スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(演劇)が付いた投稿を表示しています

お〜い、生きていたかぁ〜

おっと…久しぶりの投稿ですね。 これだけ間を空かすとなるとねえ。どうですかねえ。 今はグルッポ・テアトロでチェーホフ作「三人姉妹」に取り組んでいます。読んでいるぶんには面白い作品なのですが、いざ上演するとなると、しかもこの現代の問題意識に照らしあわせて上演するとなると、いろいろやらなければいけないことが多いんですよね。 でも、役者と協力してうまく進んでいます。老若男女、強力なメンバーです。 三人姉妹ブログのほうも開設しています。 グルッポ・テアトロ「三人姉妹」 ぼくも書いていますし、役者さんも書いてくれますね。ぼくが書くとどうしても堅苦しくて…困ったもんです。 このブログも復活しましょうね、はい。 また、堅苦しいこと書きましょう!ヾ(゚д゚;)スマソ

ことばは教えてくれない

サンクトペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場「小犬を連れた奥さん」を見てきた。芝居の質というか余裕というか、丁寧に作り上げられている芝居は、見ている人の想像を動かしてくれる。生活の真実がまさしく体現されていた。 特に質が高かったのは出会いの場面。非言語的なやりとりが舞台上で丹念に行なわれていて、視線や体の向き、人間同士の距離、ときおりもれるため息やつぶやきを推し量ることで、見知らぬ人の出会いに共感を覚えることができた。ロシア語の芝居だったが、言葉を分からなくても理解できるのは貴重な体験だ。 普段わたしたちは言葉で語ることよりも言葉を使わないやりとりでお互いを理解しているという。非言語コミュニケーション。電車のなかでお互いに距離をとって座席にかけるのもそれだし、路地でお隣さんが上を見上げていたら同じように上を見上げるだろう。 出会いの場において、実生活では非常に念入りに探りを入れている。それが5秒だとしても、たくさんのことをその間に行なっている。目を向けたりそらしたり、防御の姿勢をとったり友好のしるしを表したり、ぼさぼさの髪やよれよれのシャツをチェックしてみたり、指にはめられている指輪を確かめたり。 わたしたち演劇を作る人が追求すべきなのは、ことばをどのような言い回しでいうかとか、どんな感情でいるかということではない。まったく違う。ことばを発する間にしていること、行間の部分を埋めることなのだ。誇張が必要なのであれば、感情表現でなく、ことばを発していないときにしている「人間の行動」を細かく拾いあげ、丹念に、明確に表現すればいい。 「ことば」を人間の顔だとすると、からだで行なう「人間の行動」が根底になければならない。顔だけの人間がからだを回復する試み、これが演劇を作る人につきつけられた課題だと思う。セリフだけでない緻密さが望まれている。

舞台『宮城野』への出演

これまた久しぶりに更新することになったものだ。前回書いた舞台「カズオ」への出演は3月末には終わったので、1ヶ月近くも何も更新しなかったことになる。反省も含めて書き進めるが、また告知というかたちになってしまった。 6月に舞台への出演が決まった。劇作家・矢代静一の作品で、『宮城野』という題名の戯曲である。矢代静一の作品はとてもなじみがある。前に『黄昏のメルヘン』という彼の作品に取り組んで、共演者・仲間の情熱と、作品の清らかさのおかげで忘れられない公演となっている。今回この出演の話が来たときは、ふたつ返事で承諾したものだ。 作家は人生をかけてひとつのテーマを追求しているのだなあと思わせるような矢代静一の『宮城野』。矢代の他作品にも共通する「清らかさ」「愛」「信仰心」、逆に「人間くささ」「貧しさ」なども随所に見え隠れする。 『宮城野』は江戸後期の浮世絵師・東洲斎写楽らしき人物が関係する。写楽自体は劇には出てこない。宮城野と矢太郎という男女2人のふたり芝居である。写楽という名で描かれた浮世絵は超一流の作品なのに、人物像は謎に包まれていて、江戸時代から今日にいたるまで多くの研究家が追求している。 この作品は矢代の想像が多くの部分を占めているにせよ、さすがは劇作家、時代背景も地理もことばも人間関係も正確な裏づけがされているので、作品について調べれば調べるほど新たなヒントが出てくる。作家に限らず、演劇をする人にとって調べ物をすることは半ば必須で、ぼくにもそんな傾向が多大にあるので、知らないことを調査しヒントを導き出していく過程は、推理する探偵のようであり、この上なく楽しい。 さて、矢太郎という人物をどう演じられるか。楽しみだ。「公演は6月に」ということだけ決まっていて、正確な期日はまだ決まっていない。今後またお知らせすることになりそうだ。期待してください。

舞台“カズオ”に出演

「カズオ」という作品に出演することが決まった。2月の半ばに、以前お世話になった友人の招きで、出演してみないかとの話があった。話は急展開で進み、稽古の途中から参加することになったのだった。主催は“ユニット由”。「カズオ」は、永井愛が84年に執筆した劇作品。演出は、しままなぶ氏。2009年3月26日〜29日。池袋GEKIBAに於いて。 稽古に参加したのは、ある程度進んでからだった。はじめての稽古は台本の内容も把握していないなかでだったが、今ではだいぶ台本を理解できるようになった。自分が演出した作品でも途中参加の俳優には気をつかったものだった。 共演者は藤本しの、山縣よう子。藤本さんとは初顔合わせ。山縣さんは、ぼくが以前所属していた劇団の先輩だった方。山縣さんから声をかけてもらい、今回の公演に参加することになったわけだ。演出の“しま”さんとも初顔合わせ。 永井愛の「カズオ」は、女優2人がさまざまな役を演じながら話が進んでいく。時代背景は1983年あたりと推測される。永井氏の初期の代表作。氏の筆づかいはこのときから達者で、しかも、その当時の社会背景を色濃く描写しており、ふたりの役者によって演じられる人たちの喜び・悲しみ・欲望・習慣などが的確に描写されている。 今回の上演は朗読劇というかたちをとるが、台本とにらめっこするような舞台ではない。適度にうごき回りながら、人間模様を演じていく。ぼくの役は、いわゆる“ト書き”を語る人、司会進行役。少し意味合いは違うが“みのもんた”や“大沢悠里”がおこなっていることか。 役者として舞台にあがることはないと思っていたなかでの、まさかの舞台出演。苦しみながらも楽しんでいる。演劇へかかわる方法はいくらでもある。役者という、以前と同じ方向からの接し方だが、接近の仕方は変化していて、その変化も楽しんでいる。いい舞台をつくりたい。

演劇に必要なこと

久しぶりに演劇について書くな。 演劇をいっぱい観ているわけではないが、いくつかの舞台を拝見したし、今後も観る機会が連続する。まさに、シーズンだから。 良い舞台、いまいちな舞台はあっても、嫌悪させるような舞台がないということはよいことか、あるいは平均化しすぎてつまらないことなのか。 まったく記憶にも残らない舞台はあるけれど、記憶に悪く残る舞台もある。そこで行われていることが、吐き気しか催させないものなのならば、ある意味で公演は成功なのかもしれないな。 通り過ぎるような演劇よりも、何かしらのインパクトを与えるよな演劇が、演劇たるものであるかもしれない。 そんな意味で、最近観る演劇は、通り過ぎて行くものが多いな。 誰だったか、アッカーマンだったかが言った言葉があったな。日本の演劇シーンは戯曲が量産され消費されていきすぎると。 そうね、いい戯曲はあるのだけど、新作のほうがもてはやされることが多いかな。新作は、たいてい新奇なだけが魅力であることが多い。それはベテランの劇作家にしても、駆け出しの作家にしても。 近頃みる演劇が、いまいちピンとこないのは、何なのだろうかと考えてみた。 ぼくなりに見つけたのは、「テーマ」の問題。何について書かれていて、それをどう提示しているのかが不明瞭な演劇。 それは戯曲にしても、それを上演する団体にしても。戯曲ならば、何について書いてあり、それを作者はどう描いているかが分からない。団体ならば、なぜそれを上演するのかが分からない。 新作だから、いい戯曲だから、いい作家だから、という理由は上演する理由にはならない。その戯曲のどこに惚れて、どのように舞台化したのかが分からないと。それがある団体は、たとえ欠陥があっても、好印象を受ける。 なぜ、その公演をやるのか、月並みだけど、何を問題としてそれを上演するのか、そこにかかっていると思う。 きっとそれなりに、上演する意義を持ってやっているに違いない。でも、その熱意も伝わってほしいというのが観客としての要求であると、ぼくは信じる。少なくともそんな熱意があれば、素人演劇でも学生演劇でも楽しい。 テーマがあり、熱意があるということ。 それに加え誠意があるということが、好感を呼ぶと思う。 最近接する演劇団体は、こなれた団体が多いのか、事務的にかつ突き放した姿勢でお客さんを...

協力の美学

少しは暑さにも慣れてきた。 ツール・ド・フランスも終わってしまったな。これで夏が終わった感じになるのはどうしてだろうね? 自転車レースでテレビに映っている部分だけでも、さまざまな人間模様が見られて、とてもいいものだね。 人間て難しいよな。みなそれぞれプライドがあって、そんななかで協力したり反発したり。 サストレが総合優勝したけど、CSCチームの協力体制が素晴らしかったおかげだ。しかも個人個人が実力がありながら、あえてサポートに徹するというプロフェッショナルな仕事。 大きな目的に一丸になること。 実生活上、さまざまな人が目標に一丸になるということは少ない。演劇の公演の組ですら一丸になるのは滅多にない。 養成所の公演が案外おもしろいのは、そういった一丸となって協力するということが、幸福にも出来るからであろう。 たいていはみな利己的なところでとどまっている。 ひとりはみんなのために、じゃないけど、ひとりひとりが有機的に職務をまっとうしているときには、それぞれが相手のことを気遣いながら行動するものだ。相手に意識がいくことが、自意識から解放されるということだから。 演劇のバラシが、とても気持ちよく行われるのは、みな人を気遣えるいい状態になっているからだろうな。 自転車レースの、逃げのグループを追いかける集団も、意志が統一されていると驚くほど速い。 で、一丸になることというのは、案外、難しくないんじゃないかといいたいのだな。 ぼく自身をふりかえれば分かる。 意固地になって大切な目標を忘れることが何度あったことか。プライド高過ぎて頑なになってしまったことが何度あったか。 そんなときに柔らかな人の、柔らかな姿勢にどれほど救われたか、どれほど勉強になったか。 そんな人は、自分のちっぽけなプライドは全然気にもしない人だった。 大きな目的を共有することは難しくない。 呼吸を合わせて、一緒に持ち上げればいいのだから。 こちらが技術がなければ協力者がサポートし、逆に向こうに力がなければこちらが力を出すといった協力体制。 非常に利己的な人もいるけれど、常に利己的というわけでもない。意地悪になってしまうのかもな。 ぼく自身も含め、常にこれだけは言えると思う。 「協力して何事かをする人は美しい。利己的な人は醜い。」 そんな美しい光景は何度も...

体全体が顔

モンテーニュはこう言ったらしい。 「ある乞食が、冬のさなかにシャツ一枚しか身につけず、それでいて耳までテンの毛皮にくるまっている者と同じくらい溌剌としているので、どうやったらそんなふうに我慢できるのかと尋ねてみたところ、その乞食はこう答えた――「でもね、旦那だって顔は外にむき出しでしょう。俺は体全体が顔なのだ」(R・ブレッソン『シネマトグラフ』から) ブレッソンは、映画と演技についての考察のひとつでこれを引用した。 体全体が顔ね。そのとおりだね。 おそらく、ブレッソンの意図としては、観念だけや顔だけの演技は、それは人間でない、人間は顔に表情が表れるときに、体全体でその表情を作っているのだと言いたいのだと思う。 ぼくは、販売の仕事は、結構うつむいてやることが多く、それは今日みたいに忙しい日は、そうするのが一番効率がよい。うつむいていても、お客さんの体の動きを敏感に察知するから、お客さんが何をしたいのかは、たいていは分かる。 そんなふうに、体の動きを主に見て行くと、人間っておもしろいななんて思う。だからといって顔を見ても、顔の表情はそんなに豊かなものではない。体にあらわれるぶんだけ、顔の表情は結構無表情だったりする。 お客さんは、たいてい急いでいるのか、自分のお金を支払うと次の行動に移る。早くお釣りを出せと言わんばかりだ。もう一歩も二歩も進みかけている人が多い。体は半身になってお釣りだけをもらう。もしくは、買った新聞を、お釣りをもらう間に読み始める人もいる。 反対に、こちらがお釣りを払ったのだから、早く目の前から去ってほしいのに、なぜかとてもゆったりしている人がいる。その人は、とてもテンポが遅いし、体はまだ売り場の方に未練があるのが見てとれる。 お金を払うのに、財布のなかから取り出すのに手間取って、次に並んでいる人を気に掛ける人もいる。そういう人は意識が後方に行っていて、体の表情は目が後ろにあるかのようだ。 電車に乗っていても、自転車で車の動きを見ていてもそれが分かる。車の場合は、車自体が顔なのだ。車が表情を持っている。 俳優の演技をいくつか見ていて良く分かるのは、演技し始めの俳優やタレントや芸人ほど顔の表情を作ることに熱心になるのだ。 かえってベテランの俳優さんほど無表情であることが多い。勘で分かるのかもな。 顔の表情すべてが悪い...

と・も・だ・ち

一日一日が過ぎて行く。当然のことだが。 風邪をひいてから完全には回復していなくて、万全というわけではない。 身の回りのことも、劇的ではないが、微妙に変化してきている。いい兆候かもしれない。 忙しい日々も徐々にやってきて、その忙しさが快感なのかもしれない。 意識もいろいろなところに拡散していて、その慌ただしさが良かったりする。 睡眠時間も徐々に規則的になってきている。 なんだろうな。 ひとりの人間が分からなくなるときがある。普段から会っている人もそうだし、一年に一度しか会わない人もそうだし。その人と自分がどんな関係なのかななんて考えたりする。 三年に一度しか会わなくても、気持ちよく会える人もいる。毎日顔を合わせていても、微妙な距離感を保って接する人もいる。深く話し合えばそれが解消するかというとそうでもない。かえって、何だこの感覚は!と思うほど、すんなり打ち解けられる人もいる。 人を分かろうとする努力をどこまですればいいのか、なんても考える。結構ぼくなんかは、分かろうとしないように見えるらしいし、実際、付き合いがうんざりするときもある。話し合えば分かるというのでもない。話の表面に出てくる浅薄な言動なんていくら交わしても深く知ることにはならない。 あえ距離を取りながら、深くその人を尊敬するということもある。距離が近くなって、おもしろくないところを見たくはないのだ。 友達っておもしろいね。 あと2年も過ぎれば、今の混沌も整理されて、人を少しは深く知ることができる。そのかわり、また新たな混沌がやって来るのだろうが。 玄朴と長英。ふたりは、実際は取り立てて仲の良い人ではなかったらしい。その接点も見出しにくいのかもしれない。 しかし、いざ二人を同じ土俵に乗せてみると、おもしろい対比とともに、共通するものが見いだせる。人生への確固たる指標だ。 玄朴と長英の稽古も続けながらいろいろ考えた。それは俳優をやっていたときからそうだった。自分が今取り組んでいる戯曲の主要なテーマや出来事が、自分の人生を考えるいい契機になっているなと。つまり、自分が取り組んでいる戯曲に、少しではあるかもしれないけど、影響されているのだなと。 そんな影響というものがなければつまらないよな。同じように、お客さんも、観に来た演劇にそれを求めているのかもしれないと思うと、うか...

歴史探訪

暑い… ふう… そんななか、グルッポ・テアトロの「玄朴と長英ツアー」として、東京都心を練り歩いた。宮川知久さんと栗栖正二さんと三人で。 前の「お夏清十郎」のときも姫路に旅行したが、今回は舞台が江戸ということで、東京に見るべきところがあるので東京都心を見て回った。この暑さから、姫路に行った時を思い出した。あれは8月10日くらいだったかな。暑い中歩くことが必要らしいな。 詳しくは 公演ブログ に書いておきました。ご覧ください。 前に、あるプロデューサーに研究旅行の話をしたら、「じゃあ、竹取物語をやるときは、月まで行くの?」なんて嫌味を言われたが、きっと暑い中、月まで行くんだろうな、わたしたちは。行ってやる。というか、まったくの創作芝居でない限り、実地調査はするべきだろうな。芝居をつくるのに、即席で作っているわけじゃないのだから、取材は必要なわけだ。取材しない記者なんて聞いたことないだろ。 真山青果が綿密に史実を調べ上げ書いた戯曲「玄朴と長英」を、芝居の範囲だけで処理するのは作家に失礼。最善を尽くすのにさまざまな方法を使うのは、戯曲を上演させてもらう人の良心でしょ。どんな忙しくても取材をする、作家や演出者や俳優などを、ぼくは尊敬する。作品にそれが表れるから不思議だ。 それにしても暑かった。秋葉原や表参道など、人通りの多いところも汗だくになりながら練り歩いた。疲れました。でも楽しかったな。 いくつかのいいヒントも発見したし。よしよし。

アタック

今日は蒸し暑いなか稽古に出かけた。 あっ、そういえば、稽古もう始まった。 玄朴と長英 (ホームページ) 玄朴と長英〜愛しくも、憎らしく〜 (ブログ) 稽古のやり方も、毎回趣向を変えてやっているのだけど、おもしろいね。いろいろなことが分かってくる。 出演者のひとりと、稽古方法のことですれ違いがあって、議論になった。 前回の「お夏清十郎」も、こんな感じで反発を受けた。理解してもらえていると思っていた人からも反発を受けたし。それは仕方ないことだ。いろいろなところで演技をしている人がいて、いろいろな方法論があるのだから。 しかし、確信犯だから、方法を変えはしない。そこらへんが頑固。でも、一番必要なのは、お客さんが見て、納得できるような人間らしい演技なわけで、役者の機嫌をとることではない。強引過ぎるとは思わないのだが、摩擦を生じさせることにかけては、ぼくは達者なようだ。 でも、結構、こちらもへこむもんなのだな。無傷で平気なわけではない。 方法が変わりすぎているわけでもないのにな… 説明が下手なのだろうか。人望がないのだろうか。 嫌われることも多いから、そうに違いない! サッカーの欧州選手権も見て思ったが、スペインの優勝だけでなく、戦術面つまりは訓練の仕方というのが、少し前とだいぶ変わったな。ああ、こうして進歩していくのだな。日本のサッカーも進歩している。 自転車のサイクルロードレース。これも、本質は変わりないにせよ、戦術やチームの国籍編成がだいぶ様変わりした。多国籍になり、多様な価値観の共存が求められる。 世界の演劇シーンも変わっている。テーマの扱い方がより先鋭的になってきた。50年前のシュイクスピア上演と、今のとでは、今の方が切り口は鋭い。おもしろいかどうかは、さまざまだが。 ぼくもできる限りの進歩はしたいと願っている。現代性をつかみたいから。そのために少し強引でも、最良と思える方法で進行してもいいんじゃないか。まだまだ未熟なのは知っているけど、安全な位置を取って、守りの演劇はしたくない。スペインのサッカーも、自転車ロードレースのセッラも、世界の演劇も、攻撃を仕掛けているのだから。 自滅する時は自滅する。それは能力に乏しいか、努力が足りないんだろう。攻撃しなければ勝てない、だから飛びだす。 こんなことを言って、自分を慰めているの...

人間の演劇

劇映画において、風景や空のショットがあまり意味を持たないのは、多くの人がいうことだが、戯曲においても同じようなことが言えると、ぼくは思うんだな。 どうしても興味がわかない劇作家がいる。おもしろくない。その作家は自分でおもしろいと思っているから書いているのだろうが、ぼくにはおもしろく思えない。その劇作家が、人間に対してあまり興味を持っていないように思えるからだ。 何を書いても、そこに人間が描かれていればそれなりのおもしろさはある。しかし、一部の作家は、自分の文体にしか興味がなかったり、ささいなギャグにしか興味がないように思える。描かれているものが人間でなく、技術であったり、言葉の綾だったり。構成の上手下手でなく、見たいものを見せてくれない、知りたいことを知らせてくれない。 そんな劇作家こそプライドが高かったりもする。 う〜ん。作家の立場というものだろうか、作家がどこに立って、どれを見て、それをどのように見せてくれるかが大事ではある。しかし、それ以上に大事なのは人間を描くという立場に立つということではないか? ハリウッド映画の多くはマンネリで退屈だったりするけど、人間を描くという立場は守られている。多くの脚本家の参加するシステムでは、普遍的な人間ドラマというものが共通項なのかもしれない。 多くの劇作家だって、そんな人間ドラマを見せてくれるのだが、どうしても一部の劇作家にはついていけない。ギャップというより、完全な別枠といった感じで、理解しようとする気も起らない。 どこの世界のことを書いているのやら…そして、それは、今を生きるぼくたちに何の関係も刺激ももたらさない。そんな戯曲を書き続けるだけの執筆人生は、はたしてよいものか?後世をあてにする?いやいや、時間が経とうが、人間が描かれていなければ振り返られることもあるまい。 アルタミラの壁画や、ローマのモザイク画だって、みんな人間が描かれているから後世の人が興味を持つのだ。 風景画や絵画や舞台装置を観に劇場に来る人は少数だろう。みんな人間を観にきたいのだと思う。そこにドラマはあってもなくてもいいのかもしれない。反ドラマ演劇というものもあるだろう。しかし、反人間の演劇は果たして興味をそそるものかどうか。

まとまりのない話

今日は何だか、とても気分がよかったのだか、自分から人に話しかけた。ま、普段から人に話しかけないわけではないが、嫌な人と一緒だと自分の世界に入ってしまうので。競輪新聞が入って来るのを待っているお客さんと、世間話みたいなこともしてしまった。自分に気負いがないからだろうか、お客さん相手なのにタメ口でばんばん話してしまうし、それを自然にしてしまうし。なんだか、今日は、口と言葉の周りにオイルを塗っているかのようだった。 電車の中では、台本に赤線を入れる作業に没頭してしまい、これもまた滑らかになんの障害もなく済んだ。 電車の中や駅の構内で、意識や視線を遠くへ向けると、こんなふうに小さなデコボコが気にならず、悠長に物事を見られる。隣でわさわさ動いている人も、混んだ電車の中でしきりに頭を揺らす人も、傘を振り回しながら歩く非常識な人も、みんな気にならなくなる。意識が小さいところ、近いところに無いからだと思う。 いわば科学者のような目でもって物事を見渡せるようになると、気分的にも楽になる。日常のささいな、煩わしいことを無視できるから。 こんな日が明日も来るかどうかは分からない。しかし、来ればいいなと思う。しかし、気温が暑すぎたり、寒すぎたりで、すぐに自分一人に意識がいってしまうのがぼくの悪い点だ。こんな日が続くかどうか。 ま、ここ最近は、自分から動かなければ成立しない生活になってきているから、落ち着いて行動できているのだと思う。誰かが何かをやってくれていたときは、ただただ動かされるままだったのだが、自分から動くには自分がしっかりしていないとダメだから、当然なんだけどね。順応というやつかな。適応かな。 よりいっそう、生活するための方法を見つけ出さなければならないし、生き方を学んでいかなければならない。 でも、話の脈絡はないけど、どうしてぼくの場合、本能的に、今僕が従事している世界や集団や業界を嫌っているのだろうか?嫌いというより距離を取りたがる。 フランスにいたとき、何か月もフランスが大嫌いだった。 演劇の業界人って、実はあんまり好きじゃないのかもとも思っている。 バイト先や会社の文句をいうのはお手のものだし。 混乱を恐れているのかもしれない。惑わさないでくれ、近寄らないでくれ。そういえばこの前のワークショップで、キャリアのある俳優さんが言っていたな。「...

危機感をもって立ち上がれ

久しぶりにJリーグの試合を見て、技術や戦術などが徐々に発達しているな、なんて感じたものだ。Jリーグ以前の日本リーグ時代は、もっと肉弾戦的な要素があって、前に大きく蹴る、放りこむといった印象が残っている。危機感をもってJリーグを作り、システム作りをして、今や、ワールドカップは行くことが当たり前のように要求されるようなレベルになった。もちろん、世界のトップクラスと較べるとまだまだだとは思うが、過去との比較という観点で眺めると進歩している。 自転車レースでも同じような進歩があるみたいだ。過去にも日本選手が世界のレースに参加することはあっても、現在のように平均的レベルで、世界に近づいていたわけではない。 スポーツと比較するのがいいのかは分からないが、演劇や映画における俳優の演技というのは、いつになったら客観的基準や方法論に即して近代化するのであろうかと思うことがある。 トップクラスと呼ばれる俳優の演技をも、見ていられないくらいの失望を味わうことがあるのはどうしてだろう。駆け出しの人気俳優でなく、ベテランの俳優の演技に嘘くさいものを感じることがあるのだ。真実味がないというか。 すべての映画監督がいい映画を作るわけではないし、すべての演劇のカンパニーがいいまとまりを見せるわけでもない。すべてのベテラン俳優が常に最高の演技を見せるとも限らない。 肝心なのは質の問題で、演技に虚偽を感じてしまう。その嘘くささを俳優が喜々として演じて、またその演技を無批判に賞賛されることに、どうも、進歩というものがはたしてこの分野ではあるのかどうか疑問に思ってくる。 最近またブレイクし始めている、ある壮年の俳優の演技も、確かにひとつの性格的な演技で見ごたえもあるのだが、何かが足りない。それなりの努力も苦労もしているようなのだが、役が人間に見えないのだな。歌舞伎の役のように、型を見せられているような気がする。スターだから千変万化とはいかない事情はあるのだろうが、役所広司などのように、役の人間味を充分に見せてくれるわけではない。言って見れば、役の体温が感じられず、頭で作った役の性格をうまく演じているようにしか思えない。 こんな例が頻繁にあるとなると、演技の質についての批評性をもった基準というのが、この分野にはたしてあるのだろうかと不安になってくる。そういった基準がなく、監督や演出家や...

教えを請う人

「いまどきの若い者は…」ということばはよく聞かれる言葉だが、年長者がそう思う気持も分かるし、かといってそれを肯定するわけにもいかない。 シーボルトと鳴滝塾の伝記を読んでいるが、シーボルト自身若いなかで、もっと若い人がシーボルトを師と慕って集まり勉強する姿に、とても美しいものを感じるのだ。 スタニフラフスキーも、後年は若い俳優と仕事をするのを好んだ。 ソクラテスも町の若い者をつかまえて、議論を吹きかけたものだ。 昨日の演劇の講座で、終了後、講師のもとに質問に行っていた女性3人がいたのだが、ちらちら聞こえてくるところによると、大学生で、今後の自分の進む道を模索しているようで、そういった趣旨でとても熱心に、また、尊敬のまなざしで講師に質問していた。 こんな光景を見るのはうれしいことだな。美しい。こういった熱心さを見受けられる世代といえば、ぼくの経験では、圧倒的に若い世代なのだ。しかも、10代後半から20代前半。もちろん70近くの方でもこんな方はいるが、圧倒的に多いのは「近頃の若い者」なのだ。 こういう光景、滅多に見られないとは言わないけど、それほど多く見られるわけでもないだろう。 こういう探究心と迷った心が素直に表れている人も一部分、とても奇抜な格好で人の気を引く人も一部分、悪い犯罪をする人も一部分であるなら、いちがいに、ひとくくりに、「若い者」ということばで定義・断定することにためらいを感じる。 少なくとも、熱心な、素直な姿で、大人と子どもの間をうろうろしながら生き方を探している「若い人」を見ると、この世代にしかない美しさ、特権のように思えてくる。 案外こんなとこにしか、停滞を打ち破るような革新的な萌芽というのはないのかもしれない。そこまで極端でなくとも、行き詰ったら、自分たちだけでなく、年長者にも若い人にも教えを請うのがいいのかもしれないな。 ある程度の経験を積んだ人にとって、威張ること、自足すること、正当化することは、自分の首を少ずつ絞めるもののように、ぼくには思える。 「教えを請う人」になり続けるのも悪くはないんじゃないか?

2つの刺激

今日は世田谷パブリックシアターのプロデューサーについてのセミナーに行ってきた。演出とはいえ、実際、プロデューサーの仕事もしているわけだから、知らぬ・興味ないじゃすまされず、勉強にいってきた。ぼくも考えていて、また、ある参加者もらしていたが、5,6人ぐらいしか集まらないのじゃないかと思っていたが、40人以上も集まって大盛況だった。 大学生の年代の若い人が多かったのが特徴で、みんな熱心に聞いていて、感心した。こういう情熱が大切だね。 まあ、話自体はちとまとまりがなかったのだけど、5回の講義なので、今後に期待。 ワークショップを企画しました。グルッポ・テアトロのホームページを見て参加してくださいね。 グルッポテアトロ〜橋ものがたり〜ワークショップvol.1 また、今日、かつての知り合いから絶縁状みたいなのがきた。むこうはかなりぼくを嫌悪しているようで、いろいろと恨み節を書いてきたが、ぼくのほうは何とも思ってなくて、自覚もないのだけど、前々からふたりの間には嫌な空気は漂っていたので、明らかになったことで、すっきりしている。 嫌われたり、陰口をたたかれたりは結構あったりするが、自分も同じことをしたりもするので、文句は言えまい。 ただし、こんな負の感情を持ち続けるのはいやなので、ぼくは本能的にすっかり忘れるものらしい。あっけらかんとしているのはそのためで、敵が何で怒っているのか分からないことが多々ある。明日には忘れるかな。 それにしても難しいのは人間関係だね。どうも、いろいろなことが習慣的になると、停滞してきて、陰口や嫌味や派閥ができてくる。集団に属しても、知らず知らずのうちに、小さいことで人を嫌ってしまったりもした。集団を抜けてから初めて、小さいことでくよくよしていたことが分かったことが何度あったか。 反対に、新しい刺激や精神に触れるというのは素晴らしいことだ。今日の制作セミナーなんて、どきどきするような新しい体験だった。年配の人も何人か来ていて、その挑戦と活力には尊敬さえする。こういった新たな挑戦をし続けることが、ぼくには必要なのかもな。 昔なら、今日の絶縁状がきたことで、精神的に参ってしまっただろうが、今は、そんなことはゴミ箱に捨てる勢いだ。でも、相手の言い分にも道理はあるわけで、不快感を与えたことは事実として認識しておかないと、ざらついた人...

陰気な番頭さん

なぜだろうと思っていることがある。なぜという疑問というより、不便じゃないかなと同情したり、客商売にはふさわしくないのじゃないかなと、おかしいなと思っていることなのだが。 それは、芝居にいったときの受付。その受付のチケット販売員が座って発券していることが、今回の疑問点です。 大きな劇場では発券のためのチケットオフィスといったものがあり、そこでは、何かに仕切られた場所のなかで、一段高いところから椅子に座った係員がチケットを販売する。映画などでも同じ。そこには、何の疑問もわかない。 問題は、そこまで大きい劇場でなく、つまり、発券のための特別な場所があらかじめ設けている劇場でなく、入り口のところに机をならべて、ここで受付をしてくださいと決められているようなところ。つまり、紀伊国屋劇場のような中劇場も含めて多くの劇場でのことである。 多くの劇場は、チケットオフィスの場所を特別に設ける必要はないと考えているのだろう。そこには疑問はない。ま、どんな小さな劇場でも、あるにこしたことはない。しかし、仕切られた部屋のなかで発券するよりも、お客さんと面と向かって、同じ場所で発券するほうがよいんじゃないかと言われれば、それもありうるなとうなずくかもしれない。 問題はそこにはない。 入口に設けられた受付スペースで、予約のお客さんの確認をして、チケットを販売するのだが、その販売方法に不備があるのではないかというのだ。不備とまで言ったら失礼かもしれないが、係員が椅子に座って販売するのはいかがなものか? なんだ、先ほどはチケットオフィスの係員が壁越しに座って販売するのは問題ないと言ったじゃないか、と思うかもしれないが、その場合とこれとは違うのである。 新旧多くの劇場、映画館、またそれにとらわれず、多くのお店を覗いてみて感じることは、立って販売する・座って販売するには、それなりの法則というか、論理があるように思えるのだ。 おそらく商売や設計をしている人には自明なのだろうが、それを確認する資料にあたるのもちと面倒くさいので、ぼくが思ったままにそれを言うと… 「販売する側が優位に立てるような場所づくり」という大原則があるように思う。 販売が優位に、とは言っても、威張りくさって、サービスをしないというわけでなく、お金を扱う場所を一段高くして、お客さんを見下ろす構造を作り出す...

芝居を観てきた

友人の芝居を見てきた。 今日は雨があがってむしむししていたせいか、気分がすぐれなかった。その悪い心を吹き飛ばすような芝居ではなかったので、むっつりしながら家路についたのだった。 思うに、あまりおもしろいと思えない芝居をみたときに、それに出演している友人にどう話しかけるか、どう対処するかは、今さらながら、重要なことに思える。その場をうまく切り抜けるというより、不快感や不満足をどのように処理して、気持ちよく別れられるか。誰も、不快のままいたいものではない。しかし、よくないものをよいともいえない。そんな葛藤がありながら、押し黙ることでしか表現できない。 赤の他人の芝居だったり、友達連れで観劇したりするのなら、おもいっきりその芝居をこきおろすか、話題を別に逸らすこともできる。こきおろすといっても、自分のなかで、観たものを整理して、こんな芝居など絶対やるまいという心のよりどころを作るだけで、別に、嫌みたらしく悪い宣伝を流すことでもない。そういう意地悪みたいなのをしたこともあったけど、どうせ誰もきくものじゃない。悪い口コミより、良いという口コミのほうが伝わるものだから。 芝居をみているなかで、印象を悪化させるさまざまな要因があるわけで、それがたまたま重なった公演だったと慰めようか。 今日は、むしむししていたし、心もどこか陰に入っていたし、公演会場の雰囲気・接客も気持ちいいものでもなかったし、なにより、後ろのお客さんがおしゃべりな業界人で、その態度に心がかき乱されていたのかもしれない。 そのお客さんは、20〜30代の女性の、演劇の主宰者か劇作家だと思う。顔は見ていない。話の内容からそう判断した。とりわけ不快になったわけでもないが、業界用語を奮発させて、鼻にかかった話し方というものは、ぼくには苦手らしい。話の雰囲気からして、話し相手の女性は困惑していたような声のトーンであったように思えた。 帰りの電車のなかでも偶然、演劇関係者がお話しをしているところにでくわした。こちらも、ぼくは後ろ向きで聞いているだけだったが、男性二人組は、声を張り上げるでもなしに、自分の身の周りのこと、演劇のことを話していた。その話しぶりは不快を与えるものではなかった。 さきほどの女性二人組との違いは、どうやら、話のトーンというか、話の対象が、拡散しているかそうでないかということのよ...

但馬屋のお夏

『但馬屋のお夏』という作品を見た。NHKが過去に放送した作品で、近松門左衛門原作、秋元松代脚本、和田勉演出、大地喜和子主演のドラマだ。 真山青果の『お夏清十郎』とは違って、清十郎は出てこない作品で、近松に基づいた作品なので、西鶴に基づいたそれとは幾分筋立てや名前などが違う。 ま、ドラマといわけなので、細かい箇所に粗が見えるのは予測ができた。しかし、NHKだし、和田勉だし、と変に期待を抱いていたのも事実。 で、思ったのは、非常にうまく立ち回ったなという感想。ドラマの質の話でなく、そこに映される被写体、ここでは江戸前期の姫路なのだが、それをそれらしく映しきれていない。うまくやったというのは、映像が焦点を絞っているというのか、意地悪に言えば、現代の電信柱などが映らないように、人物のアップしかしていないということ。まあ、ドラマで製作費に限りがあるなかで、江戸時代の雰囲気を出すには、局所を映さざるをえないのだが… そして、局所や人物のアップをしなくてはいけないからと、そのように撮ると、作品が非常に狭いものとなる。正直、今回の作品はどこが舞台なのだか分からない、無機質な無特色な風景が背景となっていた。姫路であるというので姫路城の映像が映るのだが、何の脈絡もない姫路城だった。 人物のアップになれば、必ず露呈するのがインチキなのだが、この作品でインチキは目立たなかったが、カツラや小道具に粗が目立った。前にみたドラマ、これは大映の美術陣が美術を担当していた『女牢秘抄』という江戸時代の作品だったが、美術の仕事にぬかりはなく、アップに充分耐えられる考証や仕上がりだったと思う。 まあ、こんなとこに目がいくのは、ドラマにひとつ求心力が欠けているためだと思う。もしくは、ぼくがお夏清十郎の物語に深くかかわったからかも。いずれにせよ、ささいなところで物足りないところはあっても、充分に楽しんで見られた作品であったのは確かだ。と同時に、ここはまずいんじゃないか、ぼくだったらこうする、これはおもしろい処理だ、なんて考えながら見ることのできた作品だった。 これはすなわち、ぼくのなかでお夏清十郎の物語が確固たる地盤を築いたということで、何気にぼくは喜んでいる。こんなふうにして、演劇に育てられていくんだなと。

タブー

少し前の事件だが、音楽家のダニエル・バレンボイムが2001年7月イスラエルで、R・ワーグナーの曲を初めて演奏したことで、論議を呼んだことがあった。イスラエルの国会はボイコットを促したという。ワーグナーはヒトラーの好んだ作曲家だったので、迫害を受けたユダヤ人の国家イスラエルとしては許せないということだろう。ちなみにバレンボイムの国籍はイスラエルである。 バレンボイム自体がイスラエル政府批判をしていることもあってか、この演奏行為も政治的なものと見るむきもあるのだが、そこに横たわる問題はそんな単純なものではない。 そもそも、ワーグナーの政治思想でワーグナーの音楽すべてを語ることは誤りだし、それをある特定の政治的なものに結びつけるのも誤りだという認識がある。 ナポレオン崇拝のベートーヴェンの音楽という捉え方など不可能だし、ナチス問題とフェルトヴェングラーの関連は彼の人生には密接でも、彼の芸術とはそんなに大きな関連がない。 そういったとしても、現にイスラエルではワーグナーの音楽は、一般には流通していても、公共の場での演奏はタブーとされていたらしい。 このタブーということが問題なのである。 日本にもさまざまなタブーがあり、それを侵犯すると色々な害悪が加えられる。言ってはいけないことというものが厳然と存在しているわけだ。それは、歴史的な禁忌であったり、経済的な損失の恐れから口をつぐんだり、または、危害を加えられることを恐れることでもある。 また、タブーがタブーとして一般化しすぎて、人の認識の上で問題視されなくなってしまうこともある。今さら語るに値しないという訳だ。 「タブー」 1、神聖(不浄)なものとして禁制されること。 2、その事に言及するとよくないということが、その社会や席で暗黙のうちに認められていること。 (新明解国語辞典より) 最近話題の映画も、そういったタブーに触れた理由で大騒動になっている。ほかにも、花になぞらえたさまざまな禁忌があり、それを避けるかのように報道がなされている。 何もタブーを破ることが勇気あるというわけでもないが、事実を隠ぺいするような蓋の役割をそれが持っているのなら、そのことによって多かれ少なかれ盲目にさせられているわけで、これは不利益になることだ。 同じように、ワーグナー作曲というだけで、素晴らしい曲を聞くこ...

日本というもの

演劇に取り組む人がおそらく必ずぶち当たる壁、大げさに壁とは言わないまでも、障害というものは、日本の作家が日本語で書いた戯曲と海外の戯曲の間に横たわる差異であろう。 これがテレビドラマであったり、日本映画であったりしたら、日本人の役者が「ハロルド」とか、「マクベス」とか名乗るのを聞けば、即座に違和感を覚えるであろう。 演劇では同じ役者が、ロシア人にも、中国人にも、古代ローマ人になっても、その条件性を受け入れることは難しいことではない。 だが、たとえある俳優がカナダ人になったとしても、どこまでカナダ人としての人間性を表現できるかは疑問だ。ある意味ほぼ不可能かもしれない。カナダ人を表現するというよりも、人間一般、ある国の特殊な人間でなく人間性そのものを表現するともいえる。かといって、カナダ人の生活や風習や歴史・文化を知らないうちに、安易にカナダ人役ができるとも思えない。 トリュフォーの映画にも、「おかしな日本人」が出てくるが、その場面は、日本人の観客には失笑の種だ。 中国人らしい人が日本人として出演している映画もよくあるが、あれも違和感を感じる。 日本のドラマでも、人種の違った人間を外国人一般でひとくくりにすることがあるが、日本人のわれわれには奇妙でなくとも、当事国の人間にはおかしく思えるだろう。 こうなると幻滅するくらいの限定された範囲でしか、演劇も映画もできないように思える。 そこで、日本語で書かれた、日本人を演ずる戯曲に取り組まなければならない、といった使命感みたいなものが出てくる。これは役者や演出家、必ず多かれ少なかれ通るものであろうと思う。 日本人と日本を綿密に表現したいという欲望。 だいいち、役者の演技が褒められるのは、外国人を演じるときよりも日本人を演じるときのほうが多いのだから、役者もそれを悟るのだ。 そしていつまでもそこを住処に、日本人を演じるという意識もなく自然と、身近な人間を演じることになる。 最初に「壁」と書いたが、その、外国人を演じることへの抵抗・障害を、どこまで乗り越えられるか、これもまた大事なことではないだろうか? 最近の日本のメディアや市民も、どこかナショナリズムなものを感じるのはぼくだけであろうか?大げさな「j」「〜ジャパン」、ある特定の国への偏見。 演劇や戯曲と、ナショナリズムとを結びつけるのはあまり...