞台でやって知覧にも行ったのだが、その芝居は軍隊経験者からも平和主義者からも、似たような賛美を聞かされ、複雑な思いをした。どちらにでもとれると。特攻の美化にも、戦争の愚かしさの認識にも。両面価値的にどちらにでもとれるというのは、結局は、観る側は始めからある結論を導き出そうとしていて、演じる側ははっきりとした問題の追及をしていなかったためでもある。
ぼくの意見はこうである。特攻隊員の逸話は前途に未来のあった若者の物語なので、その死を惜しむ感傷は避けられない。人間の物語・ドラマは胸を打つものである。しかし、無謀な特攻隊の存在は人間軽視の最たるものであって、そこを怒りをもって追及すること無しには済ませられない。やむなくでもあれ、自爆することを受け入れてしまった隊員は、戦争の機構に挟まった犠牲者であり加害者でもあるということ。見えない巨大な装置の存在を描かないことにはいられない。単なる一個人の人間のドラマとして話を語るのは間違いだということ。
イスラム原理主義の自爆テロと特攻隊員の違いは何なのだ?遠く離れたアラブの人間だとその行為の是非も冷静に判断できるのか?両者を間違いだと言えることは当然すべきことだが、どちらも単なる個人的な意志の問題でないことも確かだ。
結論からはじめるのか?といった自分が、結論から始めて論証するのも変な矛盾だが、やはり出来レースの小説・戯曲・芝居・映画はつまらないのだ。新たな発見とともに思いもしなかった結論が導き出されるものに出会いたい。新たな人間との出会いは発見と変化にあふれるのが常だから。それを芸術作品に求めて悪いことはあるまい。
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戦争を考えるために、小林よしのり著『戦争論』を読んでみてほしい。
ここが考えるスタートだと思う。