2006年の8月に行われた溝口健二の没後50年の国際シンポジウムの記録の本が、朝日新聞社から出版されていて、いままで見かけたことがなかったなと思ったら、2007年5月25日発行だった。まだ来てないじゃん!要するに新しく出版されたばかりなのね。溝口という名前を聞いただけで胸が高鳴るぼくとしては、うれしい買い物をした、しかも偶然に。
そこでのトークショーの記録に、芥川賞作家の阿部和重氏が溝口の映画評をしていて、溝口の映画の登場人物はみな移動している、逃げ回っているという指摘をしていた。なるほどおもしろい指摘だなと思いながら、連想したのが、映画が活劇というジャンルをもっていること、動き回ることが映画のダイナミズムを生み出すということ、そして、ぼくたちのワークショップで藤沢周平の『約束』をやったときに、男女の一方が逃げ、一方が追いかけるという構図が単純に成立したときに、俳優は役の人物になれたということ。
映画と運動、映画と自転車の関連を捉えたのは蓮見重彦だったか、山田宏一だったか、とにかく、映画のなかで動き回ることが映画を楽しくさせる要素であることは間違いない。画面のなかだけでなく、いわゆるロードムーヴィーのような旅の映画もなんであれほど郷愁を誘うのか?
溝口の映画で、大衆の場面、つまり、多くのエキストラを使っていると思われる場面での、ひとりひとりの人物の動きは秀逸だ。個々人がばらばらにその人物の生活をしているので、偽物の芝居をしている人間が見当たらない。各人が動き回るということ、ダンスのように軽やかに。
バレエが心理的な綾も、ひとつの歩行・ジャンプ・足や手の折り曲げの連続で表現するのは示唆的だ。
演劇のワークショップで気づいたのは、女が迫るときに男は逃げ女は追いかけ、逆に、女が諦めたら男が迫り、女は逃げ男は追いかける、そんな単純な行動線だ。そんなダンスで戯れながら、簡単に手を取り合わない、手を取り合えないことで、ドラマが深まっていく。逃げる者がいればそれを捕まえようと追う者は必死になる。策略も必要になる。肉体の動きに比例するように感情も高ぶってくる。
阿部氏の溝口評では、俳優たちは溝口の執拗なカメラから逃げ去る。逃げる者を追うものだから、長回しや移動撮影が必要になるというわけだ。溝口はストーカーのように執拗に俳優を追い詰める。
追いかけっこをしなくなって久しいが、久しぶりに誰かを追いかけてみようかな。
かえって、追いかけられたりしてな。
そこでのトークショーの記録に、芥川賞作家の阿部和重氏が溝口の映画評をしていて、溝口の映画の登場人物はみな移動している、逃げ回っているという指摘をしていた。なるほどおもしろい指摘だなと思いながら、連想したのが、映画が活劇というジャンルをもっていること、動き回ることが映画のダイナミズムを生み出すということ、そして、ぼくたちのワークショップで藤沢周平の『約束』をやったときに、男女の一方が逃げ、一方が追いかけるという構図が単純に成立したときに、俳優は役の人物になれたということ。
映画と運動、映画と自転車の関連を捉えたのは蓮見重彦だったか、山田宏一だったか、とにかく、映画のなかで動き回ることが映画を楽しくさせる要素であることは間違いない。画面のなかだけでなく、いわゆるロードムーヴィーのような旅の映画もなんであれほど郷愁を誘うのか?
溝口の映画で、大衆の場面、つまり、多くのエキストラを使っていると思われる場面での、ひとりひとりの人物の動きは秀逸だ。個々人がばらばらにその人物の生活をしているので、偽物の芝居をしている人間が見当たらない。各人が動き回るということ、ダンスのように軽やかに。
バレエが心理的な綾も、ひとつの歩行・ジャンプ・足や手の折り曲げの連続で表現するのは示唆的だ。
演劇のワークショップで気づいたのは、女が迫るときに男は逃げ女は追いかけ、逆に、女が諦めたら男が迫り、女は逃げ男は追いかける、そんな単純な行動線だ。そんなダンスで戯れながら、簡単に手を取り合わない、手を取り合えないことで、ドラマが深まっていく。逃げる者がいればそれを捕まえようと追う者は必死になる。策略も必要になる。肉体の動きに比例するように感情も高ぶってくる。
阿部氏の溝口評では、俳優たちは溝口の執拗なカメラから逃げ去る。逃げる者を追うものだから、長回しや移動撮影が必要になるというわけだ。溝口はストーカーのように執拗に俳優を追い詰める。
追いかけっこをしなくなって久しいが、久しぶりに誰かを追いかけてみようかな。
かえって、追いかけられたりしてな。
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