もうここらへんで詩について書くのはやめようと思う。詩を書いていたときはそれが日課のように取り組んでいたのだが、書かなくなると、再び思い出したようにペンを取っても、勘を取り戻すのに時間がかかる。楽器をやるにしても、詩や小説を書くにしても、毎日継続することによって可能になるものがあるのだな。書かなくなって8〜9年になったのに、なぜ今頃持ち出したのか?それは謎である・・・
小説や詩や戯曲を読んでいて、なぜだかわからないが、ある部分にくると突然文章の宝が豊かに流れ出すことがある。作者も乗りに乗って書き綴るのだろうか、緊張感もリズムも見事につながっている。
たとえば井原西鶴の『好色五人女』のなかのお夏清十郎のくだり。話の結末を語り、しめくくるときの西鶴の筆は感傷味を帯びながら淀みなく流れる。
近松門左衛門の『曽根崎心中』の道行の場面なんかは文章も情感も流れるように続いていく。
昨日書いたキーツのオードのうちのひとつ『ギリシャ古甕のうた』も同じように情感の盛り上がりがある。
『ギリシャ古甕のうた』より
おまえは いまも穢れのない静寂の花嫁
沈黙と 緩やかな「時」の歩みに育てられた子ども
われらの詩よりも さらにうるわしい花の物語を
このように語り伝える 森の物語詩
テンペの楽土や アルカディアの谷間に住む
神々や人間の あるいは神人の 草の葉に縁どられた
どんな物語が おまえの甕に描かれているだろう
これは どんな人と神であろう また どんな恥じらい多い少女たちであろう
どんな狂おしい求愛が また その愛を拒む どんな抗いがあろう
どんな笛や どんな鼓が また どんな烈しい法悦があろう
(J.キーツ、出口保夫訳)
このあと詩も高揚してくる。キーツといはいえ、すべての詩に高揚があるわけでなく、そんな高揚した詩は稀なことなのかもしれない。しかし、詩人はそのような奔流のように流れるものを求めて、日々書き綴っているのかもしれない。演劇にしても同じように、なぜだか突然流れ出る勢いを意識的に作り出しているのかもしれない。
次の詩は、そんな奔流のような情感はないのだが、作って、何度も何度も推敲・書き直ししているときは、緊張感が持続していた記憶がある。
『ドミノ』
まるで こどものように
希望のドミノを並べるが
いくら注意をしても
いつも途中で崩れてしまう
それが あとかたもなく
崩れていくならいいけれど
そんな期待のドミノは
いつも途中で止まってしまう
そして おやつをまえに
ドミノ遊びをやめにして
崩れない 過去の幻想と
家と家族を築いていくのか
小説や詩や戯曲を読んでいて、なぜだかわからないが、ある部分にくると突然文章の宝が豊かに流れ出すことがある。作者も乗りに乗って書き綴るのだろうか、緊張感もリズムも見事につながっている。
たとえば井原西鶴の『好色五人女』のなかのお夏清十郎のくだり。話の結末を語り、しめくくるときの西鶴の筆は感傷味を帯びながら淀みなく流れる。
近松門左衛門の『曽根崎心中』の道行の場面なんかは文章も情感も流れるように続いていく。
昨日書いたキーツのオードのうちのひとつ『ギリシャ古甕のうた』も同じように情感の盛り上がりがある。
『ギリシャ古甕のうた』より
おまえは いまも穢れのない静寂の花嫁
沈黙と 緩やかな「時」の歩みに育てられた子ども
われらの詩よりも さらにうるわしい花の物語を
このように語り伝える 森の物語詩
テンペの楽土や アルカディアの谷間に住む
神々や人間の あるいは神人の 草の葉に縁どられた
どんな物語が おまえの甕に描かれているだろう
これは どんな人と神であろう また どんな恥じらい多い少女たちであろう
どんな狂おしい求愛が また その愛を拒む どんな抗いがあろう
どんな笛や どんな鼓が また どんな烈しい法悦があろう
(J.キーツ、出口保夫訳)
このあと詩も高揚してくる。キーツといはいえ、すべての詩に高揚があるわけでなく、そんな高揚した詩は稀なことなのかもしれない。しかし、詩人はそのような奔流のように流れるものを求めて、日々書き綴っているのかもしれない。演劇にしても同じように、なぜだか突然流れ出る勢いを意識的に作り出しているのかもしれない。
次の詩は、そんな奔流のような情感はないのだが、作って、何度も何度も推敲・書き直ししているときは、緊張感が持続していた記憶がある。
『ドミノ』
まるで こどものように
希望のドミノを並べるが
いくら注意をしても
いつも途中で崩れてしまう
それが あとかたもなく
崩れていくならいいけれど
そんな期待のドミノは
いつも途中で止まってしまう
そして おやつをまえに
ドミノ遊びをやめにして
崩れない 過去の幻想と
家と家族を築いていくのか
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