ドゥルーズとガタリの共著、『千のプラトー』を読み、それに関する参考書などを読んで、少しくらいかじっただけで、さも知り尽くしているかのように書くのは嫌いだが、ぼくには少しそんな要素もあり、さも知っているかのように、声を小さく、また少人数にだけ、ボロがでないように、そして自分の言葉を使って言い直すことにする。というより、日ごろ思っていたことが、ドゥルーズたちの本の後押しを受け、形にできたというべきか。
言いたいことは、真山青果の書いた『お夏清十郎』についての考えだ。あらすじを説明するのは面倒くさいから、気ままに書いてしまうが、真山版『お夏清十郎』の中には、さまざまな闘争が隠されている。そして語呂合わせではないが、その闘争の手段としての逃走も。
言ってみれば、この話は、ドゥルーズ流に言うなら、集団化・官僚組織化・ファッショ化・帰属化・抑圧・抑制・蓄積・定住化に向かう偏執型(パラノイア)と、逃走・自由・遊牧・脱領土化・解放に向かう分裂型(スキソフレニー)の戦いなのではないか?
わかりやすく、戯曲に即していうと、資本の安定を求め個人を制御していく者と、その考えから逃れようと必死にあがく者との戦い。体制側と反体制。
端的にいえば、九右衛門とお夏の戦いに代表されるのだが、その図式は戯曲を読めば中心に書かれているのでここではおいておく。
反体制側は面と向かって戦うことはしない。面と向かって豪商の主人に歯向かえば、法律で罰せられてしまう。そこで、逃げる。逃げ道を用意する。まあ、お夏と清十郎が駈け落ちしたことがその代表例ではあるが、ほかにもある。
まず与茂七は、番頭の身分ながらアヴァンギャルドである。お夏に恋をしたために、家を出奔したり、清十郎に「そんなに一生懸命働いてどうする?」といってみたり、しまいには主人に「もう一度出直しなさい」と進言したり。
お亀も恋のために、もうこの商店では働かないことを決めたり、清十郎の処刑後にお夏に怨みを言いに詰め寄ったりする。
このふたりが、抑圧する者にたいして、身体で異議を唱えたことが、お夏と清十郎の駈け落ちのきっかけとなる。
また、体制側に属しながらも、半分身をかわしている者もいる。
久七はお夏をこきおろしているし、卯之吉は若年であることもありお夏たちに同情を隠せない。乳母は自分の職務以外には顔を突っ込まない。
抑圧する側の九右衛門ですら、徹底的な押さえつけはできない。おかくは微妙に権力を増長してきているが、そんなおかくも主人と妻の関係においては抑圧されているのだ。
反対に、不満を持った、逃走を企てるものたちはあるところでは他人を抑圧することにもなる。
こうして、大資本の資本家の考え方が、それから逃れようとする者たちの考え方と衝突し、ある人は考えを変え、またある人は考えをより一層強化し、その他の人は無力にも成り行きを見守ることになる。
その考えの原動力が、恋であり、結婚であり、友情であったりする。
そしてもっとも強い闘争心は、恋するものたちの取った行動によく現れる。いわば、恋をしなければこの戯曲の事件は成り立たない。恋をしたからこそ、闘争があり、逃走があったのだ。恋をした人間が本質的に誤りを犯していないところをみると、人間、常に恋をしているべきなのだろうか?
戯曲の終わりが、清十郎の幻影をお夏が追いかける場面で終わるのは象徴的である。清十郎はお夏から逃げるというよりも、生者から逃げるといったほうがふさわしい。逃げ道は死の国までつながっている。
これは堅固な封建時代だけの問題でなく、現代のこの今でもありうることだ。
そして、強くまとめ上げ、抑圧し、組織化する権力に対し、つねにどの時代でも逃走を企てるものがいる。無数の権力とともにその逃げ道は無数にある。
言いたいことは、真山青果の書いた『お夏清十郎』についての考えだ。あらすじを説明するのは面倒くさいから、気ままに書いてしまうが、真山版『お夏清十郎』の中には、さまざまな闘争が隠されている。そして語呂合わせではないが、その闘争の手段としての逃走も。
言ってみれば、この話は、ドゥルーズ流に言うなら、集団化・官僚組織化・ファッショ化・帰属化・抑圧・抑制・蓄積・定住化に向かう偏執型(パラノイア)と、逃走・自由・遊牧・脱領土化・解放に向かう分裂型(スキソフレニー)の戦いなのではないか?
わかりやすく、戯曲に即していうと、資本の安定を求め個人を制御していく者と、その考えから逃れようと必死にあがく者との戦い。体制側と反体制。
端的にいえば、九右衛門とお夏の戦いに代表されるのだが、その図式は戯曲を読めば中心に書かれているのでここではおいておく。
反体制側は面と向かって戦うことはしない。面と向かって豪商の主人に歯向かえば、法律で罰せられてしまう。そこで、逃げる。逃げ道を用意する。まあ、お夏と清十郎が駈け落ちしたことがその代表例ではあるが、ほかにもある。
まず与茂七は、番頭の身分ながらアヴァンギャルドである。お夏に恋をしたために、家を出奔したり、清十郎に「そんなに一生懸命働いてどうする?」といってみたり、しまいには主人に「もう一度出直しなさい」と進言したり。
お亀も恋のために、もうこの商店では働かないことを決めたり、清十郎の処刑後にお夏に怨みを言いに詰め寄ったりする。
このふたりが、抑圧する者にたいして、身体で異議を唱えたことが、お夏と清十郎の駈け落ちのきっかけとなる。
また、体制側に属しながらも、半分身をかわしている者もいる。
久七はお夏をこきおろしているし、卯之吉は若年であることもありお夏たちに同情を隠せない。乳母は自分の職務以外には顔を突っ込まない。
抑圧する側の九右衛門ですら、徹底的な押さえつけはできない。おかくは微妙に権力を増長してきているが、そんなおかくも主人と妻の関係においては抑圧されているのだ。
反対に、不満を持った、逃走を企てるものたちはあるところでは他人を抑圧することにもなる。
こうして、大資本の資本家の考え方が、それから逃れようとする者たちの考え方と衝突し、ある人は考えを変え、またある人は考えをより一層強化し、その他の人は無力にも成り行きを見守ることになる。
その考えの原動力が、恋であり、結婚であり、友情であったりする。
そしてもっとも強い闘争心は、恋するものたちの取った行動によく現れる。いわば、恋をしなければこの戯曲の事件は成り立たない。恋をしたからこそ、闘争があり、逃走があったのだ。恋をした人間が本質的に誤りを犯していないところをみると、人間、常に恋をしているべきなのだろうか?
戯曲の終わりが、清十郎の幻影をお夏が追いかける場面で終わるのは象徴的である。清十郎はお夏から逃げるというよりも、生者から逃げるといったほうがふさわしい。逃げ道は死の国までつながっている。
これは堅固な封建時代だけの問題でなく、現代のこの今でもありうることだ。
そして、強くまとめ上げ、抑圧し、組織化する権力に対し、つねにどの時代でも逃走を企てるものがいる。無数の権力とともにその逃げ道は無数にある。
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