このゴールデンウィークはひきこもり宣言をしていて、家からあまり出ないようにしている。それでも何かと用事ができて外出するのだが、そうしたときに感じる街の様子は、普段仕事やらで外出しているときに見える世界とは違っている。目的もなしに、もしくは目的はあっても時間に拘束されないで、普段見慣れている通りを歩いていると、感じるものが違ってくるのはなぜなのだろうか?
たとえば、顔をなでる風を愛撫と感じられるのが今のヴァカンスの状態であったとすると、用事にせかされているときに顔に当たる風は障害であったり、強い弱い、暖かい冷たい風でしかない。
周囲から聞こえてくる音にも心がやすまるこの黄金週間にたいして、今度の月曜日からは自分の必要な音しか取捨選択しないだろうことは容易に想像がつく。
日曜日はきっと雨だろうが、そんな雨も不快に思わないだろう。
思い起こしてみれば、大学時代のあの時間の緩やかさは、考えることを学ぶ時期としては適当なものだった。授業が終わればそのあとの用事は自分次第。一時限分あいだが空こうものなら、その空白の時間が豊かな彩りをもつように感じられた。
旅行をしているときもそうだったな。どこに行こうか決めないで、そのときの気分次第で時間を使う。もったいないとも思わないほど、時間を贅沢に活用していた。そんなときは、旅人の常でもあるが、穏やかな気持ちになれて、周囲の世界をとても楽しげに享受していたものだ。
かといって、ずっと休んでいるわけにもいかないのは十分承知している。
そして、怠惰にも休みを満喫しているからこそ、こんなことを思いつくことも知っている。また、こんなにゆったりと感じたことが、幸福であることも。
ジャン・ルノワールではないが、怠惰の擁護をしてみたくなるものだ、こんな日は。
「怠惰とは今や失われつつある人間的価値である・・・それは人間や物事にたいする一種の優しい気持ち、愛情と密接に関係した喜びである。ところが、あまりあくせくと活動していると優しい気持ちなど壊れてしまう。働きすぎる人に愛するための時間などない。そして愛なくして文明はないのだ」 (J・ルノワール)
まだまだたっぷり時間はある。いいね、こんな日の世界は。
たとえば、顔をなでる風を愛撫と感じられるのが今のヴァカンスの状態であったとすると、用事にせかされているときに顔に当たる風は障害であったり、強い弱い、暖かい冷たい風でしかない。
周囲から聞こえてくる音にも心がやすまるこの黄金週間にたいして、今度の月曜日からは自分の必要な音しか取捨選択しないだろうことは容易に想像がつく。
日曜日はきっと雨だろうが、そんな雨も不快に思わないだろう。
思い起こしてみれば、大学時代のあの時間の緩やかさは、考えることを学ぶ時期としては適当なものだった。授業が終わればそのあとの用事は自分次第。一時限分あいだが空こうものなら、その空白の時間が豊かな彩りをもつように感じられた。
旅行をしているときもそうだったな。どこに行こうか決めないで、そのときの気分次第で時間を使う。もったいないとも思わないほど、時間を贅沢に活用していた。そんなときは、旅人の常でもあるが、穏やかな気持ちになれて、周囲の世界をとても楽しげに享受していたものだ。
かといって、ずっと休んでいるわけにもいかないのは十分承知している。
そして、怠惰にも休みを満喫しているからこそ、こんなことを思いつくことも知っている。また、こんなにゆったりと感じたことが、幸福であることも。
ジャン・ルノワールではないが、怠惰の擁護をしてみたくなるものだ、こんな日は。
「怠惰とは今や失われつつある人間的価値である・・・それは人間や物事にたいする一種の優しい気持ち、愛情と密接に関係した喜びである。ところが、あまりあくせくと活動していると優しい気持ちなど壊れてしまう。働きすぎる人に愛するための時間などない。そして愛なくして文明はないのだ」 (J・ルノワール)
まだまだたっぷり時間はある。いいね、こんな日の世界は。
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