もう意地をはっているかのように詩について書き綴っているのだが、しばらく詩から離れていたので、いろいろと思い起こすこと、再確認することが多くて楽しいわ。
19世紀、英国の詩人ジョン・キーツの詩は、大学時代によく読んでいた。その生きざま、そして残された詩の完成度から、忘れられない。といっても一字一句憶えているわけでないのがミソで、しかも英語で憶えているわけでもないところがうさん臭くはある。しかし、いくつかのオード、ソネットには、耽溺して、寝ても覚めてもその詩のイメージを思い浮かべていた。
思うに、抒情詩を読み聞きするときに根本にあるのは、共感ということではないか?どれだけ奇抜であろうと、どれだけ前衛的であろうと、どれだけ情感にあふれていても、読み聞きする側がそれを好み・愛さない限りその抒情詩は心に残ることはない。非常に個人的な環境・その時期の状況などによって、抒情詩が琴線にふれるかふれないかは変わってくる。詩と受け手の実人生が幸福な結婚をするときに、詩は俄然色彩豊かになってくる。
キーツの詩、キーツの人生にぼくの人生が重なっていたのだろうな、当時は。キーツといえば「美は真であり、真は美である」と言い切り、ぼくはそれに酔いしれていたのかもしれない。美しくあるためには外見を飾るのではない、中身を豊かにしていくことが必要だ。滑稽なことにいろいろなものに美を見出そうとしていた。今日の夕日はとてもきれいだったが、当時のぼくはそんな夕日に涙も流していたのかもしれない・・・ハハハ・・・
思わず追憶に浸ってしまった。恥ずかしい。
ま、そんな時期に作った詩をひとつ。
(無題)
こどもの頃に許せなかった
酒の匂いと浮かれ騒ぎを
いまはみずからすすんで求め
あんなに嫌な裏切りさえも
頭を下げて謝られれば
顔を上げてと言わねばならぬ
ぼくが嫌ってはねつけていた
あの習慣も この欲求も
あの考えも この人間も
すべてを許し 苦い顔して
肩の震えを抑えたときに
いったい ぼくの生とはなにか
19世紀、英国の詩人ジョン・キーツの詩は、大学時代によく読んでいた。その生きざま、そして残された詩の完成度から、忘れられない。といっても一字一句憶えているわけでないのがミソで、しかも英語で憶えているわけでもないところがうさん臭くはある。しかし、いくつかのオード、ソネットには、耽溺して、寝ても覚めてもその詩のイメージを思い浮かべていた。
思うに、抒情詩を読み聞きするときに根本にあるのは、共感ということではないか?どれだけ奇抜であろうと、どれだけ前衛的であろうと、どれだけ情感にあふれていても、読み聞きする側がそれを好み・愛さない限りその抒情詩は心に残ることはない。非常に個人的な環境・その時期の状況などによって、抒情詩が琴線にふれるかふれないかは変わってくる。詩と受け手の実人生が幸福な結婚をするときに、詩は俄然色彩豊かになってくる。
キーツの詩、キーツの人生にぼくの人生が重なっていたのだろうな、当時は。キーツといえば「美は真であり、真は美である」と言い切り、ぼくはそれに酔いしれていたのかもしれない。美しくあるためには外見を飾るのではない、中身を豊かにしていくことが必要だ。滑稽なことにいろいろなものに美を見出そうとしていた。今日の夕日はとてもきれいだったが、当時のぼくはそんな夕日に涙も流していたのかもしれない・・・ハハハ・・・
思わず追憶に浸ってしまった。恥ずかしい。
ま、そんな時期に作った詩をひとつ。
(無題)
こどもの頃に許せなかった
酒の匂いと浮かれ騒ぎを
いまはみずからすすんで求め
あんなに嫌な裏切りさえも
頭を下げて謝られれば
顔を上げてと言わねばならぬ
ぼくが嫌ってはねつけていた
あの習慣も この欲求も
あの考えも この人間も
すべてを許し 苦い顔して
肩の震えを抑えたときに
いったい ぼくの生とはなにか
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