15年ぶりになるだろうか、夏目漱石の「私の個人主義」を再読してみた。一読して思ったのは、内容が講演のためでもあろうが、非常に論理的で分かりやすい文章だということ。話に淀みもないし、比喩の対象も効果も明晰だし、何より簡潔な言葉を使って学生に話しかけている。そして話者である漱石の一番伝えたいことが明確で、漱石の精神・思想がうかがえるような内容になっている。ここまで論旨が明快な文章というのはなかなか見かけるものではない。
講演は聴衆が理解して初めて意味をもつ。漱石の好きな落語もそうだ。演劇も例外ではない。これらに共通するのは、その場にいる聴衆・お客さんに分かってもらうことが第一の基本にあることであろうか。後世に誰かが理解してくれようといった悠長な考えではいけないこと。
分かってもらうこと、こちらの考え・計画を理解してもらうことは、とても難しい。だいたいにして、自分がほかの人のことばの意味を受け取り、理解しているとは、必ずしもいえないのだから。聞き流すことのほうが多いだろうか。好意を持っている人のことばは、過剰に聞き入れようとしてかえって本意を理解しているとはいえない。家族などの身近な人のことばなんて、半分以上は聞き流しても想像がつく。
漱石のこの本を再読した後の感想は、何だか目の前の世界が開けたような気がしたのだが、人の言うこと・考え・意志をはっきりと理解できたときは、いつもこんな感想を持つな。つまり、明快に理解するということは、世界を開くことなのだろうか。逆な立場で言うと、世界を開かせるために、ことばを使い分かってもらおうとする。講演の講師も、落語家も、芸能の実演者も。
小難しい数式を解いたときもそんな「開化」を感じた。今まで苦闘していた俳優がいきなり変身し「開化」することが稽古の過程ではよくある。賞味1時間の漱石の講演で、自分の人生の一歩を踏み出した人間がいるであろう。そういった講演とは種類は違うが、演劇の公演だってひとりの人生を「開化」させるのに事足りないことなんてない。
願わくば多くの人を「開化」させたいと思い、練りに練り、簡潔であること、明快であること、率直なものであること、親しみやすいものにすることを心掛ける演劇も悪くはあるまい。単に娯楽でなく、もっと社会性を帯びたものが、もともとの演劇に必要とされていたものであるから。
講演は聴衆が理解して初めて意味をもつ。漱石の好きな落語もそうだ。演劇も例外ではない。これらに共通するのは、その場にいる聴衆・お客さんに分かってもらうことが第一の基本にあることであろうか。後世に誰かが理解してくれようといった悠長な考えではいけないこと。
分かってもらうこと、こちらの考え・計画を理解してもらうことは、とても難しい。だいたいにして、自分がほかの人のことばの意味を受け取り、理解しているとは、必ずしもいえないのだから。聞き流すことのほうが多いだろうか。好意を持っている人のことばは、過剰に聞き入れようとしてかえって本意を理解しているとはいえない。家族などの身近な人のことばなんて、半分以上は聞き流しても想像がつく。
漱石のこの本を再読した後の感想は、何だか目の前の世界が開けたような気がしたのだが、人の言うこと・考え・意志をはっきりと理解できたときは、いつもこんな感想を持つな。つまり、明快に理解するということは、世界を開くことなのだろうか。逆な立場で言うと、世界を開かせるために、ことばを使い分かってもらおうとする。講演の講師も、落語家も、芸能の実演者も。
小難しい数式を解いたときもそんな「開化」を感じた。今まで苦闘していた俳優がいきなり変身し「開化」することが稽古の過程ではよくある。賞味1時間の漱石の講演で、自分の人生の一歩を踏み出した人間がいるであろう。そういった講演とは種類は違うが、演劇の公演だってひとりの人生を「開化」させるのに事足りないことなんてない。
願わくば多くの人を「開化」させたいと思い、練りに練り、簡潔であること、明快であること、率直なものであること、親しみやすいものにすることを心掛ける演劇も悪くはあるまい。単に娯楽でなく、もっと社会性を帯びたものが、もともとの演劇に必要とされていたものであるから。
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