演劇を見ていて一番いいなあと思うのは、そこに人間の生きざまが見えること、世界とそのとらえ方を見せてくれることなのだが、それにもまして、ある人間関係が変遷を経て回復することが大きいと思う。結末が大円団になるにせよ、破滅的な死で終わるにせよ、また次の日に続いていくようなものであるにせよ、劇の終わりは必ず解決がある。失った、もしくは断絶された人間関係がそれなりの決着をみる。そこに一種の安堵感があるのだ。まあ、ドラマなんだから必ず終わりらしきものはあるだろうといわれればそれまでなんだが・・・
劇のはじめの平衡状態が山場を経て、また違った平衡状態になる。はじめの平衡状態はぷつりぷつりと人間関係の糸がほころびをみせており、その糸がおもいっきり引っ張られ解体されて、また新たな人間関係の緊張をもつ。
映画を観ても思うのだが、たとえばモディリアニの映画なんかがそうだが、モディそのものの人物像には映画で発見するものはない。たいてい伝記で読むほうがおもしろく想像している。ただし、モディを取り巻く人々と彼の関係、彼の敵と彼の関係というものは、本で読んでも実感が湧かないし、だいいち一方的な見方であったりする。
この「人間関係」というものが俳優芸術の特権であり、それを表現するには俳優の演技を見るしかないと思うのだがどうであろう?演劇や映画やバレエなど、またオペラもそうだが、この芸術の構成要素のひとつが、その「人間関係」なのだと思う。生身の人間の存在だけでは物足りない。その人間の存在が他者とどのようなかかわり方をしていくかに、人は興味を持つのではないか?
演劇はコミュニケーションの芸術だといわれる。俳優と観客が世界を共有する場。また問いかけに応じる場。昔から劇場は社交場のようなものだ。すべてに開かれていなければいけないのだろう。だから、山ごもりとか、修行とか、秘密の稽古などというものは、演劇にそぐわない。少なくとも二人以上で、ひとりが問いかければ他が答えてくるような距離で創造するものなのだ。
自戒もこめていうのだが、一緒に稽古をしながらも、個人事業主としての個人主義を貫いて、心の交流をしないままに本番を迎えるのはよくないことだと思う。めいめいが勝手に自分の職責を果たせばいいのではない、演劇の世界ではアンサンブルといういい言葉があるように、共同で、しかもお互いがコミュニケートしながら作品を作りあげていくべきなのだ。
それだからこそ、壁をなくすことが重要になってくるし、演劇人のちっぽけなプライドが浮かんでこないようにすることが必要なのだ。
身近な俳優同士の人間関係が変化しない限り、役の人物の関係も変化しない。いい意味でお互いを知り合えば、得になることこそあれ、損することなどない。
ぼくには多くの素晴らしい演劇人の友達がいるが、その人たちはいつどこで会っても気のいい人たちなので、ぼくは安心する。そんな信頼がまた新たないい仕事につながると思っている。そして、できればその関係をもっともっと深めたいと思う。離れていく人はしょうがないが、身近にいる人をもっともっと知りたいと思う。すぐに芽を出す個人主義と皮肉な目は封印だ。できるかな?・・・
劇のはじめの平衡状態が山場を経て、また違った平衡状態になる。はじめの平衡状態はぷつりぷつりと人間関係の糸がほころびをみせており、その糸がおもいっきり引っ張られ解体されて、また新たな人間関係の緊張をもつ。
映画を観ても思うのだが、たとえばモディリアニの映画なんかがそうだが、モディそのものの人物像には映画で発見するものはない。たいてい伝記で読むほうがおもしろく想像している。ただし、モディを取り巻く人々と彼の関係、彼の敵と彼の関係というものは、本で読んでも実感が湧かないし、だいいち一方的な見方であったりする。
この「人間関係」というものが俳優芸術の特権であり、それを表現するには俳優の演技を見るしかないと思うのだがどうであろう?演劇や映画やバレエなど、またオペラもそうだが、この芸術の構成要素のひとつが、その「人間関係」なのだと思う。生身の人間の存在だけでは物足りない。その人間の存在が他者とどのようなかかわり方をしていくかに、人は興味を持つのではないか?
演劇はコミュニケーションの芸術だといわれる。俳優と観客が世界を共有する場。また問いかけに応じる場。昔から劇場は社交場のようなものだ。すべてに開かれていなければいけないのだろう。だから、山ごもりとか、修行とか、秘密の稽古などというものは、演劇にそぐわない。少なくとも二人以上で、ひとりが問いかければ他が答えてくるような距離で創造するものなのだ。
自戒もこめていうのだが、一緒に稽古をしながらも、個人事業主としての個人主義を貫いて、心の交流をしないままに本番を迎えるのはよくないことだと思う。めいめいが勝手に自分の職責を果たせばいいのではない、演劇の世界ではアンサンブルといういい言葉があるように、共同で、しかもお互いがコミュニケートしながら作品を作りあげていくべきなのだ。
それだからこそ、壁をなくすことが重要になってくるし、演劇人のちっぽけなプライドが浮かんでこないようにすることが必要なのだ。
身近な俳優同士の人間関係が変化しない限り、役の人物の関係も変化しない。いい意味でお互いを知り合えば、得になることこそあれ、損することなどない。
ぼくには多くの素晴らしい演劇人の友達がいるが、その人たちはいつどこで会っても気のいい人たちなので、ぼくは安心する。そんな信頼がまた新たないい仕事につながると思っている。そして、できればその関係をもっともっと深めたいと思う。離れていく人はしょうがないが、身近にいる人をもっともっと知りたいと思う。すぐに芽を出す個人主義と皮肉な目は封印だ。できるかな?・・・
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