やけに詩づいているというわけでもないが、せっかく詩のことを書いたから、調子にのって(?)続けてみたい。
まあ、そんなに詳しくはないし、系統立てて勉強したわけでもないので、好きな詩人には偏りがあるのかもしれない。翻訳の詩も同等にみなすので、翻訳のときは詩の音楽的な要素をぼくは考えていないのかもしれない。
物語詩というものを追求したことがあった。書き始めてかなり初期の頃だ。プーシキンやハイネ、ゲーテ、シラー、バイロンなどを読んだ。ホメロスの『イーリアス』もそういうわけだし、シェイクスピアの劇だっていってみればそういうわけだ。物語を詩で語る、詩の音楽的な響きの規制のもとで、物語を綴っていくということに興味を覚えた。そしてかなりの大作ができたんだな。その当時も今も、この作品には思いいれがあり、物語は陳腐だし表現は拙いが、何度も何度も推敲し手直しを加えたこともあって、その当時のぼくのレベルでは完成度は高いと自負している。でも、ここには公表しな〜い!!
そして12行詩というのにも凝った。なぜ12行なのかは知らないが、シェイクスピアのソネットしかり、ハイネや立原道造もしかり。抒情詩があまりくどくもなく、俳句・短歌のように短すぎもなくという、ベストな長さで読みやすかったし、憶えやすいのかもしれないな。12行を3,3,3,3で割るとか、4,4,4でわるとか、4,4,2,2で割るとか融通もきくし。
ぼくの詩をひとつ。というか、人の詩をそのまま載せるのは著作権などで問題なんだよね?自分のだったらかまわないわけさ。
松尾芭蕉もこんな雑文にはさんで俳句を披露したっけな。
(無題)
怒りでふりあげた右手が
次第に抑えられなくなり
そのうち容赦しなくなり
きれいに思えたものにまでふりおろされた
何でも捨てたゴミ箱が
楽しんだおもちゃでいっぱいになり
そのうち昔の手紙があふれだし
いとしく思えた愛情まで見つけだされた
ぼくがぼくをとがめる心は
今までもずっと無力で
いつまでも無力なままで
とうの日にどこかに置き忘れたかと思っていた
まあ、そんなに詳しくはないし、系統立てて勉強したわけでもないので、好きな詩人には偏りがあるのかもしれない。翻訳の詩も同等にみなすので、翻訳のときは詩の音楽的な要素をぼくは考えていないのかもしれない。
物語詩というものを追求したことがあった。書き始めてかなり初期の頃だ。プーシキンやハイネ、ゲーテ、シラー、バイロンなどを読んだ。ホメロスの『イーリアス』もそういうわけだし、シェイクスピアの劇だっていってみればそういうわけだ。物語を詩で語る、詩の音楽的な響きの規制のもとで、物語を綴っていくということに興味を覚えた。そしてかなりの大作ができたんだな。その当時も今も、この作品には思いいれがあり、物語は陳腐だし表現は拙いが、何度も何度も推敲し手直しを加えたこともあって、その当時のぼくのレベルでは完成度は高いと自負している。でも、ここには公表しな〜い!!
そして12行詩というのにも凝った。なぜ12行なのかは知らないが、シェイクスピアのソネットしかり、ハイネや立原道造もしかり。抒情詩があまりくどくもなく、俳句・短歌のように短すぎもなくという、ベストな長さで読みやすかったし、憶えやすいのかもしれないな。12行を3,3,3,3で割るとか、4,4,4でわるとか、4,4,2,2で割るとか融通もきくし。
ぼくの詩をひとつ。というか、人の詩をそのまま載せるのは著作権などで問題なんだよね?自分のだったらかまわないわけさ。
松尾芭蕉もこんな雑文にはさんで俳句を披露したっけな。
(無題)
怒りでふりあげた右手が
次第に抑えられなくなり
そのうち容赦しなくなり
きれいに思えたものにまでふりおろされた
何でも捨てたゴミ箱が
楽しんだおもちゃでいっぱいになり
そのうち昔の手紙があふれだし
いとしく思えた愛情まで見つけだされた
ぼくがぼくをとがめる心は
今までもずっと無力で
いつまでも無力なままで
とうの日にどこかに置き忘れたかと思っていた
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