ここ数日、もしくはずっと前から気になっていることがある。非常に島国的なことなのかもしれないが、人とのあいさつのことである。
学校のときでも、仕事のときも、演劇の現場でも、生活の現場でも、あいさつは潤滑油のように人間関係を滑らかに流れさせる。あいさつがきちんとできる子どもは、やはりなんと言っても好印象ですがすがしい。決してマイナスになることはない。あるべきところにあいさつがないと、???と思ってしまい、そこから変な想像が発展していく。子どもに限らない。
もともとぼくはあいさつができるともできないともいえなくて、結構人を見てあいさつをするのだが、それだから、人があいさつをする・しないに接すると、いろいろ考えてしまうのである。
気を使うのは目上の人に対するあいさつ。しかも自分の利害が絡む人には、媚を売るようで気が引ける。それだから結構損をしているところもあって、ぼくが目上のその人を無視すると、次回からその人はぼくを無視し始めるのだ。それを見ていて面白がってしまうんだな。あ、あの人、俺に気づいていながら、曲がり角曲がったな。知らないふりしていやがらあ。
案外、目上の人で過去にほんの少ししかご一緒しなかった人でも、目下の人のことを覚えているものなのだ。
だからぼくはまた最近、自分からあいさつをしに行くことに決めたのだ。
逆に、自分と同世代か、自分より下の世代の人を相手にするときも、できるだけ自分からあいさつに行くのだが、面倒くさくもある。非常にせこせこした考えなのだが、なんで向こうからはあいさつにこないんだろう?と思ってしまい、向こうからやって来るまで待とうなんて思うんだな。ひねくれているのは重々承知だ。これと同じ考え方をする人が多いのは知っている。
いやあ、こんな小さいことが気になってしまうのは小さい人間だなとは思いながら、感じて思っていることには違いなく、そうした微妙な人間関係に気を使いながら生活をしなければならないのは避けられないなとも思う。
いろいろと人間関係が変化していくのは仕方ないことだが、数ヶ月前まで結構仲がよかったと思っていた人が数人、複雑な顔をしてぼくとあいさつをかわす。ぼくの側で変化はないのだが・・・なぜだ?・・・笑うしかない・・・笑っている場合じゃないか?・・・
学校のときでも、仕事のときも、演劇の現場でも、生活の現場でも、あいさつは潤滑油のように人間関係を滑らかに流れさせる。あいさつがきちんとできる子どもは、やはりなんと言っても好印象ですがすがしい。決してマイナスになることはない。あるべきところにあいさつがないと、???と思ってしまい、そこから変な想像が発展していく。子どもに限らない。
もともとぼくはあいさつができるともできないともいえなくて、結構人を見てあいさつをするのだが、それだから、人があいさつをする・しないに接すると、いろいろ考えてしまうのである。
気を使うのは目上の人に対するあいさつ。しかも自分の利害が絡む人には、媚を売るようで気が引ける。それだから結構損をしているところもあって、ぼくが目上のその人を無視すると、次回からその人はぼくを無視し始めるのだ。それを見ていて面白がってしまうんだな。あ、あの人、俺に気づいていながら、曲がり角曲がったな。知らないふりしていやがらあ。
案外、目上の人で過去にほんの少ししかご一緒しなかった人でも、目下の人のことを覚えているものなのだ。
だからぼくはまた最近、自分からあいさつをしに行くことに決めたのだ。
逆に、自分と同世代か、自分より下の世代の人を相手にするときも、できるだけ自分からあいさつに行くのだが、面倒くさくもある。非常にせこせこした考えなのだが、なんで向こうからはあいさつにこないんだろう?と思ってしまい、向こうからやって来るまで待とうなんて思うんだな。ひねくれているのは重々承知だ。これと同じ考え方をする人が多いのは知っている。
いやあ、こんな小さいことが気になってしまうのは小さい人間だなとは思いながら、感じて思っていることには違いなく、そうした微妙な人間関係に気を使いながら生活をしなければならないのは避けられないなとも思う。
いろいろと人間関係が変化していくのは仕方ないことだが、数ヶ月前まで結構仲がよかったと思っていた人が数人、複雑な顔をしてぼくとあいさつをかわす。ぼくの側で変化はないのだが・・・なぜだ?・・・笑うしかない・・・笑っている場合じゃないか?・・・
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