久しぶりにJリーグの試合を見て、技術や戦術などが徐々に発達しているな、なんて感じたものだ。Jリーグ以前の日本リーグ時代は、もっと肉弾戦的な要素があって、前に大きく蹴る、放りこむといった印象が残っている。危機感をもってJリーグを作り、システム作りをして、今や、ワールドカップは行くことが当たり前のように要求されるようなレベルになった。もちろん、世界のトップクラスと較べるとまだまだだとは思うが、過去との比較という観点で眺めると進歩している。
自転車レースでも同じような進歩があるみたいだ。過去にも日本選手が世界のレースに参加することはあっても、現在のように平均的レベルで、世界に近づいていたわけではない。
スポーツと比較するのがいいのかは分からないが、演劇や映画における俳優の演技というのは、いつになったら客観的基準や方法論に即して近代化するのであろうかと思うことがある。
トップクラスと呼ばれる俳優の演技をも、見ていられないくらいの失望を味わうことがあるのはどうしてだろう。駆け出しの人気俳優でなく、ベテランの俳優の演技に嘘くさいものを感じることがあるのだ。真実味がないというか。
すべての映画監督がいい映画を作るわけではないし、すべての演劇のカンパニーがいいまとまりを見せるわけでもない。すべてのベテラン俳優が常に最高の演技を見せるとも限らない。
肝心なのは質の問題で、演技に虚偽を感じてしまう。その嘘くささを俳優が喜々として演じて、またその演技を無批判に賞賛されることに、どうも、進歩というものがはたしてこの分野ではあるのかどうか疑問に思ってくる。
最近またブレイクし始めている、ある壮年の俳優の演技も、確かにひとつの性格的な演技で見ごたえもあるのだが、何かが足りない。それなりの努力も苦労もしているようなのだが、役が人間に見えないのだな。歌舞伎の役のように、型を見せられているような気がする。スターだから千変万化とはいかない事情はあるのだろうが、役所広司などのように、役の人間味を充分に見せてくれるわけではない。言って見れば、役の体温が感じられず、頭で作った役の性格をうまく演じているようにしか思えない。
こんな例が頻繁にあるとなると、演技の質についての批評性をもった基準というのが、この分野にはたしてあるのだろうかと不安になってくる。そういった基準がなく、監督や演出家やプロデューサーが好む演技をするのが基準になってはいやしないか?
もちろん若い・ベテランを問わず、また演劇・映画を問わず、いい演技に出会うことは多いのだが、それに出会わないときの失望のほうが大きい。最低基準というか、これくらいはやってくれよというレベルが、どうも低いような気がする。
ベテランがそれをすると憤慨したくなる。
危機感をもってJリーグを作った人たちの例ではないが、じゃ、俳優の演技に危機感をもって立ち上がれる人はいるのだろうか。それが俳優のもしくは演出家の個人レベルで進められるしかない性格のものならば、演技を見る観客、見る側が厳しくならいといけない。演技がふがいなければ、サッカーのサポーターのように檄を飛ばすしかない。
新人や若手にはとても厳しい判断を下せるものだが、より巧緻に長けたベテラン俳優に厳しい基準を下すことは容易ではない。よく見て、よく考え、よく判断して、思い切って言わなければいけないからだ。ベテランになればなるほど、過去の評価が現在の判断を狂わせる。
こんなふうに考えている次第であります。それはベテランならではの、深い演技、すなわち人間の奥深さを見たいからであります。
自転車レースでも同じような進歩があるみたいだ。過去にも日本選手が世界のレースに参加することはあっても、現在のように平均的レベルで、世界に近づいていたわけではない。
スポーツと比較するのがいいのかは分からないが、演劇や映画における俳優の演技というのは、いつになったら客観的基準や方法論に即して近代化するのであろうかと思うことがある。
トップクラスと呼ばれる俳優の演技をも、見ていられないくらいの失望を味わうことがあるのはどうしてだろう。駆け出しの人気俳優でなく、ベテランの俳優の演技に嘘くさいものを感じることがあるのだ。真実味がないというか。
すべての映画監督がいい映画を作るわけではないし、すべての演劇のカンパニーがいいまとまりを見せるわけでもない。すべてのベテラン俳優が常に最高の演技を見せるとも限らない。
肝心なのは質の問題で、演技に虚偽を感じてしまう。その嘘くささを俳優が喜々として演じて、またその演技を無批判に賞賛されることに、どうも、進歩というものがはたしてこの分野ではあるのかどうか疑問に思ってくる。
最近またブレイクし始めている、ある壮年の俳優の演技も、確かにひとつの性格的な演技で見ごたえもあるのだが、何かが足りない。それなりの努力も苦労もしているようなのだが、役が人間に見えないのだな。歌舞伎の役のように、型を見せられているような気がする。スターだから千変万化とはいかない事情はあるのだろうが、役所広司などのように、役の人間味を充分に見せてくれるわけではない。言って見れば、役の体温が感じられず、頭で作った役の性格をうまく演じているようにしか思えない。
こんな例が頻繁にあるとなると、演技の質についての批評性をもった基準というのが、この分野にはたしてあるのだろうかと不安になってくる。そういった基準がなく、監督や演出家やプロデューサーが好む演技をするのが基準になってはいやしないか?
もちろん若い・ベテランを問わず、また演劇・映画を問わず、いい演技に出会うことは多いのだが、それに出会わないときの失望のほうが大きい。最低基準というか、これくらいはやってくれよというレベルが、どうも低いような気がする。
ベテランがそれをすると憤慨したくなる。
危機感をもってJリーグを作った人たちの例ではないが、じゃ、俳優の演技に危機感をもって立ち上がれる人はいるのだろうか。それが俳優のもしくは演出家の個人レベルで進められるしかない性格のものならば、演技を見る観客、見る側が厳しくならいといけない。演技がふがいなければ、サッカーのサポーターのように檄を飛ばすしかない。
新人や若手にはとても厳しい判断を下せるものだが、より巧緻に長けたベテラン俳優に厳しい基準を下すことは容易ではない。よく見て、よく考え、よく判断して、思い切って言わなければいけないからだ。ベテランになればなるほど、過去の評価が現在の判断を狂わせる。
こんなふうに考えている次第であります。それはベテランならではの、深い演技、すなわち人間の奥深さを見たいからであります。
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