これは分かりきっていたことではあるが重要なこと。 映画にも、演劇にもあてはまること。そして、もちろん音楽にも。 それは、戯曲・シナリオ・スコアが、良いものであることが、その上演の基礎になることで、いい上演にしたいのなら、基本の骨組である戯曲をいいものにするのが早道であること。 どれほどの労力を作家・作曲家の書く骨組に費やしても、無駄になることはない。 いいシナリオがいい作品を作れないことはあっても、いい作品は必ずいいシナリオによる。 今回の『お夏清十郎』は、やはり戯曲の力が大きい。はじめからそれは分ってはいたが、出演者・スタッフ・お客様・そして演出のぼくも含めて、すべて真山青果のこの戯曲に頼るところが多かった。この戯曲を綿密に自分たちのものにすることで、あとは作家の力でぐいぐいひっぱっていってくれる。 稽古過程の最初と最後は作家の腕にかかっている。 それだからこそ、橋本忍・小國英雄・黒澤明は旅館に缶詰となり、シナリオを作るのに血のにじむような努力をする。真山青果は取りつかれたように歴史劇を書き綴る。 すべて作家の詩心にかかっているとしても過言ではない。 単純に作家の書いたことを実行することほど難しいことではあるが、最終的にはそこに辿り着かなければならない。ひどく遠回りしながらも、作家の書く単純な行動が、人の胸を打つ。 伊丹万作の『国士無双』といったシナリオや、「シナリオ時評」ほかの随筆を読んでいる。 改めて思う。作家の作品を吟味しているこの時期こそ、極度の神経と明確な把握が必要なのだ。ここを間違ってはならない。それによって行き先も変わるのだから。 こうしてみると休まる日などないのだな。仕方ない。自分の選んだ道だから。