思い煩いは行動することによって、杞憂であることに気づくことが多い。悲観的に、何もかも悪い方向に考えることによって、行動はますますと遠のき、心配はますます増える。にっちもさっちも行かなくなる。
こうしたときに、頭ごなしに説教されるのは逆効果である。「なんでやらないの?」。
できないと思うことが物事を不可能にしているのだが、そういうときは意固地になってできないのだと思い込んでしまう。
できないけれどもやってみる。まあ、不可能だとは思うけど、やることだけはやる。ようは行動に移すことが肝心なのだ。
一度動き出してしまうと、先ほど考えていた悲観的なことはすっかり問題にならなくなる。実際上の困難、技術的な困難が目の前にたちはばかると、やれるやれないは二の次で、どうすればやれるかを考えるようになる。こうなればしめたものだ。
ぼくは、以前から、そしていくぶん現在も、電話をかけることに躊躇することが多い。単に友達に元気かと電話をするときほど、その抵抗が大きい。
かけなければいけないときは、すぐに行動に移せるのだが、かけてもかけなくてもいいときや、別段今かけなくてもいいときなどには、行動に移すまでに、いろいろと考えこんでしまう。
恐怖症みたいなものかもしれない。
しかし、すぐにでも電話をしなければいけないと決めたら、あっけらかんに、すばやく、なんの恐怖もなく電話をかける。
想像力が邪魔立てしているのだ。
恐怖はそこに恐怖があると思い込むことによって増長する。
一歩先が崖だというのは、自分の目と、経験と、周囲の注意の声で気づくことになる。おそらく肉体がまったをかけるのだろう。
しかし、その先が崖だと知らないで悠々と突っ込んでいってしまう人に、恐怖や立ちすくみはあるのだろうか?
自転車ですっこけて救急車で運ばれたときがあった。たいした傷でもなく、救急車の乗り心地を楽しんでいるぐらいだった。家族は心配な顔つきで、病院に迎えにきてくれた。そのとき初めてぼくは怪我人として深刻にならざるを得なかった。
顔の傷と、肩と膝の傷。そして現場に置きっぱなしになった自転車。ただそれだけで、想像力の入り込む余地がなく、目の前の、病院の様子にだけ気をとられていたぼくが、そのとき初めて事故にあったかのようだ。
とりあえず行動してみよ!
結果には無頓着であれ!
終わってから考えよ!
これが体を縛りつける情念から解放される処方箋なのかもしれない。
こうしたときに、頭ごなしに説教されるのは逆効果である。「なんでやらないの?」。
できないと思うことが物事を不可能にしているのだが、そういうときは意固地になってできないのだと思い込んでしまう。
できないけれどもやってみる。まあ、不可能だとは思うけど、やることだけはやる。ようは行動に移すことが肝心なのだ。
一度動き出してしまうと、先ほど考えていた悲観的なことはすっかり問題にならなくなる。実際上の困難、技術的な困難が目の前にたちはばかると、やれるやれないは二の次で、どうすればやれるかを考えるようになる。こうなればしめたものだ。
ぼくは、以前から、そしていくぶん現在も、電話をかけることに躊躇することが多い。単に友達に元気かと電話をするときほど、その抵抗が大きい。
かけなければいけないときは、すぐに行動に移せるのだが、かけてもかけなくてもいいときや、別段今かけなくてもいいときなどには、行動に移すまでに、いろいろと考えこんでしまう。
恐怖症みたいなものかもしれない。
しかし、すぐにでも電話をしなければいけないと決めたら、あっけらかんに、すばやく、なんの恐怖もなく電話をかける。
想像力が邪魔立てしているのだ。
恐怖はそこに恐怖があると思い込むことによって増長する。
一歩先が崖だというのは、自分の目と、経験と、周囲の注意の声で気づくことになる。おそらく肉体がまったをかけるのだろう。
しかし、その先が崖だと知らないで悠々と突っ込んでいってしまう人に、恐怖や立ちすくみはあるのだろうか?
自転車ですっこけて救急車で運ばれたときがあった。たいした傷でもなく、救急車の乗り心地を楽しんでいるぐらいだった。家族は心配な顔つきで、病院に迎えにきてくれた。そのとき初めてぼくは怪我人として深刻にならざるを得なかった。
顔の傷と、肩と膝の傷。そして現場に置きっぱなしになった自転車。ただそれだけで、想像力の入り込む余地がなく、目の前の、病院の様子にだけ気をとられていたぼくが、そのとき初めて事故にあったかのようだ。
とりあえず行動してみよ!
結果には無頓着であれ!
終わってから考えよ!
これが体を縛りつける情念から解放される処方箋なのかもしれない。
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