スキップしてメイン コンテンツに移動

陰気な番頭さん

なぜだろうと思っていることがある。なぜという疑問というより、不便じゃないかなと同情したり、客商売にはふさわしくないのじゃないかなと、おかしいなと思っていることなのだが。
それは、芝居にいったときの受付。その受付のチケット販売員が座って発券していることが、今回の疑問点です。

大きな劇場では発券のためのチケットオフィスといったものがあり、そこでは、何かに仕切られた場所のなかで、一段高いところから椅子に座った係員がチケットを販売する。映画などでも同じ。そこには、何の疑問もわかない。
問題は、そこまで大きい劇場でなく、つまり、発券のための特別な場所があらかじめ設けている劇場でなく、入り口のところに机をならべて、ここで受付をしてくださいと決められているようなところ。つまり、紀伊国屋劇場のような中劇場も含めて多くの劇場でのことである。

多くの劇場は、チケットオフィスの場所を特別に設ける必要はないと考えているのだろう。そこには疑問はない。ま、どんな小さな劇場でも、あるにこしたことはない。しかし、仕切られた部屋のなかで発券するよりも、お客さんと面と向かって、同じ場所で発券するほうがよいんじゃないかと言われれば、それもありうるなとうなずくかもしれない。
問題はそこにはない。

入口に設けられた受付スペースで、予約のお客さんの確認をして、チケットを販売するのだが、その販売方法に不備があるのではないかというのだ。不備とまで言ったら失礼かもしれないが、係員が椅子に座って販売するのはいかがなものか?
なんだ、先ほどはチケットオフィスの係員が壁越しに座って販売するのは問題ないと言ったじゃないか、と思うかもしれないが、その場合とこれとは違うのである。

新旧多くの劇場、映画館、またそれにとらわれず、多くのお店を覗いてみて感じることは、立って販売する・座って販売するには、それなりの法則というか、論理があるように思えるのだ。
おそらく商売や設計をしている人には自明なのだろうが、それを確認する資料にあたるのもちと面倒くさいので、ぼくが思ったままにそれを言うと…
「販売する側が優位に立てるような場所づくり」という大原則があるように思う。

販売が優位に、とは言っても、威張りくさって、サービスをしないというわけでなく、お金を扱う場所を一段高くして、お客さんを見下ろす構造を作り出すのだ。銭湯の番台のようにひときわ高くつくる必要はないが、ほんの少し高い場所からサービスをする方法なのだろうか?
江戸時代の商店もお客さんが座敷に尻をのせて腰掛けても、その同じ高さのところに正座して「いらっしゃいまし」という手代との関係は、明らかに手代の方が目線は高い。
駅の売店や改札でも高いところにある。そして、ときには座って販売する人、座って対応する駅員にも出会うことはあるが、向こうが一段高い場所にいることはかわりがない。目線も同じ高さぐらいであろうか。

一段高い場所で販売する店ばかりではない。同じ平面に、同じ高さで、お金を扱うレジを置く店のほうが多いかもしれない。そんなときにその販売員はどういう方法でいるのかが問題なのだ。つまり、そこでは、たとえばスーパーのレジ員は立って販売する。コンビニの店員も同じ。デパートでの販売員も同じだろう。
同じ平面に、同じ高さで、仕切りも少ない場所では、立って販売するのが普通なのだ。

デパートの化粧品売り場は巧妙で、お客を座らせれば販売側が優位に立つ。
フランスのスーパー、あの「カルフール」では、売り子のお姉さんが高い椅子にふんぞりかえって、レジをやっていたな。長時間労働だもんな。立ってられないだろうしな。

「販売する側が優位に立てるような場所づくり」という論理は、一段高い場所で販売する、それをしないのなら、立って販売するというところに尽きる。

そこでようやく劇場に戻る。
問題は明らかになった。入口に設けられた受付スペースで発券をする販売員(あえてこういう言葉を使う)は、なぜ座って販売しているのだろうか?ということだ。
ぼくが考えるここでのデメリットは、お客さんが販売員を見下ろす格好、つまり販売員がお客さんを見上げる格好であること。目線の格差があることだ。とても落ち着かないのはぼくだけであろうか?もうひとつは、座りながら販売すると機敏になれないということ。

目線の格差は大きく心理にまで影響を与えるものだろうがどうであろうか?また、そこから関連して、見下ろされ、閉じ込められた販売員が機敏にあれこれ気を配ることが可能であろうか?
そもそも、たかだか30分、長くて45分や1時間の販売時間を、なぜ座らなければいけないのか?その何倍もの時間を立って販売する人のほうが多いなか、怠惰ではないのか?
受付に精密な作業があるわけではあるまい。名前を確認して、チケットを発券して、お金を徴収すればいいだけでないか。そんなの座りながらやる必要もあるまい。座るのなら一段高くしなければ自分らが不利になる。

劇場の販売員がたいてい陰気に思えてくるのはこんなところにあるのではないかと思っている。立って「いらっしゃいませ」といって、チケットをもぎる人のほうに覇気があるように思えるのは錯覚だろうか?
もちろん、座りながら販売しても好感を与える人がいる。それはその人の人格に頼っているだけで、大方が好印象を与えない。
そもそも店の顔の人がどっしり落ち着いている風景は、あまり好ましい印象を与えないと思うのだが。

立って販売するための什器がないといったことで問題をうやむやにせず、そのような手立てを考えたほうがいいと思うのだが。快活になれるか、もしくはよい印象に思われるよ。そういった統計があれば説得力があるんだろうな。残念ながら無いんだな。

因習的なものにも道理はある。しかし、古くからの商売人の知恵は、今の劇場の受付の方法とは違っているように思えるのだが。現代的な劇場ならば、現代の商売人の知恵を拝借することが必要だと思う。
いつも、芝居に行ってはうんざりすることがこのことなので、長々と書いてしまった。結果的にとてもいい芝居でも、受付で気持ちいい対応を受けたことはあまりないのが実情だ。
人間をそう簡単に変えられないのなら、システムを変化させればいいと思う。簡単にできることだと思うし、演劇人の知恵ならもっといいことを思いつくかもしれない。

陰気に座った番頭を見下ろしたくない、というのが結論かな。座るなら高いところに座ってくれ、陰気なら立ってみてくれという要望だ。
おかしな要望だろうか?

コメント

このブログの人気の投稿

但馬屋のお夏

『但馬屋のお夏』という作品を見た。NHKが過去に放送した作品で、近松門左衛門原作、秋元松代脚本、和田勉演出、大地喜和子主演のドラマだ。 真山青果の『お夏清十郎』とは違って、清十郎は出てこない作品で、近松に基づいた作品なので、西鶴に基づいたそれとは幾分筋立てや名前などが違う。 ま、ドラマといわけなので、細かい箇所に粗が見えるのは予測ができた。しかし、NHKだし、和田勉だし、と変に期待を抱いていたのも事実。 で、思ったのは、非常にうまく立ち回ったなという感想。ドラマの質の話でなく、そこに映される被写体、ここでは江戸前期の姫路なのだが、それをそれらしく映しきれていない。うまくやったというのは、映像が焦点を絞っているというのか、意地悪に言えば、現代の電信柱などが映らないように、人物のアップしかしていないということ。まあ、ドラマで製作費に限りがあるなかで、江戸時代の雰囲気を出すには、局所を映さざるをえないのだが… そして、局所や人物のアップをしなくてはいけないからと、そのように撮ると、作品が非常に狭いものとなる。正直、今回の作品はどこが舞台なのだか分からない、無機質な無特色な風景が背景となっていた。姫路であるというので姫路城の映像が映るのだが、何の脈絡もない姫路城だった。 人物のアップになれば、必ず露呈するのがインチキなのだが、この作品でインチキは目立たなかったが、カツラや小道具に粗が目立った。前にみたドラマ、これは大映の美術陣が美術を担当していた『女牢秘抄』という江戸時代の作品だったが、美術の仕事にぬかりはなく、アップに充分耐えられる考証や仕上がりだったと思う。 まあ、こんなとこに目がいくのは、ドラマにひとつ求心力が欠けているためだと思う。もしくは、ぼくがお夏清十郎の物語に深くかかわったからかも。いずれにせよ、ささいなところで物足りないところはあっても、充分に楽しんで見られた作品であったのは確かだ。と同時に、ここはまずいんじゃないか、ぼくだったらこうする、これはおもしろい処理だ、なんて考えながら見ることのできた作品だった。 これはすなわち、ぼくのなかでお夏清十郎の物語が確固たる地盤を築いたということで、何気にぼくは喜んでいる。こんなふうにして、演劇に育てられていくんだなと。

As Tears Go By(涙あふれて)

ブログを放置して、 復活して 、 また放り投げて、 リニューアルして 、 更新を忘れていて… そんな繰り返し。 今後どれだけ更新するか分からないので、 大きな目標も立てず、 気の向くまま、 書きたいときに書いていこうか… と綴りながら、今回は何を題材に記事を書いたら良いのかと考えています。 お久しぶりです。 ぼ〜んと写真を。広島の厳島神社です。 厳島神社 広島に旅行に行ったときの写真です。 もう1枚。こちらは山口・岩国の錦帯橋です。 錦帯橋 旅行といって思い出すのは、大学時代に2、3回行った一人旅ですかね。 北日本や東日本にしか行ったことのないぼくにとって、日本の西の方は憧れだったのです。交通手段は、普通列車だったり、ヒッチハイクだったり、フェリーだったり、自転車だったり。宿泊はほとんど野宿。食事にこだわっていなかったので、各地を回っても名産のものを食べた記憶がございません。カメラも持たなかったので写真も残っていません。 19歳のときの旅では 関ヶ原の古戦場跡 に野宿した記憶があります。はたして安心して眠れたのかは覚えていません。寝付けなくて移動した記憶が残っています。 あ、そうだ、その次の日は、滋賀県の 賤ヶ岳の古戦場 を回りましたね。 そうそう、思い出した。ギターを持ちながら旅していたんだった。ギターを持っているとは言っても、それほど上手ではないので、疲れたらギターを弾いて気を休めていたのですかね。ギターを持ちながら、徳島県の 剣山 に登山までしたのでした。意味の無い行動ですな。 こんな曲を弾いていたような The Rolling Stones  - As Tears Go By  どうしたんでしょう… なんだか、昔を思い出して、懐かしくなって… 「追憶」というのは健康に良いんだか悪いんだか。タイトルに「涙あふれて」とか書いたけど、涙なんて出ていませんから、今。 ここらへんでやめておきましょう。 また旅行について書くこともあるでしょう。

月夜の利左衛門

『西鶴置土産』を読んだ。井原西鶴の本と、真山青果が戯曲化した本の両方を。 そのなかの一篇、「人には棒振虫同然に思われ」で、利左衛門は女郎を身請けしてからのちは、貧乏ぐらしをしながら生活を送っている。女郎に大金を投げるようにして使っていた昔とくらべ、現在は子供の服の替えがないほどの極貧の暮らしをしながら、親子三人で暮らしている。そんな利左衛門が昔の遊び友達に見つかり、見栄を張って彼らを家に呼んだ。むかし太夫だった女房も見栄を張って貧乏を誇りにし、利左と女房はその昔友達たちの金銭の援助も断り、あくる日には利左と女房と子どもの三人は家を出て行く。そんなお話。 井原西鶴の研究者の熊谷孝は、西鶴の世代を逃亡世代と名付ける。民衆としての人間回復を志向し、精神の自由を守るために封建体制の枠から逃げる人たち。逃亡することで、自己の存在証明をする人たち。西鶴はその逃げる人たちに、人間性回復と自分たちの世代のあるべき姿を発見したという。 『お夏清十郎』のふたりももちろん逃げたし、昨日書いた兵庫の男女も逃げた。西鶴のほかの作品の人物たちも逃げる。トリュフォーの『大人は分かってくれない』の少年も逃げた。漱石の『門』の宗助と御米も逃げた。西鶴や近松や溝口の暦屋おさんも逃げた。 利左衛門の逃亡はどんな逃亡なのだろうか? まずは、女郎遊びをしていた利左衛門が遊びでなく恋をして、女郎を身請けするところにひとつの道の選択がある。『お夏清十郎』の清十郎にはそれができなかった。この道は破滅の道である。というのは利左衛門と恋をした太夫は当代のトップの女郎であり、その身請けの金額はとてつもないから。手元に残ったお金はないどころか、借金だらけだろう。そんな道を選択したのだ。 そして昔友達に憐憫を受けた後の逃亡。西鶴はその昔友達が道楽をやめてしまった教訓として書いていて、利左衛門の逃亡そのもは描いていない。真山青果は利左衛門の逃亡は見栄を張る嘘の世界を離れて、正直に生きるために稼ぎに行く結末としている。 利左衛門の逃亡は、心機一転巻きなおしということなのかもしれない。昔友達から逃れようとしたわけでなく、今までの生活からの脱却。大尽が女郎を買う買われるの浮世の世界から離れて堅気になった二人であるが、昔友達に会ってみると、二人ともそんな浮世の垢がまだこびりついている。そこからの脱却。

父と暮らせば

「こんどいつきてくれんさるの?」 「おまい次第じゃ」 「しばらく会えんかもしれないね」 こういうやりとりの後、竹造は美津江のそばを離れていきます。 井上ひさし 『 父と暮せば 』の最後の場面です。 美津江の中では、幸せになってはいけないと思う自分と、幸せになりたい自分が戦っています。戦火から生き永らえたため、原爆で亡くなった人に後ろめたいと思う気持ちが邪魔をして、自分が恋をしているのを必死に否定しています。 そんなとき、原爆で亡くなったはず美津江の父親が出現してきて、この物語が進行していきます。 甘酸っぱい恋をするときに、人はよくこころの支えになるような何かが必要になります、あるひとつの曲であったり、匂いであったり。そして音楽や匂いが必要になり、十分な役割を果たした後に、それらはさも何ごともなかったように記憶から消え去っていきます。 あの大震災のときに、誰からともなく支援と行動が湧きだしてきて、何かしらの役に立った後に、人はまたそれぞれの日常生活に戻っていったように。 竹造は自分で言うように、そんな「応援団長」です。そばにいて励まして背中を押しながら、叱咤激励をしてくれます。それが父親であろうと、恋人であろうと、友人であろうと構わないもので、またこの作品のように、生きている人でなくてもいいのかもしれません。葛藤が解消し、用が済めば、父親は去っていくしかありません。 美津江が重大な葛藤を抱えながら恋をしている局面で、死んだはずの父が出現し、娘を救い去っていく。こういった英雄譚のようなメタファーは、考えてみたら、時代劇とかドラマとかで頻繁に見られるような王道パターンでもあります。 その時代の人たちがいろいろな葛藤や迷いや悩みを持って格闘しているときに、物語やメッセージやメロディがそばに近づいてきて励ましてくれる、そして時代が過ぎると、過去の思い出になってしまい、記憶の片隅に残るだけになります。 背中を押して助言を与えてくれたり、そばにいて道を指し示してくれるような演劇や音楽・本などにまた巡り会うような予感がしないでもない、きょうこの頃。危機なんでしょうかね。笑。 小津安二郎「父ありき」 ※上の写真はこの文章に何の関係もありません。 なんとなく竹造は 笠智衆 っぽい顔をしているんじゃないかと思っただけという。

3月11日あの日

いわき市岩間町 3月22日 地震から1年経ちました。 いわき市岩間町 3月22日 そのときは外で勤務中、やけに大きな揺れがずっと続くなと思いました。小学生たちを待機・避難させ、その後外にいたいろんな人と情報交換したり、Twitterなどで情報を収集して、とんでもない事態だったのだなと悟りました。 その日は、自分が率いている演劇の稽古がある日だったので、開催するかどうかもふくめて相談しようとしても、友人たちに電話もメールも通じません。結局中止に。いずれにせよ電車が動いてなかったし。 福島いわきにいる両親や兄にも連絡通じず。夜になって兄とつながり、無事を確認。不安ではあったものの疲れていたので、テレビを見ながら居眠り。次の日テレビやTwitterで、とてつもない津波だったことを知りました。 その後は、Twitterでいろんな人の安否確認や、福島県といわきの情報を仕入れるために奔走。 Twitterの記録から(抜粋) 2011年3月11日 福島いわきの兄貴から連絡あった。兄の家族無事だって。よかった。両親とはつながらないな。 posted at 17:59:48 福島いわきは今も頻繁に余震が続いているようです。両親と連絡がとれてひとまず安心。 posted at 19:40:16   地震後の対応多すぎてかなり疲れた。 posted at 20:40:37 3月12日 実家は福島いわき南部ですが、津波被害もあったよう。小学校・中学校の学区内で床上まで浸水もしくは流されたのがあったらしい。泳いだり遊んだりした砂浜を越えて津波が押し寄せたかと思うと怖い。友人の家も低地にあるし、大丈夫かな。断水なので、明日、水をもらいに行かなければと母親が言ってた。 posted at 23:10:06 祖母と親戚家族は南相馬市なので、原発の避難範囲20キロに含まれた。公的な施設に避難していたというので、きっと移動したと思う。いわきから助けに行きたいけど、原発2つを突っ切る形になるので無理だと母親が言っていた。いわき南部だって安心できない。 posted at 23:15:47 3月13日 いわき情報 #iwaki RT @yuiyasu : @tomogram 漁港付近はコンテナやトラックが転がってた。アクアマリ