ここ最近は、近くで工事もなく、音楽もかけず、周囲でいろいろなつぶやきをする人もいなく、自分でひとりごとを言う習慣からも解放されたせいか、また、窓を開放しているせいでもあるか、虫の鳴き声が聞こえるようになった。とはいっても、田舎にいたときには、蛙の鳴き声や、夜に走る電車の音が遠くから聞こえてきたりして、その情緒には勝てないが、ここ東京の世田谷でも、季節の移り変わりとともに虫の鳴き声も変わってきている。単に、セミの声が聞こえなく、キリギリスなんだろうな、キーキーうるさい。こちらの気分も変わるのだからおもしろい。
隣の家から聞こえてくる音、電車などで隣に座った人たちの話し声を聞くのは楽しみであったりする。また、自分が話をしていても、隣から聞こえてくる話に耳をかたむけてしまうこともある。まあ、お隣で熱心に話している内容というものは興味が尽きないもので、その熱心さに好奇心が湧くのかもしれない。他愛もない会話というものは聞き逃すのに、そういった熱のこもった会話にはつい引き込まれてしまうものだ。
自分が喋らずに、聞いていることが多いほど、周囲の世界を感じることが多いのだろう。そんな沈黙を貫ければいいのだが、必ずしもそれが実行できるとは限らない。沈黙に耐えられないのではなく、沈黙することが許されない。たとえば、教師が沈黙した授業をすることは許されなく、被告人には許されても検察も弁護人も黙秘することは許されない。
こんな立場にたつと、自分の声しか耳に入ってこないか、自分に都合のいい声だけしか選ばなくなる可能性がある。
ある部分では活発に声を出しながら、またある部分では人の意見に耳を傾けるのは難しいことではある。しかも、人の発する意見というのはたいていがためになるものである。その両立をめざしたいものだが、
ああ、今夜のキリギリスの鳴き声はほんと美しいなあ・・・というわけで、おやすみ
隣の家から聞こえてくる音、電車などで隣に座った人たちの話し声を聞くのは楽しみであったりする。また、自分が話をしていても、隣から聞こえてくる話に耳をかたむけてしまうこともある。まあ、お隣で熱心に話している内容というものは興味が尽きないもので、その熱心さに好奇心が湧くのかもしれない。他愛もない会話というものは聞き逃すのに、そういった熱のこもった会話にはつい引き込まれてしまうものだ。
自分が喋らずに、聞いていることが多いほど、周囲の世界を感じることが多いのだろう。そんな沈黙を貫ければいいのだが、必ずしもそれが実行できるとは限らない。沈黙に耐えられないのではなく、沈黙することが許されない。たとえば、教師が沈黙した授業をすることは許されなく、被告人には許されても検察も弁護人も黙秘することは許されない。
こんな立場にたつと、自分の声しか耳に入ってこないか、自分に都合のいい声だけしか選ばなくなる可能性がある。
ある部分では活発に声を出しながら、またある部分では人の意見に耳を傾けるのは難しいことではある。しかも、人の発する意見というのはたいていがためになるものである。その両立をめざしたいものだが、
ああ、今夜のキリギリスの鳴き声はほんと美しいなあ・・・というわけで、おやすみ
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