フランスの大統領選決選投票が間近にせまっている。
どうも、あの猿のようなサルコジの典型的なフランス人気質と、鈍重なロワイヤルの性別に訴えるやり方の、両候補の対決には、変革のきざしは感じ取れないのだが・・・
まあ、表面とメディアだけで判断してはいけないから、これは印象にすぎない。
どの国の政治家にもいえることで、非常にもったいぶった話し方が気に障るのだが、フランスの政治家の演説は一語一語かみしめるように、くっきりと一つ一つの単語を際立たせるように発音しているように思える。
たしかに、意味は把握しやすいのだが、音的に耳障りなんだな。
伝統的な朗誦法なのだろうが、そんなデクラメーション的な言い方をされると、嘘っぽく感じてしまうのも事実だ。
コメディーフランセーズの映画を観ても同じようなことを感じた。
日本で、そういった一語一語に力をこめた朗読をする人の代表格は江守徹だろうう。あの人のナレーションや朗読は聞きやすいし、意味が明確に把握できて、さすがだなと思うのだが、ときどきやりきれない思いにかられる。それは、文章を読み上げるときに感じることはなく、舞台やテレビで演技をしているときに感じることが多い。あまりに言葉に重点がおかれすぎて、実際に見える江守とのギャップが大きく感じるからだろうか?声だけが先走りしているように思えるのだ。
ことばは重要だ。これはどの職業でも、どんな人でもその意味をかみしめているだろう。あえてことばと実際の人間のしていることの比較をする気にはなれない。だいいち、そんなことをしても意味がない。
しかし、ことばに重点が置かれすぎて、人間の姿とかけ離れてしまうのは用心したほうがいい。
赤い靴だけが目立つ女性を街でみかけることが案外多いのだが、なぜそのとき、ぼくの意識は赤い靴にいってしまうのだろうか?
なぜ、吹き替え映画に違和感を感じることが多いのか?
外国語会話の番組はなんでああも特殊な雰囲気をかもしだすのか?
もういちど、人間であることを取り戻すために、ぶっきらぼうに喋ること、ささやかに喋ることを試してみるのがいいのかも・・・
それは、また別の害悪、超自然主義、平均化に陥る危険性もあるが、はっきり話しすぎる人には効果があるだろう。
反対に、ぶつぶつ話す人、あまりにだらけた話し方をする人には、サルコジや江守の話し方を学んだほうがいいかもしれない。
肝心なのは、話し方に意識を向けないでみようという試みが大事なのだ。
話す人と話す内容を乖離させないために、間の仲介者には少し黙ってもらおうという試み。
普段何気ないときは誰でもできていること、それが力が入りすぎたために強調しすぎてしまう。
そんな行き過ぎを再認識してみたい。ことばのうえでも、実生活の行動でも。
どうも、あの猿のようなサルコジの典型的なフランス人気質と、鈍重なロワイヤルの性別に訴えるやり方の、両候補の対決には、変革のきざしは感じ取れないのだが・・・
まあ、表面とメディアだけで判断してはいけないから、これは印象にすぎない。
どの国の政治家にもいえることで、非常にもったいぶった話し方が気に障るのだが、フランスの政治家の演説は一語一語かみしめるように、くっきりと一つ一つの単語を際立たせるように発音しているように思える。
たしかに、意味は把握しやすいのだが、音的に耳障りなんだな。
伝統的な朗誦法なのだろうが、そんなデクラメーション的な言い方をされると、嘘っぽく感じてしまうのも事実だ。
コメディーフランセーズの映画を観ても同じようなことを感じた。
日本で、そういった一語一語に力をこめた朗読をする人の代表格は江守徹だろうう。あの人のナレーションや朗読は聞きやすいし、意味が明確に把握できて、さすがだなと思うのだが、ときどきやりきれない思いにかられる。それは、文章を読み上げるときに感じることはなく、舞台やテレビで演技をしているときに感じることが多い。あまりに言葉に重点がおかれすぎて、実際に見える江守とのギャップが大きく感じるからだろうか?声だけが先走りしているように思えるのだ。
ことばは重要だ。これはどの職業でも、どんな人でもその意味をかみしめているだろう。あえてことばと実際の人間のしていることの比較をする気にはなれない。だいいち、そんなことをしても意味がない。
しかし、ことばに重点が置かれすぎて、人間の姿とかけ離れてしまうのは用心したほうがいい。
赤い靴だけが目立つ女性を街でみかけることが案外多いのだが、なぜそのとき、ぼくの意識は赤い靴にいってしまうのだろうか?
なぜ、吹き替え映画に違和感を感じることが多いのか?
外国語会話の番組はなんでああも特殊な雰囲気をかもしだすのか?
もういちど、人間であることを取り戻すために、ぶっきらぼうに喋ること、ささやかに喋ることを試してみるのがいいのかも・・・
それは、また別の害悪、超自然主義、平均化に陥る危険性もあるが、はっきり話しすぎる人には効果があるだろう。
反対に、ぶつぶつ話す人、あまりにだらけた話し方をする人には、サルコジや江守の話し方を学んだほうがいいかもしれない。
肝心なのは、話し方に意識を向けないでみようという試みが大事なのだ。
話す人と話す内容を乖離させないために、間の仲介者には少し黙ってもらおうという試み。
普段何気ないときは誰でもできていること、それが力が入りすぎたために強調しすぎてしまう。
そんな行き過ぎを再認識してみたい。ことばのうえでも、実生活の行動でも。
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