今朝は久しぶりの早起きで6時には起きている。時間が長くて、やっぱり早起きはいいものなのだなと実感。それが毎日できれば・・・毎日できれば・・・とチェーホフの『三人姉妹』のように願いをかけたいぐらいだな。
先日、20歳の若い友人と話をしたのだが、彼はニーチェの超人思想に心酔している風情があり、自分の人生の重大な転機を失望で終わったたために、「神は死んだ」と言うのであった。ぼくからみれば、まったくささいなことを重大視しているように見えて、それはそれで共感はできるのだけれど、簡単に結論づけてはほしくないなと感じたものだ。
たしかに分かるんだな、ぼくなんてもっとひどかったかもしれない。
はじめて東京に出てきて、兄と一緒に不動産屋で物件を探していたのだが、18くらいのぼくにはそれが何か汚いことをしているようで、たまらなくベソをかいてしまったのだ。そのときはいたく心に響いたものだ。
ぼくが大学を卒業して、ようやく自分の殻の外に意識を向けられるゆとりをもったとき、5,6歳の歳の差の友人たちとぼくの差がこんなにも大きいのかと愕然としたことがある。ぼくは何も知らない、何もできない。たった、5,6歳の違いがこんなであることは、老人と比べてみたら、若い者は何も持っていないようなものだ。そこで自分の結論・判断というのも、無知だからこそ強く主張できるのではないかなんて考えたりもした。
多かれ少なかれ、どんな人もこのような人生を送るのじゃないのかな?自分が通ってきた道だからこそ、後の世代に寛容になれる。たしかに「いまどきの若い者は・・・」と皮肉な目をもつのも分かるが、ある意味、そんな苦言は甘い追憶から出てきているもので、敵意をもつまでに後代を憎むのは間違っている。寛容にならなければ。
というわけで「神は死んだ」というニーチェの苦闘の人生のつぶやきを、若い人が安易に利用しようが、それは笑ってユーモアで消化してあげないといけない。名言・格言にすがりたくなるのは、若い人だけに限らないし、どんなに若くても、幼少でも、その考えは、それなりに真理だから。
そんな悪戦苦闘している若者が、その次の日には前日に言った言動とはまるっきり反対のことを嬉々と行うのをたまに見かけるが、それは健康なことなんだな。そんな健康さが必要なのかもしれない。軽薄であるぐらいの健康さ。
いやあ、なんだか、お年寄りで、体にすぐれないかのような視点で書いてしまったな・・・
先日、20歳の若い友人と話をしたのだが、彼はニーチェの超人思想に心酔している風情があり、自分の人生の重大な転機を失望で終わったたために、「神は死んだ」と言うのであった。ぼくからみれば、まったくささいなことを重大視しているように見えて、それはそれで共感はできるのだけれど、簡単に結論づけてはほしくないなと感じたものだ。
たしかに分かるんだな、ぼくなんてもっとひどかったかもしれない。
はじめて東京に出てきて、兄と一緒に不動産屋で物件を探していたのだが、18くらいのぼくにはそれが何か汚いことをしているようで、たまらなくベソをかいてしまったのだ。そのときはいたく心に響いたものだ。
ぼくが大学を卒業して、ようやく自分の殻の外に意識を向けられるゆとりをもったとき、5,6歳の歳の差の友人たちとぼくの差がこんなにも大きいのかと愕然としたことがある。ぼくは何も知らない、何もできない。たった、5,6歳の違いがこんなであることは、老人と比べてみたら、若い者は何も持っていないようなものだ。そこで自分の結論・判断というのも、無知だからこそ強く主張できるのではないかなんて考えたりもした。
多かれ少なかれ、どんな人もこのような人生を送るのじゃないのかな?自分が通ってきた道だからこそ、後の世代に寛容になれる。たしかに「いまどきの若い者は・・・」と皮肉な目をもつのも分かるが、ある意味、そんな苦言は甘い追憶から出てきているもので、敵意をもつまでに後代を憎むのは間違っている。寛容にならなければ。
というわけで「神は死んだ」というニーチェの苦闘の人生のつぶやきを、若い人が安易に利用しようが、それは笑ってユーモアで消化してあげないといけない。名言・格言にすがりたくなるのは、若い人だけに限らないし、どんなに若くても、幼少でも、その考えは、それなりに真理だから。
そんな悪戦苦闘している若者が、その次の日には前日に言った言動とはまるっきり反対のことを嬉々と行うのをたまに見かけるが、それは健康なことなんだな。そんな健康さが必要なのかもしれない。軽薄であるぐらいの健康さ。
いやあ、なんだか、お年寄りで、体にすぐれないかのような視点で書いてしまったな・・・
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